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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2008年10月

日本語 / English / Français
最終更新: 2008年10月31日
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■戦争は三文の損 (2008/10/31)
■コートジボワール日記2008 (19) データで見る今回の調査 (2008/10/23)
■コートジボワール日記2008 (18) 友人たちの上空で (2008/10/22)
■コートジボワール日記2008 (17) 後を濁さない旅立ち (2008/10/21)
■コートジボワール日記2008 (16) ろう者・手話通訳者と小懇談会 (2008/10/20)
■コートジボワール日記2008 (15) 日曜礼拝、手話でのあいさつ (2008/10/19)
■コートジボワール日記2008 (14) プチメチエと障害者の生計 (2008/10/18)
■コートジボワール日記2008 (13) 公務員採用制度の恩恵とホンネ (2008/10/17)
■コートジボワール日記2008 (12) 調査とご飯 (2008/10/16)
■コートジボワール日記2008 (11) 障害者問題の三つの位相 (2008/10/15)
■コートジボワール日記2008 (10) 熱帯の夜の咳止め薬 (2008/10/14)
■コートジボワール日記2008 (9) フォスターの旧友たち (2008/10/13)
■コートジボワール日記2008 (8) フランス語圏アフリカの知恵を集めたら (2008/10/12)
■コートジボワール日記2008 (7) 障害者運動と自動小銃 (2008/10/11)
■コートジボワール日記2008 (6) フィールドワーカー、大臣に会う (2008/10/10)
■コートジボワール日記2008 (5) 質問紙調査に挑む人類学者 (2008/10/09)
■コートジボワール日記2008 (4) 仕事の鬼 (2008/10/08)
■コートジボワール日記2008 (3) アビジャンなまりのLSAF (2008/10/07)
■コートジボワール日記2008 (2) 手話で進める社会調査 (2008/10/06)
■コートジボワール日記2008 (1) 西アフリカのニューヨーク (2008/10/03)


2008年10月31日 (金)

■戦争は三文の損

コートジボワール調査から戻って1週間。あわただしい日本のスケジュールにもみくちゃにされながら、滞在体験を振り返る。とりわけ、痛切に感じていることがひとつある。

K「あなたの家族は、なぜ失業したんですか?」
A「戦争です。あれで会社がつぶれたのです」

K「あなたの関わるプロジェクトは、どうして頓挫したのですか?」
B「戦争です。あれで外国人の開発スタッフが、みな引き上げてしまいました」

西アフリカ随一の平和と繁栄を誇った、コートジボワール共和国。しかし、反政府勢力の蜂起、国土分断、それに続く政情不安というこのたった数年間で、この国の多くの協力者を失ってしまった。その現実が、民衆の肉声や手話でしきりに語られていたことを思い出す。戦争は富裕層にも影響をおよぼしたかもしれないが、とりわけ貧困層や障害をもつマイノリティの生活を直撃した。

戦争というものの是非をめぐって、あまたの議論があることは承知の上。しかし、戦争ははっきり言って「損」である。とりわけ、途上国の小さな利権をめぐって武力衝突を繰り返すことは、多くの支援と協力者と利益とが、その地域から逃げ出す要因を作っている。

ちょっとむかついたとしても。少々、言語や文化や宗教が違っていても。武器を手に取らずに、口論で済ませることにしませんか。それで、平和ゆえに享受できる利益を、みんなで共有する道を選びませんか。

「グッド・ガバナンス」というまでもない、ちゃんと治まってなければ話にならん、という国際世論のなかで、途上国の野心ある政治家たちに、私は非戦の利益を訴えたいと思う。「戦争は三文の損」ですよ、と。


2008年10月23日 (木)

■コートジボワール日記2008 (19) データで見る今回の調査

日本貿易振興機構アジア経済研究所からの派遣で行った、今回の目まぐるしい調査。調査の概要をデータで振り返る。

旅行日数: 21泊22日
現地滞在日数: 18泊19日
訪問地: コートジボワール共和国アビジャン市
訪問した公的機関: 3か所(社会福祉大臣会見; 障害者福祉局; コートジボワールラジオ・テレビ局)
訪問した障害者団体: 11団体(ろう者3団体; 盲人3団体; 肢体障害5団体)
訪問した学校: 3校(ろう学校1校; 盲学校1校; 知的障害児支援学校1校)
個別インタビュー: 18人(ろう者6人; 盲人6人; 肢体障害6人)
入手した文献資料: 約60点(厚さ約12cm)
使用言語: フランス語圏アフリカ手話 (LSAF); フランス語; 英語; バウレ語 (Baoulé, あいさつのみ)

