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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2005年9月

日本語 / English / Français
最終更新: 2005年9月28日
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■映画『ホテル・ルワンダ』を見ようよ! (2005/09/28)
■愛と怒りの地球博ルポ (8) 手話を振る人たち (2005/09/26)
■愛と怒りの地球博ルポ (7) ペンで作った凱旋門 (2005/09/23)
■愛と怒りの地球博ルポ (6) もうひとつの日本の言語 (2005/09/22)
■愛と怒りの地球博ルポ (5) 政府よ、おまえもか (2005/09/21)
■愛と怒りの地球博ルポ (4) アフリカがんばれ (2005/09/20)
■愛と怒りの地球博ルポ (3) アジアな幸せ (2005/09/19)
■愛と怒りの地球博ルポ (2) 仮構の街を歩く (2005/09/18)
■愛と怒りの地球博ルポ (1) 「いんぐりっしゅ」の衝撃 (2005/09/17)
■1行の美学 (2005/09/12)
■信長を慕う政治家たち (2005/09/09)
■追憶のニューオーリンズ (3) 異文化情緒の真実 (2005/09/08)
■追憶のニューオーリンズ (2) 黒人たちの街 (2005/09/07)
■追憶のニューオーリンズ (1) フランスの植民地 (2005/09/06)


2005年9月28日 (水)

■映画『ホテル・ルワンダ』を見ようよ!

映画『ホテル・ルワンダ』を日本で見ようよ!という話。

1994年、アフリカのルワンダで、3ヶ月で100万人もの人たちが殺されるという凄惨な事件があった。

その虐殺事件をテーマにした『ホテル・ルワンダ』という映画ができた。アカデミー賞候補としても注目されたが、日本では上映されないという。「採算がとれない」というのが理由らしい。

そんなぁ…と私は思う。そもそもこの事件は、国際社会が黙殺したことで被害が拡大したと言われている。その歴史を取り上げた映画を、ふたたび黙殺してしまうの?

読者のみなさん、ワンクリックのボランティアを。

『ホテル・ルワンダ』日本公開を求める会


2005年9月26日 (月)

■愛と怒りの地球博ルポ (8) 手話を振る人たち

ルポのとどめは、このネタにしたい。閉会式でのできごとである。
未来へ「アイ・ラブ・ユー」 閉会式、幸せな世界 手話で誓う 

(中略)神木さんは人さし指と親指、小指をたてた「アイ・ラブ・ユー」を意味する手話のポーズをして「未来の子どもに約束しよう」と呼びかけた。皇太子さまや小泉純一郎首相も一緒にポーズを取りながら手を振り、万博で得た知識や経験を未来に生かすことを約束した。[中日ウェブプレス]

閉会式で、スタッフ、ゲスト、観客みんなが手話を振って、最後を飾ったんだとさ。めでたしめでたし。…と喜んでいる場合ではない。

・「アイ・ラブ・ユー」は日本手話の単語ではありません
・アメリカ手話を一単語振ったって、世界は幸せになりません
・万博の知識や経験の多くは、手話に訳されていません
・言語政策に責任を持つ首相が、アメリカ手話で遊んでいる場合ではありません
・こんなところだけ、手話を利用しないでください

どうかみなさん、こんなことで感動しないでくださいね。「バリアフリーの万博だった」などと後々語られないためにも、私はしっかりと記録しておきますから。

→ [愛と怒りの地球博ルポ・終]


2005年9月23日 (金)

■愛と怒りの地球博ルポ (7) ペンで作った凱旋門

怒ってばかりいても何だから、感動を一つ書きたい。

今回の見物で私が一番感銘を受けたのは、ペンで作った凱旋門(「平和行進曲II 智恵の門」)。

台湾出身の在米アーティスト林世宝氏が、市民から寄付された使い古しのペンやエンピツ30万本を使って、大きな門をつくった。武力のシンボルである凱旋門を筆記用具でうめつくし、「ペンは剣よりも強し」のメッセージをこめたという作品である。

30万本のペンの山を見上げていると、人間の「書く」ことへの情熱が伝わってくるようだ。どれもだれかの手で握られ、いろんな言語でさまざまな文章をつづってきたのだろう。その集まりの強さは、なるほど、武力を圧倒する迫力がある。

瀬戸会場という飛び地にあって、どのくらいの人の目に触れたか分からないが、私には行列なしにだれもが見ることのできるこの作品が、一番印象に残った。

[つづく]


2005年9月22日 (木)

■愛と怒りの地球博ルポ (6)もうひとつの日本の言語

瀬戸日本館の劇場に入る。
「ただいまより、場内は暗くなります」
…ってあんた、真っ暗になったらパンフも何も読めないよ!

