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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2006年2月

日本語 / English / Français
最終更新: 2006年2月26日
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■ガーナ日記2006 (12) 離陸時の痛み (2006/02/26)
■ガーナ日記2006 (11) ろう者協会のセミナー (2006/02/25)
■ガーナ日記2006 (10) 郵便局に通う研究者 (2006/02/22)
■ガーナ日記2006 (9) ガーナ人の対日戦争 (2006/02/19)
■ガーナ日記2006 (8) 歴史の証人を訪ねて (2006/02/18)
■ガーナ日記2006 (7) 国立学校の功罪 (2006/02/17)
■ガーナ日記2006 (6) 真のガーナチョコ (2006/02/15)
■ガーナ日記2006 (5) 熱帯の悪夢 (2006/02/14)
■ガーナ日記2006 (4) ろうの村 (2006/02/09)
■ガーナ日記2006 (3) 万人てだれのこと? (2006/02/08)
■ガーナ日記2006 (2) アフリカろう教育発祥の地 (2006/02/05)
■ガーナ日記2006 (1) 札束の国 (2006/02/03)


2006年2月26日 (日)

■ガーナ日記2006 (12) 離陸時の痛み

帰国へ。いつも思うが、現地の空港を離陸する瞬間が嫌いだ。

フィールドワークは、楽しいこともめんどうなこともすべて含めて、べたな人付き合いの中で仕事をする。毎日毎日会ってしゃべってなんぼの商売。

飛行機がぐっと加速して離陸する瞬間、そういう人付き合いの数々から強制的にひきはがされるような痛みを感じる。なじんだ町並みは、あっという間に風景の一点になってしまった。

さて、感傷にひたっている場合ではないな、と、ノートの束を取り出す。日本に着いたら、また新しい仕事の山が待ち受けているから、日本に着いてしまうまでが勝負だ。記憶の新しいうちに、とさっそくノートの山の整理にとりかかったのだった。

→ [ガーナ日記2006・終わり]


2006年2月25日 (土)

■ガーナ日記2006 (11) ろう者協会のセミナー

ガーナ全国ろう者協会が主催するセミナーで、私の研究について講演することになった。アフリカのろう者団体との協力行事は、去年カメルーンでやったセミナーに続いて二回目のことだ。

会場に着くと、いきなり想定外の事態にみまわれた。
「おい、会場がダブルブッキングだって。どうする?」
「他に場所をつくろう」

資源がなくても何とかするのがアフリカの知恵。ろう者協会の事務所が入っているビルの廊下が、急ごしらえの会場となった。イスがならび、パソコンが設置されれば、まあ何とか講演会場になる。暑い昼下がり、汗だくだくの私の手話のおしゃべりに、ガーナのろう者たちは立ち見の出る大盛況で見入ってくれた。

ろう者協会の会長が、締めのあいさつでこう話した。
「すばらしい研究と発表をありがとう。まだ調査していないことについては、ぜひ今後も継続して取り組んでいただきたいと思う」

未熟な研究者に対する、最大級の讃辞とお説教だ。フィールドワーカーにとっての何よりの宝である信頼関係をいただいたことに、ただただ感謝。

[つづく]


2006年2月22日 (水)

■ガーナ日記2006 (10) 郵便局に通う研究者

ここ何日か、郵便局に通っている。滞在期間中に訪れることのできなかった所などに文書で質問紙を送り、調査への協力をお願いするためだ。

日本の大学にいると、用件は何でもe-mailに添付すればいいや、と思っている。でも、それが通じるのは世界のひとにぎりの人々にすぎない。世界の大部分は、今も紙と郵便で回っている。いや、それすら行きわたっているわけでなく、世界には文字を使わずに暮らす人が9億人からいるのである(ユニセフ調べ)。

何かを教えてもらうためには、会いに行って話すのが一番、とやはり思う。でも、それがかなわないときは、せめて手紙を出すくらいはおこたらないでおきたい。だれもがe-mailを使えると期待するような姿勢はつつしみながら。

アフリカ研究というのは、際限なく郵便を出し続ける仕事なのかもしれない、と思った。

[つづく]


2006年2月19日 (日)

■ガーナ日記2006 (9) ガーナ人の対日戦争

「ガーナは日本と戦争したんだよ」

知人がそう言った。え、そんなはずはなかろう、と思って古都クマシの軍事博物館を訪ねた。それはあながち間違いでもなかった。

第二次大戦のさなか、当時の英領植民地の黒人たちはイギリス軍に徴用され、ビルマ戦線に投入された。そこで黒人兵士たちは日本軍と衝突。戦利品として、日本兵たちが持っていた銃や旗などを持ち帰った。それがガーナの軍事博物館に展示されている。