85もあるという障害者団体のうちの11団体しか訪れていないし、少なくとも17万人はいるらしい障害をもつコートジボワール人のうちの18人しか聞き取りをしていない。しかも、アビジャンという大都市の生活・労働環境しか見ていない。これで同国の、さらにアフリカの、障害者事情を語るというのも、なんとも心もとない話である。

それでも、現地でさんざん言われました。

「研究者が来たなんて、今回が初めてですよ」
「もっと調査を、そして成果の分かちあいを」

データが皆無だった出発前に比べれば、何ほどかの貢献にはなったのかもしれない。

さて、報告書の〆切の足音が、ひたひたと近づいてきています。

付記: 本調査の結果は、日本貿易振興機構アジア経済研究所の共同研究「障害者の貧困削減: 開発途上国の障害者の生計」の最終報告書(2009年3月予定)に掲載される予定です。

→ [おわり]


2008年10月22日 (水)

■コートジボワール日記2008 (18) 友人たちの上空で

アフリカの調査地を去る時に、いつも思うことがある。「またも友人たちの上空を素通りしてしまった」という、どこか申しわけないような感覚である。

アビジャンを発ったエミレーツ航空の搭乗機は、アフリカ大陸を横断する航路をとる。アクラ、コトヌー、ポルトノヴォ、ラゴス、イバダン、ドゥアラ、ヤウンデ、そういった都市の近くの上空を飛びながら、中東のドバイへと向かう。

それぞれの町でお世話になった友人たちの顔とできごとを思い出し、訪れたろう学校やろう者団体の風景を思い起こす。

すぐ近所まで来ていながら、あいさつもせずに上空を通り過ぎて日本に帰る。ごめんな、また機会があるときにね。そんなことを思いながら、眼下の赤茶けたアフリカ大陸をながめやる。

[つづく]


2008年10月21日 (火)

■コートジボワール日記2008 (17) 後を濁さない旅立ち

今回の調査の終わり方は、美しかった。

あれこれと用務をつめ込んだハードな日程だったが、出発の前日はまとめの一日と決め込んだ。関係省庁と障害者諸団体代表を招聘しての報告会に加え、フェアウェル・レセプションまで開いたのだから。といっても、缶ジュースにケーキとピーナツの、いたって簡素なおもてなしですけれど。

このへんは、たぶんにアシスタントであるYédê君の采配があった。彼はもともとの几帳面な性格に加え、JICA東京センターでの1カ月におよぶハードな研修のなかで、時間を守り、毎晩打ち合わせをし、反省会をし、などの、日本流の仕事術を学んだようである。私よりも日本人的な仕事ができるコートジボワール人の調査助手君のおかげで、すべてをきちんと片付けた上での美しい出発ができた。ほんとうにありがとう。

空港までの車内でも、Yédê君と、研究と政策と運動の協力関係について語り合った。別れはつらいが、それも次の出会いのための準備である。当面はそれぞれのもち場で奮闘し、また会って共闘しよう。そんな心意気を確かめて、私は機中の人となった。

[つづく]


2008年10月20日 (月)

■コートジボワール日記2008 (16) ろう者・手話通訳者と小懇談会

「教会で礼拝の後、ろう者や手話通訳者と懇談会をしましょう。なにかためになるメッセージを」

ろう者のみなさんの前で紹介され、さて何を話そうか。

「私の手話は、カメルーン仕込み。でも、みなさんとよく通じるので喜んでいます。え、日本も同じかって? いいえ、日本ではまた別の手話を話しているんです」

ろう者には、比較の視点の話をする。地元の手話については当地のろう者にかなうわけがないが、ほかの国ぐにについては、意外とフィールドワーカーである私の方が詳しいこともあるのだ。

手話通訳者のみなさんの前では、さて何をしゃべろうか。

「私もみなさんと同じく、手話を学んでいる聴者です。手話がどんなに上達しても、私たち聴者は一生ろう者に教えを請う生徒(étudiant)です。手話の主(chef)を気取ってはいけません」

聴者には、学習姿勢の話をした。遠い国の異文化もいいが、目の前の異文化集団であるろう者とのつき合い方をまず学んでもらわないと。ふんふんとうなづく手話通訳者の卵たち。

