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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2009年8月

日本語 / English / Français
最終更新: 2009年8月31日
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■政治が変わったらしい朝に (2009/08/31)
■カメルーンから来日した車いすの活動家たち (2009/08/29)
■総選挙が排出するCO2 (2009/08/28)
■『手話でいこう』韓国語版刊行! (2009/08/27)
■マニフェストは政権交代! (2009/08/26)
■ドイツ日記2009 (10) ちゃんぽんの手話になって帰る (2009/08/24)
■ドイツ日記2009 (9) ドイツ手話の魅力 (2009/08/23)
■ドイツ日記2009 (8) カメルーン大会開催に向けて (2009/08/22)
■ドイツ日記2009 (7) 散会をおしむろう者たち (2009/08/21)
■ドイツ日記2009 (6) 西アフリカつながり (2009/08/20)
■ドイツ日記2009 (5) 手話言語分科会の一日 (2009/08/19)
■ドイツ日記2009 (4) ウガンダろう者の基調講演と「調査観光」 (2009/08/18)
■ドイツ日記2009 (3) 初めてのアフリカ手話言語分科会 (2009/08/17)
■ドイツ日記2009 (2) アフリカの研究をアフリカに戻そう (2009/08/16)
■ドイツ日記2009 (1) もとコロニーのケルン (2009/08/15)
■『手話の世界を訪ねよう』朝日新聞「ひと」欄で紹介 (2009/08/14)
■研究者が一般書を書いたらしかられる? (2009/08/07)
■もしもろう者が支配する世界に暮らしたら (2009/08/06)


2009年8月31日 (月)

■政治が変わったらしい朝に

昨日の総選挙で、民主党が圧勝、自民党が惨敗。政権交代が決まったようである。

この間の政局をめぐる報道のなかで、私の周囲でも「もし政権交代したら、○○予算はどうなるかな?」という話が、しきりにささやかれていた。

・大学や研究所の予算は、どうなるかな。
・科研費などの研究費は、どうなるかな。
・若手研究者の支援策は、増えるかな、減るかな。
・アフリカ開発援助、ODA関係予算は、どうなるだろう。
・手話に関わる福祉行政は、どうだろう。

…などなど。

全般的に言えば、教育予算、研究費関係はこれまで並みだろうし、福祉関係も「生活重視の民主党」だからまあ大丈夫だろう、しかし、民主党にアフリカ通、国際開発援助の理解者は見当たらないなあ、という評判である。

アフリカ通の国会議員といえば? 自民党の森喜朗氏に、新党大地の鈴木宗男氏かな。どちらも自らアフリカ諸国を訪れ、アフリカについて発言し、そしてアフリカ関係の友好議員連盟会長を務めてきた人たちである。どちらもあいにく、マスメディアでは叩かれやすい人たちのようだけれどもね。

昨日から今日の1日で、どうやら「大きな変化」があったらしい。でも、日本と世界の現状を見つめれば、政権交代で変わりうる部分は知れている。政権を勝ち取った民主党のみなさんには失礼かもしれないけれど、「現実の社会にとって政府は万能ではない」という当たり前の事実も、静かに見つめたい。それは、オバマ米民主党新政権ブームのときも、感じていたことだ。

さて。私にできることは何だろう。パソコンを開けて、昨日の続きの原稿を書き始めた。いま、ここでできることを、少しずつ、着実に。


2009年8月29日 (土)

■カメルーンから来日した車いすの活動家たち

2009年カメルーンJICA研修生 JICAとDPI日本会議が主催した公開セミナー「今、アフリカで何が起こっているか: 第二次アフリカ障害者の十年に向けた緊急課題」に参加した(20090829, JICA東京研修センター)。

カメルーン出身のふたりの車いすの活動家たちが、JICA研修生として来日し、セミナーで発表していた。

Victorine FEIGNI さん(女性、左)、Eric Bertrand ZAM AKOA さん(男性、右)。いずれも、UNAPHAC(Union Nationale des Associations et Institutions de et pour Personnes Handicapées au Cameroun、カメルーン全国障害者団体・施設連合会)の幹部としての来日である。

私は、いずれも初対面。カメルーン現地では、ほとんどろう者と手話のことばかり調査していたから、聴覚以外の障害をもつ人たちとの出会いは、あまり多くない。それでも、ですよ。

K「ろう者協会の会長の、I さん」
E「ああ、知ってる知ってる!」
K「L 市のろう学校に行ったんだけど」
V「うん、あるある! 私のふるさとよ」
K「いつもどこにいるの?」
E「ヤウンデの、B 地区」
K「そこ、よく行ったよ。NGO の O さんとか」
E「あんた、よく知ってるなあ。あっはっは」(爆笑)

やっぱり、ローカルな話になるのですね。しかも、必ず共通の知り合いが見つかるからおもしろい。

手話を話すろう者たちと、音声を話すほかの障害をもつ人たちは、同じ言語集団を作っているわけではない。でも、同じ国の活動家どうし、それなりにネットワークがあって、お互いに友だちだったりするのである。