ちぎれた日章旗に、日本人女性たちの名前が細かくつづられていた。生半可な歴史観など吹っ飛んでしまうような現物のすごみである。

博物館のテーマは、実にバラエティに富んでいた。イギリス侵略に抵抗した黒人王国、植民地下での対英協力、連合国側の一員としての対日・対イタリア戦争、国連PKF、ルワンダ虐殺への介入、そしてこの国の軍事クーデター。

うーむ。ガーナの歴史的アイデンティティは、どのあたりにあるんだろう。英女王エリザベス二世も訪れたというこの博物館は、いろんなアイデンティティをつめこんだいくつもの顔をもっていた。

[つづく]


2006年2月18日 (土)

■ガーナ日記2006 (8) 歴史の証人を訪ねて

ガーナ最初のろう学校は、1957年にできた。

この学校で教師をしていたという高齢のろう者の家を訪ねた。アフリカでろう者が手話で教えるろう教育が始まった時代の、貴重な証人である。

70代になるというその女性は、たまたま体調を崩していて起きられず、直接お話をうかがうことはできなかった。ご家族に話をうかがい、貴重な資料を見せていただいた。短い手紙を書いてご家族に渡したところ、手紙を読んだご本人はたいそう喜んでいたという。

時がたつにつれて、記憶と証言がどんどん手に入れにくくなっていく。これは現代史を学ぶ者にとっての宿命なのかもしれない。

はやく、着実に。フィールドワーカーの背筋が伸びる瞬間である。

[つづく]


2006年2月17日 (金)

■ガーナ日記2006 (7) 国立学校の功罪

ガーナは西アフリカの中ではちょっと特徴のある国である。それは、政府がろう教育の整備に力を入れてきたこと。ただし、それには功罪両面の意味がある。

一面では、国によって設備が整えられた。あるろう学校を訪れたが、大きな校舎と広い敷地をもち、教職員が多く雇われていて、寄宿舎をもち、400人近いろう児たちが勉強していた。こんな巨大なろう学校を、近隣のアフリカ諸国では見たことがない。国家予算の威力である。

一方、ガーナは、ろう者たちが教員として登用されにくいという現状を招いてしまった。国立化することは、教員に資格を求めること。大学卒の聞こえる人たちが教職を占め、高等教育にアクセスしづらいろう者は活躍の場を失う。聞こえる教員たちも手話で教えようとするが、手話の力にかけてはろう者にかなわない。こうして、ろう児たちが見て分かりにくい手話で授業が進められていく。

手話という点については、ろう学校が私立として放っておかれる国々の方が自由度が高いようだ。ろう者が自分たちで学校を作ってしまうからである。ただし、資金繰りは苦しいといつもグチをこぼしている。「隷従の中の豊かさよりも、自由の中の貧困を」。フランス共同体からの離脱を選んだギニア初代大統領セク・トゥーレの言葉がよみがえり、私たちの前に立ちはだかるようだ。

ろう教育を理想的に実現するのはほんとうに難しい。あるていど設備を整えないと機能しないが、がんじがらめに整備すると言語的な自由が制約される。ろう教育を国有化したこの国で、その功罪の両面を見た。

[つづく]


2006年2月15日 (水)

■ガーナ日記2006 (6) 真のガーナチョコ

ガーナと言えばチョコレート。というくらい連想されるのが、特産品のカカオ。

イギリスの植民地支配下で換金作物として普及し、独立後も外貨獲得の柱となってきたカカオ。でもそのあらかたは輸出され、「先進国」でチョコレートになる。

その本場ガーナで作られたチョコレートを見つけた。地元の人によれば、真のガーナチョコとは「暑くてもとけない」のが特徴だそうだ。なるほどねえ。

かじってみると、確かに違う。カカオの粉をしっかり固めたという質感だ。まろやかさなどでごまかさない純度の高いチョコレート。食べ過ぎて鼻血に注意。

[つづく]


2006年2月14日 (火)

■ガーナ日記2006 (5) 熱帯の悪夢

サファリアリに襲撃される夢を見た。

巨大なアゴを持ち、人も動物も容赦なくかみついて襲う、熱帯雨林の凶暴なアリ。かつてカメルーンの森でテント暮らしをしていたとき、何度か夜中に襲われたことがある。火をたいて追い払うが、暗闇の中に、びっしりと黒ごまをまぶしたような固まりが見えた。それはアリに襲われてもがき苦しむネズミだった。人ごとではない。恐ろしい光景だった。