ひとしきり懇談をして、主催者のろう者と話す。

私「どうだった?」
主催者「うん、君みたいな人を見てもらいたいと思ってね」

うーん、お手本にされるなど面はゆい。ただ、懇談会の間中、一貫して手話だけで通したから、こんなガンコな聴者も中にはいるのだという例になるのかも。

こういうささやかなアクションを、行く先ざきで重ねている。

[つづく]


2008年10月19日 (日)

■コートジボワール日記2008 (15) 日曜礼拝、手話でのあいさつ

日曜の朝、大きな教会に招かれた。ろう者と聴者がともに参加する礼拝で、数百人はいるだろうか。

司会「ひとこと、みなさんにあいさつを」

ろう者がたくさんいる場所なので、私は手話であいさつすることにした。音声への読み取り通訳を通して。

私「みなさん、日本から研究のために来たカメイです。たった2週間でしたが、すてきな滞在でした。お会いできてうれしく思います、ありがとう」(以上、フランス語圏アフリカ手話で)

司会「実は、彼は耳が聞こえます」

会場にどよめき。え? 聴者が手話であいさつするのが、そんなにおかしいかなあ。

司会「その証拠に、彼に音声でのあいさつもお願いしましょう」

おい、なんだこりゃ。見せ物かいな。

私「あのー、聴者です。フランス語も話すのですが、妻がろう者でして、手話で話すことに慣れているのです。どうも」(以上、音声フランス語で)

会場爆笑。なんだかよく分からないが、とりあえず受けた。少なくとも「聞こえない人がしかたなく手話を使う」のではなく、「聞こえる人も言語として手話を選ぶことがある」という例をお見せしたことになるだろう。ええ、それでいいのです。

[つづく]


2008年10月18日 (土)

■コートジボワール日記2008 (14) プチメチエと障害者の生計

公務員に採用された人は、いろいろ問題があるにせよ、とりあえず定収入がある。

一方、「都市雑業」というのだろうか、路上での商いなどの「プチメチエ(petit métier)」で生計を立てる障害をもつ人たちの暮らしぶりを聞いていると、うーんと考え込まざるをえない。

私「あのー。これで、ほんとうに1カ月食べていけますか?」
A「足りません」
私「どうしてますかね」
A「夫がたまに働いたり、コメを手に入れてきたりします」
私「それでも足りないでしょう」
A「友だちや神父さんが、助けてくれます」

ことばとして聞けるのは、そこまで。後は、ほんとうに突き止めたいならば、貧困層の住宅に居候して、毎日の食べ物の出入りをこの目で見届ける以外に方法はない。

私「パソコンはありますか」
B「ないない(笑)」
私「自動車はありますか」
B「オレに買ってくれよ(笑)」

どう考えても貧乏なのに、やたら明るいやつもいる。障害、生活、環境、労働、社会、幸福/不幸…。いろんなキーワードが、私の頭の中を渦巻いている。

[つづく]


2008年10月17日 (金)

■コートジボワール日記2008 (13) 公務員採用制度の恩恵とホンネ

コートジボワールは、アフリカの中でも特筆すべき国のひとつである。障害をもつ人たちを、公務員として無試験で採用する制度があるのだ。

そこだけ聞くと、なんとすばらしい、という話になりそうである。が、しかし。

私「年金制度や交通費減免制度はありますか?」
官僚「ありません。生活支援は、障害者採用制度でやっていますから」

ん、つまり?「一部の人にしか支給されない障害者年金に、労働も付いてくる」ということか?

私「せっかく公務員になったのに、どうしてよく休むんですか」
下肢障害者「職場までのタクシー代が払えないの、全部持ち出しだから」

光あれば影あり。そのあたりをもれなく聞き出すのが、現地調査の使命であり、魅力でもある。

[つづく]


2008年10月16日 (木)

■コートジボワール日記2008 (12) 調査とご飯

ろう者、盲人、肢体障害者の3つのカテゴリーの個人を訪ねて、生活や労働の調査をするという仕事を続けている。

私「こんにちはー」
A「いらっしゃい。調査とご飯、どっちを先にする?」
私「え…。じゃあ、調査を先にしましょうか」
A「待ってね、下ごしらえしちゃうから」

自宅におじゃますると、ご飯が用意されていることがある。そんなあ、インタビューするだけでも時間をとって悪いと思うのに。でも、せっかくのご好意なので、だいたいは断らずにいただく。食事も調査だ、と言いながら。

