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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2005年3月

日本語 / English / Français
最終更新: 2005年3月31日
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■アフリカ詰め込み教育! (2005/03/31)
■ホリエモンの誕生 (2005/03/29)
■カメルーン日記2005 (10) 日本のろう者が見たアフリカ (2005/03/28)
■カメルーン日記2005 (9) ありがとうを乗り継いで (2005/03/27)
■カメルーン日記2005 (8) はじめての小セミナー (2005/03/26)
■カメルーン日記2005 (7) 熱帯、雨、停電 (2005/03/25)
■カメルーン日記2005 (6) 日本映画祭 in カメルーン (2005/03/24)
■カメルーン日記2005 (5) 手話コミの力 (2005/03/23)
■カメルーン日記2005 (4) ある村のろう学校に思う (2005/03/22)
■カメルーン日記2005 (3) イスラムのろう者 (2005/03/21)
■カメルーン日記2005 (2) サヘルの町で (2005/03/20)
■カメルーン日記2005 (1) 帰国しました (2005/03/19)


2005年3月31日 (木)

■アフリカ詰め込み教育!

この半年、大学で本格的なアフリカ入門講義をやったところ、学生アンケートで「知識の押し付けだ」「詰め込み教育反対!」と不満が出た。そうか、そうか。^^

でもね。みなさんがいま新聞を読めるのはどうしてか分かりますか? 小学生のとき、先生が漢字の読み方や都道府県の名前を詰め込んでくれたおかげなのだよ。

残念ながら、日本の教育はアフリカをほとんど教えない。だから、大学ではじめて「新聞が読める程度のアフリカのイロハ」を覚えてもらった。小学生は文句を言わないが、大学生は文句を言うね。

「アフリカっていえばー、自然とか、貧困とか、遅れてるとか?」

そう言っていた君が、半年後に「セネガルとジンバブエの違い」を説明できるようになった。これは大きな達成だよ。誇りに思ったらいい。

さて、明日から新年度。はりきっていきましょう。


2005年3月29日 (火)

■ホリエモンの誕生

アフリカ調査から帰ると、いつも軽い「浦島状態」になる。日本のニュースが分からない。というか、ニュースが作り出すイメージが分からない。

香港返還、ダイアナ事故死、山一廃業、小泉訪朝、田中耕一ノーベル賞、アテネ五輪。すべて私がアフリカにいたときのことだった。でも、どうして田中耕一氏が「癒し系」になったのか、後から説明を聞いても実感できないのである。

今回帰国して意味不明だったのは「ホリエモン」。「プロ野球再生の神様」だったライブドアの堀江社長が、帰ってきたら一転「証券市場の悪役」になっていた。しかも、いつからこの人は「ホリエモン」になったんだ?

自分の金で株を買って、どうしてそんなに責められるのかよく分からないのだが、この際理屈はどうでもいいのだろう。その時々の<いい者/悪者>を覚えておけば、ニュースにはついていけるだろうから。


2005年3月28日 (月)

■カメルーン日記2005 (10) 日本のろう者が見たアフリカ

今回、初めて私のつれあい(ねこ)がカメルーンに同行した。

日本のろう者が眺めたアフリカとは?

詳細は、本人が書いているメルマガ『デフ・ジャーナル』を見てくださいね。以上、宣伝協力でした。

[カメルーン日記2005・終]


2005年3月27日 (日)

■カメルーン日記2005 (9) ありがとうを乗り継いで

帰りの飛行機は天候不順でスケジュールが変更となり、パリ、フランクフルト、さらに上海でも乗り換えることになった。

「メルシ」から始まって、「ダンケ」「シェシェ」「ありがとう」。空港で乗り換えるたびにお礼の言葉が変わっていく。いくつものありがとうを乗り継いで地球を半周。40時間くらいかけ、機内食を5-6回食べて、ようやく日本に到着した。

帰って自宅のパソコンを開けたら、さっそくカメルーンのろう者たちからメールが入っていた。

「ぶじ着いたか?」「次はいつ来る?」「写真送って」

はいはい。^^ まったく、地球は広いようでせまいものです。

[つづく]


2005年3月26日 (土)

■カメルーン日記2005 (8) はじめての小セミナー

帰国前の日曜日、カメルーンのろう者団体が小セミナーを開いてくれた。パワーポイントの写真を見ながら、私の研究の概要を聞くという企画である。カメルーンのろう者の前で発表するのは初めて。カメルーンの手話で研究発表するのも初めて。

私にとってカメルーンのろう者たちは、「調査対象」というよりも「共同研究者」に近い。議論は白熱し、大成功だった。

カメルーンのろう者の間に研究の種を一粒まく。それが興味の核となり、人材を呼び、次の研究を生み出していく。そんな循環ができればいいなあ。打ち上げで赤ワインを飲みながら、ここのろう者たちと手話の未来のために乾杯した。

[つづく]


2005年3月25日 (金)

■カメルーン日記2005 (7) 熱帯、雨、停電

雨が降る。夕方サーッと曇ったかと思うと、どしゃぶりのザアザアがやってきた。そして、電気が切れる。暗闇。

首都では、いつも知人のろう者の家に居候させてもらっている。ここの家はとりわけ雨の後に停電が多い。

ろうそくで仕事をするのもどうかなと思うから、暗闇の中、ベッドに寝転がる。元気なようでいて体は疲れているらしく、手足はこわばっている。こうやって休み休みやるのも、熱帯の仕事のやり方だ。じっとりとした闇の中、いつになるか分からない点灯を待つ。