夢の中では、黒いアリの大群が私を包囲し、続々と足に食らいついてくる。逃げても逃げてもアリの大河。"Mbo, mbo!" 私はかつて覚えたサファリアリの現地語の名称を叫びながら、苦しんでいた。

目が覚めた。そこはガーナの首都アクラ、都会のエアコンの効くホテルだった。もちろん、ここにアリはいない。

ここ数年、都市部で調査することが多い。でも、私にとってのアフリカの原風景は、あの森の中にあるのかもしれない。熱帯に来ると、皮膚感覚がその記憶を呼び覚ますのだろうか。

[つづく]


2006年2月9日 (木)

■ガーナ日記2006 (4) ろうの村

ろう者がたくさんいるという村を訪れた。遺伝性の聞こえない人が代々生まれ、村独自の手話ができ、住人の多くが手話を話すという、手話研究の業界ではちょっと知られた村。

車を停めると、村人たちが集まってきた。

<やぁ、やぁ>
<どうぞここへ座って>

よくある村の訪問のやりとり。それがすべて手話だという点をのぞけば。家々の陰から出て来る人、人、人、みなろう者。(ろう、多いな…)思わず日本手話でつぶやいてしまった。

<こんな建物がほしいな>
<支援してくれないかな>

なかなかのおねだり上手。これまで欧米の手話研究者がたくさんやって来て、さぞかしいろんなプレゼントをしてきたんだろうね。これもアフリカの村落で時々見かける光景だ。それがすべて手話であるという点をのぞけば。

[つづく]


2006年2月8日 (水)

■ガーナ日記2006 (3) 万人てだれのこと?

「万人のための教育 (Education for all)」という標語がある。国際機関などが掲げた標語で、貧困層や少女もふくめてすべての子どもたちが学校に行けるようにしようという目標を示すことば。

ガーナ政府の特殊教育局(ろう学校の管轄部局)を訪れた時のこと。役所の正面玄関にこんな看板がかかっていた。

「Education for all means all including children with disabilities.」
(万人のための教育とは、障害をもつ子どもたちを含めた全員のことです)

へえ。(万人のための教育を、でも障害をもつ子どもは後回し…)そういうマジョリティの逃げを許さない気概を感じるではないか。運動団体ではなく政府機関だよ。日本の文科省の正面玄関に、こんな標語がかかることがあるかなあ。

制度をつくりつつある国というのは、こういうパワーがあって面白いと思う。

[つづく]


2006年2月5日 (日)

■ガーナ日記2006 (2) アフリカろう教育発祥の地

ろう者の教会を訪れた。

日曜日の朝、ある小学校の教室にろう者たちが集まって、お祈りをしている。

とくに変わったことのない古ぼけた校舎だが、実は非常に大きな意味がある。半世紀前、西アフリカ最初のろう教育が誕生した場所なのである。

一人のアメリカの黒人ろう者青年が、ここで手話を使って聞こえない子どもたちを教え始めた。そこから巣立っていった弟子や孫弟子たちが大活躍し、やがて西・中部アフリカ一帯に、手話で教えるろう学校が広まっていく。その発祥の地である。

半世紀前と変わらず建っている校舎。物持ちがいいですね。それに、昔と変わらずその場所でお祈りを続けている高齢ろう者たちの姿にも、感銘を受けました。

[つづく]


2006年2月3日 (金)

■ガーナ日記2006 (1) 札束の国

調査のため、初めて西アフリカのガーナ共和国を訪れた。フィールドノートから、お気楽なネタをいくつかご紹介しましょう。

ガーナは札束の国。ちょっとした用事でも、お札を束にして持ち歩く。

「タクシー=1万セディ」(=120円くらいだけど)
「レストラン=3万セディ」(=360円くらいだけど)
「ホテル一泊=25万セディ!」(=3,000円くらいだけど)

物価が高いわけではないが、なにせ額面が大きいのでびっくり。あまりに桁が多いので、現地の人たちは「,000」を省いている。たとえばタクシーの運転手とこんな会話。

私「10で行こう」(=10,000セディのこと)
運「いや、15だ」(=15,000セディのこと)

…それで通じるなら、もう貨幣を1,000倍にしてしきり直したらいいのに、と思う。

単位の「セディ」はもともと「タカラガイ」という意味。かつてこの一帯でタカラガイが貨幣として用いられていたことに由来しているという。由緒ある名をもつその貨幣を、何万という束にしないと暮らせないというのは、ちょっと悲しいものがある。

[つづく]


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