いやいや、冗談でなく、訪問先がろう者であれば、地域の食文化の手話語彙を教わるまたとないチャンスなのである。

そんなわけで、立派な焼き魚にアティエケ(キャッサバ粉で作った粒状の主食)をふるまってくださったSさん、カタツムリのヤシ油ソースにフトゥ(キャッサバとバナナの混合団子)で歓待してくださったTご夫妻、ほかみなさま、どうもありがとうございました。

[つづく]


2008年10月15日 (水)

■コートジボワール日記2008 (11) 障害者問題の三つの位相

今回の調査の目的は、コートジボワールにおける障害をもつ人たちの生活実態と課題を概略的に把握することである。

たかだか2週間そこらで取り組むにはあまりに壮大なテーマで、なんとも雲をつかむような話ではある。が、とりあえずの入口として、三つの位相を意識しながら重点的な調査をしている。三つとは、役所と、団体と、個人である。

同じ現象が、三つの異なる視角から語られるので、興味深い。たとえば、ある地方自治体に勤務する下肢障害の人について。

・役所は、「私たちは障害をもつ人を雇用している」と胸を張る。
・障害者団体の幹部は、「彼はエレベータのない建物の3階のオフィスで勤務させられ、移動に困難を強いられている。まったく不当だ」と憤慨する。
・実際に働いている本人に聞いてみると、「階段が苦痛? いえ、別に。毎日10回以上も上り下りしてるんだから(笑)」と軽く流される。

この語りの温度差。真相は語り手の数だけあり、薮の中にある…では報告書にならないので、落としどころを考える。

役所の見解だけを報告書に引き写すわけにはいかないから、団体の見方も対置させる。しかし、一番の妙味は本人個人の語りを引き出すことである。それが真実だという保証はないものの、社会的な障壁や不利益についてもっとも長い時間をかけてフィールドワークをしてきたのは、ほかならぬ本人にちがいない。その点に、調査者の端くれとしての私は、敬意を払いたいと思うのだ。

[つづく]


2008年10月14日 (火)

■コートジボワール日記2008 (10) 熱帯の夜の咳止め薬

ちょっと体調を崩して咳きこみがち。現地の友人たちが勧めてくれた咳止めシロップを、朝に晩に飲んでいる。どろりと甘いシロップを付属の小カップに注ぎ、染みこめとばかりにのどに流しこむ。

ある寝苦しい晩の夜半すぎ、机の上の咳止めシロップの瓶に異変を感じた。なんと、小さなアリがうじゃうじゃと瓶にたかっていたのだ。

(おい、咳止めシロップにたかるかあ?)
(薬なんか、食うなよ)

ここはホテルの5階。ここにも、アリの嗅覚はおよんでいたらしい。

これも、熱帯の夜の風景のひとつ。

(以後は、薬の瓶をビニール袋に入れて固くしばり、ハンガーに吊るすことにした)

[つづく]


2008年10月13日 (月)

■コートジボワール日記2008 (9) フォスターの旧友たち

コートジボワールのろう学校を設立したのは、アメリカの黒人ろう者牧師アンドリュー・フォスター。「アフリカろう教育の父」として知られる人物である。

ろう者団体の会議に参加し、ある中年のろう者と出会った時のこと。
A「私は、フォスターが創立したろう学校の第1期生です。ドイツ人の奥さんがいましたね」

キリスト教系のろう者団体を訪れ、ろう者牧師と会った。
B「私はフォスターの指示を受けて、コートジボワールに赴任したのです。彼の癖、知ってます? こうやってずり落ちそうなズボンをたくしあげるんです(笑)」

盲学校の元校長(盲人)と話していたら。
C「ああ、フォスター。知っています。かつてよく会って話したものでした」
私「全盲のあなたが、ろう者のフォスターとどうやって話したのですか」
C「優秀な手話通訳者がいました。彼はいま私と一緒に活動していますよ」

アフリカ社会のそこかしこに埋もれていて、時おりその片鱗を見せる、フォスター系列の人脈と回想の数かず。それらを拾い集めてアフリカろう者の歴史を編むことが、文化人類学者たる私の本業である。しかし、今回は出張用務だけで忙しすぎて、余暇としてもそのような調査をする時間がまったくない。

「次回ね。次に来た時は、ぜひともその話をゆっくりうかがわせてください」

そう約束して回る。高齢のみなさん、どうかお元気で。私も早めに再訪を計画したいと思います。

[つづく]


2008年10月12日 (日)

■コートジボワール日記2008 (8) フランス語圏アフリカの知恵を集めたら

今年の夏は、日本でカメルーンのろう者と毎日仕事をしていたので、今の私はフランス語圏アフリカ手話のカメルーン方言が基調となっている。その私の目に映るコートジボワール方言は、いろいろとおもしろく感じられた。