急遽、私は近くのスタッフに駆け寄って交渉した。
「私の同行者が耳が聞こえないので、パンフを見ながら劇を見ます。
 真っ暗になったら読めません。
 明るい席はありませんか。または懐中電灯はありませんか」

スタッフがすぐさま電話で話を付け、ペンライトを貸してくれた。私たちは、ライトで手元のパンフを小さく照らしながら、劇を見た。現場スタッフの対応はすばやくてよかったけれど、それができるならどうしてはじめから字幕を準備しないかね。

劇では、日本語の詩歌やことわざ、早口言葉などを紹介。日本語の美しさというのがテーマであるらしい。

「日本手話だって日本の言語だもんね」
「日本館の言語に、どうして手話が含まれないわけ!?」

私たちは手話でぶつくさ文句を言いながら、自分たちの税金で作られたパビリオンを出た。

[つづく]


2005年9月21日 (水)

■愛と怒りの地球博ルポ (5) 政府よ、おまえもか

瀬戸日本館(日本政府出展)の入館整理券をもらったときのこと。

整理券を配布するスタッフが、私たちの手話の会話を見て、手話で話しかけてきた。

「ろう者ですか。どうぞ、どうぞ」

おお! 万博会場で初めて見た手話だった(=最初で最後)。

その人は、いろいろ言っていた。
「補聴器は? 使わないのですね」
「字幕は、ありません」
「演劇のセリフは、このパンフを見てください」

つまり「入ったらろう者へのサポートはありません」ということを伝えるために、この人は配置されていたのだった。それって、バリアフリーと言えるのかなあ。

[つづく]


2005年9月20日 (火)

■愛と怒りの地球博ルポ (4) アフリカがんばれ

アフリカ共同館を見に行った。なかば仕事、なかば趣味。

アフリカ共同館の出展は、どこもみやげ物屋の色が強かったな。アフリカ諸国もアジアに負けず、バナナ料理など、自慢の食べ物の店をもっと出せばよかったのにね。ふだん自分の国の道ばたでやっているように。

南アの少年合唱団が、舞台で歌を披露していた。白人と黒人それぞれ9人ずつ、ちょうど同数にそろえているあたりに、人種の対等と融和を見せたいという配慮があるように見えた。

アパルトヘイトの時代、声での会話を禁止されていた黒人労働者たちは、長靴を踏みならして合図を送り合ったという。それをダンスにアレンジし、黒人と白人の少年たちが一緒になって長靴をはき、「名誉白人」の国だった日本の舞台で披露している。

よいとか悪いよりも、こうやって過去のすべてをどん欲に飲み込んでネタにしてしまう。歴史とはすごいものだ。

[つづく]


2005年9月19日 (月)

■愛と怒りの地球博ルポ (3) アジアな幸せ

国民総幸福の切手 私たちは、企業館よりも外国館、それも欧米先進国以外の所を訪ね歩くことが多かった。気軽に異文化散策を楽しめるから。それに、有名な国は行列がすごいから。

アジア系は、どこもお国自慢の料理を出していて、買い食いが楽しい。ラオスの焼きそばなんて、なかなかよかったな。土地のビールも。

今回手に入れた宝は、ブータンの国民総幸福の切手。ブータン王国は、国民総生産(GNP: Gross National Product)よりも国民総幸福(GNH: Gross National Happiness)を目指すと宣言した唯一の国。お金よりも幸せを、という素朴な心情を国是にした大胆な国だ。

ブータン館で、その記念切手を見つけた。日本円で100円。大事にしようと思う。

[つづく]


2005年9月18日 (日)

■愛と怒りの地球博ルポ (2) 仮構の街を歩く

どこへ行っても、人、人、人。館の見学だけでなく、物を食べる、乗り物に乗る、土産を買う、何をするにも並ばないといけない。ここで許される自由とは、地面を歩くことぐらい。

限られた設備に多くの人が一度に押し寄せるのだから、キャパシティが足りなくなるのは当たり前か。テーマ以外のものが見当たらないこの地区は、不思議な街である。

場内では、車いすの人を多く見かけた。車いす来場者への対応がある程度できているということなのかな。と思ったとき、(じゃあどうしてふだん街中でたくさん見かけないのだろう)ということがかえって気になってしまった。

万博会場でバリアフリーをきっちりやるのは、かまわない。というか、必要だ。しかし、6ヶ月で閉めてしまう仮構の街にかぎってそういうことができている、というのも、それはそれで問題だと思う。

[つづく]


2005年9月17日 (土)

■愛と怒りの地球博ルポ (1) 「いんぐりっしゅ」の衝撃

つれあい(ろう者)と一緒に、愛・地球博に行った。

入場後、私たちがいつものように手話で話しながら、手荷物保管所に行ったときのこと。スタッフは、開口一番こう言った。

ス「いんぐりっしゅ?」
私「はぁ?」

「日本語を話さない人=外人=英語」という思考回路かい。私は無視した。

私「お願いします!」(怒) カバンをドン。
ス「…?」

勘違いスタッフには、びっくりしてもらうに限る。手話を話す客が来ることも想定していない、このモラルと知識の低さ。私たちの万博見物は、こうして始まった。

シリーズで地球博ルポをおとどけします。愛と怒りをこめて。

[つづく]


2005年9月12日 (月)

■1行の美学

『これから出る本』という、新刊本の情報誌がある(社団法人日本書籍出版協会発行、月2回)。これがおもしろい。

何百冊と出る新しい本について、紹介文が1行ずつ載っている。1冊の本の中身を、なんと1行で表現しているんです。

20文字ていどで何千円からの本を買わせようというのだから、各社の担当者の気迫十分。選びぬかれた言葉に、ある種の美しさを感じます。

そこで、私も「おもな業績の一行要旨」のページをつくってみました。自分が書いた論文のエッセンスを、たった1行で紹介してみるのです。うーむ、ふだんの文章がいかにぜい肉だらけか、よく分かるようです。

研究者のみなさんも、いかがですか?