この日、約束していた人は現れなかった。雨が降ればすべて延期になる。それもこの土地の生き方であり、知恵である。

[つづく]


2005年3月24日 (木)

■カメルーン日記2005 (6) 日本映画祭 in カメルーン

首都では、ちょうど日本大使館主催の「日本映画祭」が開かれていた。

「フランス語字幕付き」とあったので、ろう者の友人を誘ってみたら、来るわ来るわ、ろう者たちが10人ほど連れだってやってきた。一緒に、フランス語をしゃべる寅さんを見た。

御前様を指して「あれが日本のBouddhisme(仏教)か」と聞かれ、暗がりの中で手話で説明したり。文化交流大使の役目は果たしたかな。

[つづく]


2005年3月23日 (水)

■カメルーン日記2005 (5) 手話コミの力

国内移動のため飛行機を使った。空港で降りたら、ポーターの一人に見覚えのある顔。あ、2年前に会ったろう者だ。教会で会ったことがある。

「あ、あんたろう者やろ」
「おお、カメイ、カメルーンに来てたのか!」
「名前、何だっけ」
「これ(指文字Kを胸に当てる)だよ!」
「ああ、そうだった。すまんすまん」

空港の出口で見つかってしまうんだからなあ。この国でおしのび旅行なんてとてもできません。

数日後、別のろう者からメールが入った。「聞いたぞ、カメイ、いま来てるんだって?」…この早さ。口コミならぬ、手話コミの伝達力である。

[つづく]


2005年3月22日 (火)

■カメルーン日記2005 (4) ある村のろう学校に思う

この地域のある村にろう学校が一つでき、耳の聞こえないこどもたちが方々から集まった。

補聴器はないし、もらっても電池が替えられない。そもそも精密機械は暑さで壊れてしまう。だから、聞こえない子、聞こえにくい子はろう学校に入れる。ここではそんな感じである。教会の一部屋に何学年も詰め込まれているが、そこに集まるこどもたちはニコニコと輝いている。

現金収入の乏しい親たちから学費を集めるのは至難のわざ。給料が十分払えないから辞める先生もいるが、また次に先生になる人もいる。どちらにしても、農村だから食べるにはさほど困らない。校長も「学費の問題が難しい」とは言うが、どうも不幸な感じがしない。

「子どものために」と眉をひそめ、熱く、難しく、険しくなりすぎている日本のろう教育論争。ここの村みたいに、聞こえない子のための学校が一つあってよかった、という程度で終わっていいのでは。

[つづく]


2005年3月21日 (月)

■カメルーン日記2005 (3) イスラムのろう者

北部カメルーンはイスラム圏だ。クリスチャンのろう者は、世界各地に手話で営まれる教会を作ってきたが、イスラム文化ではどうなのだろう。かなりしつこく聞いてみたが、ろう者が集まるモスクというのはこのあたりにはなかった。

そのかわり、イスラム教徒のろう者たちが定刻に礼拝する場面を目にすることができた。10分ほどの間、まったく言葉は使わない。各自目をつぶり、黙って立ったり座ったりを繰り返して、メッカの方角に礼拝する。聴者もろう者も、することは同じ。

考えてみれば、キリスト教はやたら言葉を使う宗教だ。聖書を読んだり、歌ったり、説教を垂れたり。だからこそ手話で集まるニーズも高いのかな。静かなイスラムの礼拝を見て、そんなことを想像した。

[つづく]


2005年3月20日 (日)

■カメルーン日記2005 (2) サヘルの町で

今回の調査の目的の一つは、カメルーン北部イスラム圏のろう者を訪問し、ろう教育と手話の歴史を明らかにすることだ。サハラ砂漠にほど近いサヘルの町ガルア。飛行機から出たら熱風がふきすさぶ。いきなりすごい歓迎だ。

暑い。とにかく暑い。息を吸うと、鼻先がちりちりと痛い。サウナに入ったときのあの感覚だ。気温は40-45℃くらいだろうか。

街路を歩いているときは、直射日光で汗もすぐ乾くからまだマシだ。家の中に入ったらハンパに涼しいから、滝のような汗が出る。服もメガネもノートもべとべと。メガネに伝わった汗は、一瞬で乾いて塩の固まりになる。塩で白くなって見えなくなるから、メガネをふきながらインタビューをする。日本製のボールペンは、あっというまに筆先が乾いて書けなくなった。

この暑さで唯一気分がいいことは、洗濯物がすばやく乾くこと。昼下がりに休息がてらTシャツを洗い、夕方散歩から帰ってきたら、もう乾いている。それから水道水だけはふんだんに出たので、一日5回くらい冷水シャワーをあびる。こんなことが幸せである。

[つづく]


2005年3月19日 (土)

■カメルーン日記2005 (1) 帰国しました

カメルーンより帰国しました。

日本に帰ってきたことを一番実感したのはどんなときだったか。日本語を聞いたときでもなく、スシを食べたときでもない。それは「冷たい便座に座ってヒヤリとしたとき」。

熱帯のカメルーンでは決して体験しないこと。皮膚感覚が、高緯度地域=日本に戻ってきたことを実感させてくれた。

カメルーン調査のトピックをシリーズでご紹介します。

[つづく]


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