カメルーンとコートジボワールとでは、いくつか違う点がある。/ministre/(大臣)や/ambassade/(大使館)は、手型が同じだが手の位置と動きが違う。/travail/(仕事)は手の位置と動きが同じだが、手型が違う。/plantain/(プランテンバナナ)は皮をそぎ落とす位置が異なり、食文化の違いを反映しているとか。

語彙の有無のくいちがいもある。/Bon appétit!/(めしあがれ)、/SIDA/(エイズ)といった手話は、カメルーンにはあるが、コートジボワールにはない。一方、/fonctionnaire/(公務員)、/donc/(だから)はコートジボワールにあってカメルーンにはない。そして、地名や人名などの固有名詞は、どちらのろう者も自国の語しか知らない。

そういうふうに、「フランス語圏アフリカ手話」圏の中でも、地域によってあったりなかったりする手話の語彙がある。それらを持ち寄ってひとつの辞書を作ったら、これはお互いにたいへん有益なことではないかなあ。まさに「三人寄れば文殊の知恵」だと思うのだ。

[つづく]


2008年10月11日 (土)

■コートジボワール日記2008 (7) 障害者運動と自動小銃

ある障害者運動のリーダーと会った。政治的潮流の渦中にある要人のひとりである。

約束のレストランの前にベンツが止まると、まず自動小銃を抱えた警備員がさっと降りてきて、鋭い目つきで周囲を見渡した。そして、杖をついたその人物が、後部座席からゆっくりと姿を現した。

政官界に人脈をもつ大きな組織のリーダーであるがゆえに、与党、野党、反政府勢力の三つどもえの権力闘争の中で、慎重にふるまうことを余儀なくされているらしい。これもまた、アフリカの障害者運動をめぐる現実の一こまであると知った。

社会福祉大臣に会った翌日である。「もう一人の大臣」に会ったような気がした。

[つづく]


2008年10月10日 (金)

■コートジボワール日記2008 (6) フィールドワーカー、大臣に会う

「ドクター、大臣に会いに行きましょう」

とびこみフィールドワーカーを手厚く歓迎してくれた障害者福祉局の関係者が、大臣のアポを取ってくれた。何たる厚遇。とりあえず、1本だけもってきたネクタイをしめて出かけてみる。

そんなわけで、コートジボワール共和国家庭・女性・社会福祉省ジャンヌ・プモン(Jeanne Peuhmond)大臣に謁見しました。丁重に、大臣執務室の応接コーナーに招かれましたよ。

大臣「ぼんじゅーる、びやんゔにゅ」(こんにちは、ようこそ)
私「めるし」(ありがとう)

大臣というような人に会ったら、まず何をすべきなのだろう。とりあえず、名詞を出してみたら、名詞をくれた。あとは、自己紹介と渡航目的の説明、そして、今後とも研究に何度か訪れたいという点を強調した。よく来てくださいました、という趣旨のことを言われた。

ちょっといい和紙の便箋セットをもってきたので、差し上げた。とても喜ばれた。記念写真を撮り、「この写真、日本の同僚に見せなきゃ」と軽口を叩いたら、受けた。適当にふつうの会話をして、おいとました。まあ、謁見てそんなもんでしょうか。

表敬訪問も親善も、調査のうち。何があるか分からないから、今後もネクタイは1本だけ荷物に入れておくようにしよう。

[つづく]


2008年10月9日 (木)

■コートジボワール日記2008 (5) 質問紙調査に挑む人類学者

本務の調査では、障害をもつ個人に対する聞き取りをする。あらかじめ用意の調査票に従って、生活と労働の実態について順番に聞いていくのだ。

「家は持ち家ですか、賃貸ですか。賃貸の場合、家賃はいくら」
「仕事の種類と年収は」

規定の質問が終わった時、「ちょっと追加でお話したいのですけれど、いいですか?」と、私はやおら脱線を始める。

「この仕事してて、どうです? 楽しいですかね」
「今、2時間くらいここにいてお客さん1人しか来なかったけど、商売合うの?」
「え、補助金ゲットして店を建てたの? すごいやん」

相手が聴者ならフランス語で、ろう者ならLSAF(フランス語圏アフリカ手話)で。こうやってムダ話をしながら教わることを、本来の調査票の「裏の余白」に書き付けていく。それがなんともおもしろい。この人がどうして今このようにあるのか、調査項目だけではすくい取れないその人となりが浮かび上がってくるのである。