2005年9月9日 (金)

■信長を慕う政治家たち

選挙たけなわ。マスコミによれば、小泉首相と岡田民主党代表のどちらも「尊敬する人は織田信長」と言っているそうだ。

なるほど。あれも確かに外圧でできた政権だったなあ(という説あり)。ポルトガル人の来航って、いわばグローバリゼーションの走りですから。外圧を利用したりされたりして権力を握り、国内抵抗勢力は山ごと焼き討ちに。(汗)

そういう政治家を慕う二人のどちらかが首相になって、さて何をする気かな?


2005年9月8日 (木)

■追憶のニューオーリンズ (3) 異文化情緒の真実

ジャンバラヤにガンボ(オクラを使ったスープ)。地元の人おすすめのお店で食べたのがおいしかったので、後でレシピ付きの調味料セットなどを買った。土産物屋には、ビン・ラディンの顔をラベルに描いたタバスコ。悪い冗談か、観光地ならではの便乗商法か。いろいろ買って、自宅に送ったり、知人にあげたりした。

先週、ハリケーンの直撃で、ニューオーリンズは水没した。車を持たない多くの市民が、避難できずに死んだ。生き残った人は空腹に耐えて救助を待ち、一部は略奪や銃撃におよんだ。取り残された市民の多くが、黒人だった。

「異文化情緒の観光都市」とは、一面で、アメリカが置き去りにしてきたコミュニティだったのかもしれない。廃墟となったあの街が、毎日テレビに映し出される。これは天災でありながら、人災でもあると思う。奴隷貿易と植民地争奪戦の複雑な歴史を抱えながら、多文化と自己責任の名において都市生活の基盤を整えてこなかった、アメリカの敗北。

憤りとむなしさのまざった何とも悲しい思いで、日々のニュースを見ている。

→ [追憶のニューオーリンズ・終]


2005年9月7日 (水)

■追憶のニューオーリンズ (2) 黒人たちの街

ニューオーリンズの街を行く人たちの多くは黒人だ。

ホテルのフロントやボーイは黒人。スーパーのレジを打つのも、黒人のおばさん。ストリートでジャズを披露する青年たちも、黒人。大通りでは、黒人の中高生たちがつるんでハンバーガー屋にたむろする。

アフリカでなら見慣れた光景だが、アメリカで黒人マジョリティの風景を見るのは初めてだった。もっとも、アフリカでないということは、言葉を聞けば分かる。みんなアメリカ英語を話すから。

ホテルのロビーには、この街が生んだ黒人スター、ルイ・アームストロングの像が立っていた。ジャズのスターたちの肖像は、公共の場でも土産物屋でも、いろいろなところで見た。街の誇りでもあり、観光資源でもあるのだろう。

ただ、学会に参加して驚いた。会場であるホテルに一歩入ったら、参加者のほとんどは白人だった。アメリカ中の大学から集まって来た研究者たちである。

たてまえはともかく、この国では肌の色が学歴や階層と深く関わっている。そのことを、風景から感じないわけにいかなかった。

[つづく]


2005年9月6日 (火)

■追憶のニューオーリンズ (1) フランスの植民地

3年前、学会参加のため、アメリカのニューオーリンズを訪れたことがある。

元はフランスの植民地。パリで「ニューオーリンズ New Orleans に行くんです」と言ったら、「ヌーヴェル・オルレアン Nouvelle Orleans のことね」と言い直された。フランス語の感覚では、いまだにフランスの植民地なのかな。

大西洋を運ばれてきた黒人奴隷を「荷揚げ」する港だった。ナポレオンがこの地をアメリカに売り飛ばした後もフランス系住民は住み続け、一部にフランス語の影響が残る。食文化も、フランス系を基調にカリブ海の食文化が混交する。解放された黒人たちがマジョリティとなり、ジャズを生み、世界に発信する。

アメリカ史の中で、ニューオーリンズは異質な町なのかもしれない。ピューリタン入植からこのかた、自分たちのスタイルを大陸中に押し広げてきたというアメリカの歴史観からすれば、複数のルーツの文化が混交するニューオーリンズは、特異な存在だ。だからこそ、観光地として有名にもなったのだろう。

一方、飛行機で隣に乗り合わせた地元の人は、「教育や経済は全国最低レベルなのよ」と苦笑した。「異文化情緒のただようジャズの都」は、そういう一面を持っている。

[つづく]


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