私はやはり、雑談モードでいろいろと教えてもらう調査のスタイルが気に入っている。表の調査票のデータは集計するとして、さて、「裏の余白」データはどうやって使おうかな。

[つづく]


2008年10月8日 (水)

■コートジボワール日記2008 (4) 仕事の鬼

今回、アシスタントとして一緒に仕事をすることになったのは、この夏にJICA研修生として来日したろう者Yédê(イェデ)君である。

彼は国立ろう学校の職員であり、この国の障害者運動のバリバリの活動家でもある。来日したときに私は2度会い、今回の調査渡航の伏線となった。だから、今回の私の訪問は、Yédê君が日本から持ち帰った「手柄」であるというふうにこちらの関係者には見られている。あながち間違いでもないので、こちらもそういうチャンスを利用し、多くの関係者にインタビューを申し込む。

社会福祉省や障害者団体に顔が利くYédê君をアシスタントに雇ったのは、調査の効率を上げる上では正解だった。しかし、少しのんびりやりたいなと思う立場にしたら、こんなたいへんな助手はいない。

Y「明日は、役所1つ、学校2つ、団体2つを回りましょう」
K「まじかよ」
Y「さあ、電話、電話。アポの確認!」(と手話通訳者を使って電話をかけまくる)
K「土日くらい、せめて半日は休みにしよう」

パトロンの仕事は、アシスタントを休ませること。「仕事の鬼」を雇った調査は、なんとも激しい様相を見せながら、日々が明け暮れていく。

[つづく]


2008年10月7日 (火)

■コートジボワール日記2008 (3) アビジャンなまりのLSAF

手話の調査をゆっくりしている暇はないけれど、この地の手話を日々話しながら、気付くことがいくつかある。

コートジボワールの手話は、カメルーンなどと同様、「フランス語圏アフリカ手話(LSAF)」と総称できる手話のひとつである。つまり、アメリカ手話とフランス語の接触でできた手話言語。語彙はアメリカ手話によく似ているが、文法と口型の多くを音声フランス語から借りている。そして、やはり、フランス手話とはいっさい関わりがない。

カメルーンやガボンなどの中部アフリカで手話になじんできた私は、初めてコートジボワールの地でろう者たちの手話を見ながら考える。

「ふむむふ、なるほど。ちょっと違うな…」

ポイントは、「ちょっと違うなと感じながらも理解できている」という点にある。まったく違う体系だったら「さっぱり分からん!」ということになるだろうが、そうではなく、文法や語彙が中部アフリカとあらかた同じ。だから、語彙に少々の違いがあっても理解できる範囲にある。つまり、LSAFの一方言であると言ってよい。

カメルーンのヤウンデなまりから、コートジボワールのアビジャンなまりに、しばし染まってみようと思います。

[つづく]


2008年10月6日 (月)

■コートジボワール日記2008 (2) 手話で進める社会調査

今回ここに来たのは、日本貿易振興機構アジア経済研究所の共同研究「障害者の貧困削減: 開発途上国の障害者の生計」の一環としての現地調査。

いつものように、ろう者と手話言語に特化した調査ができるわけではなく、いろんな障害をもつ人びとに会って、生活や労働の調査をするという特命を帯びている。

とはいっても、ここのろう者をリサーチアシスタントとし、一緒に仕事をすることにしたので、結局、毎日の仕事は手話で進めることになった。

「○○さんとはアポがとれたが、△△障害者団体とは未確認」
「ろう学校と盲学校が近くにあるので、同じ日に入れよう」

こういった業務上の会話を、すべて手話で行っている。つまり、手話「を」調査するのではなく、手話「で」それ以外のことを調査する。こういうタイプの仕事は初めてだ。

着いたその日から、毎朝・毎夕の手話での会議。そして日中は、アポだらけの超過密スケジュール。そんな日々が始まった。

[つづく]


2008年10月3日 (金)

■コートジボワール日記2008 (1) 西アフリカのニューヨーク

調査のため、初めて西アフリカのコートジボワールを訪れた。

「西アフリカのニューヨーク」と呼ばれる大都市、アビジャン。高層ビルが林立し、ビシッとスーツで決めたビジネスマンたちが闊歩する町は、なるほど、その名にふさわしい。その分、物価も立派なのですけれど。

都会でホテル暮らしをしながら、短期集中の調査をすることになった。その様子を、時どきレポートします。

[つづく]


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