講演のお礼を伝え、記念写真を撮り、「次はヤウンデ(カメルーンの首都)で会おうねー!」なんて話をして、別れる。文化人類学とか地域研究とか国際開発援助とか社会福祉とか、大げさな話をもちださない、何てことないアフリカつながり。楽しいひとときだった。

「アフリカ障害者の10年」(1999-2009年)が終了し、第2次の「10年」(2009-2019年)がアフリカ連合(AU)によって宣言された。そういう大文字の歴史が動いていくなかにあって、でも私は、こういうちんまりとした友だち作りを大切にしていきたいと思う。

Victorine と Eric、どうもありがとう。Merci beaucoup!


2009年8月28日 (金)

■総選挙が排出するCO2

民主主義は、二酸化炭素を増やす?…そういう観点の分析は、どこかにないかなあ。

毎日新聞のニュース。

「衆院選:各党党首の移動距離 トップは自民の麻生総裁」

第45回衆院選(30日投開票)は29日、選挙戦の最終日を迎えた。18日の公示から28日までに、公職選挙法の政党要件を満たす9党の党首が選挙応援のため移動した距離の総計は毎日新聞の集計で7万6490キロに達した。

麻生太郎・自民党総裁 13,049km(25都道府県)
鳩山由紀夫・民主党代表 12,633km(28都道府県)
福島瑞穂・社民党党首 9,964km(24都府県)
志位和夫・共産党委員長 9,656km(19都道府県)
太田昭宏・公明党代表 6,314km(11都府県)
綿貫民輔・国民新党代表 4,490km(6都県)
渡辺喜美・みんなの党代表 7,625km(9都府県)
渡辺秀央・改革クラブ代表 ?km(8都道府県)
田中康夫・新党日本代表 ?km(7都府県)

毎日新聞 2009年8月29日 11時46分(最終更新 8月29日 17時40分)

もちろん、移動手段が何なのかは明らかにされていない。ただし、みんながエコな徒歩や自転車での遊説をしているならともかく、この記事には「麻生首相は(…)自民党の『劣勢』が鮮明になった中盤以降はヘリやチャーター機を使って激戦区を駆け足で回るようになり」とある。つまり、劣勢になればなるほど、CO2をふんだんに排出する乗り物を使って奮闘したもようである。

課題 (1) 移動距離から、各党首のCO2排出量を推定する方法を考えてみましょう。
課題 (2) 候補者ひとりあたりの「党首CO2」がもっとも多い党はどこでしょうか。逆に、ひとりあたり「党首CO2」がもっとも少ない党はどこでしょうか。
課題 (3) CO2をなるべく出さない選挙のあり方を、提言してみましょう。

残る3日間の夏休み、最後の自由研究にいかがでしょうか。


2009年8月27日 (木)

■『手話でいこう』韓国語版刊行!

手話でいこう (韓国語版) 5年前につれあい(ろう者)と一緒に書いた異文化夫婦エッセイ集『手話でいこう』が、韓国語に翻訳され、8月19日にソウルで刊行されました。

拙著が海外で訳されて紹介されるという栄誉は、初めてのことです。翻訳出版に尽力してくれたソウル在住の旧友T君、どうもありがとう。

아키야마 나미 & 가메이 노부타카. 2004=2009. 서혜영 (옮긴이)『수화로 말해요』서울: 삼인.
(アキヤマナミ & カメイノブタカ. 2004=2009. ソ・ヘヨン訳『スファロ・マレヨ (手話で話そう)』ソウル: サミン.)
訳者のソ・ヘヨンさんという方とは面識はないけれど、児童文学や絵本を訳している女性のプロの翻訳家で、これまで『火垂るの墓』の翻訳なども手がけた方だとか。また、発行元は「サミン」という、学術系では有名な出版社だそうだ。

そんな立派な方がたの手をわずらわせたのが、こともあろうに私どものアホエッセイとは(汗)。なんとももったいない話である。

聴者の夫が家の外に閉め出され、うちの中にいるろう者の妻は気づいていない、なんていう私のくだらないイラストも、丁寧に翻訳されています。

サンプルページの画像を、こちらのサイトで、無料で見ていただけます。
(本の表紙をクリックし、右へ右へとめくってみてください)

よ、読めない(汗)。私には、イラスト以外まったく分かりませんが、宝物として大切にしようと思います。

韓国語の本を読むお知り合いがいらっしゃる方がたへ。ぜひ、ご紹介いただきましたら幸いに存じます。


2009年8月26日 (水)

■マニフェストは政権交代!

総選挙、たけなわ。今回のキーワードは、ずばり「政権交代」だそうだ。

さて、「マニフェストは政権交代!」という政党があったら、どうでしょう。

ご注意ください、この党は、政権交代を目指して選挙を闘っているのではありません。「わが党が政権を取ったら、必ず政権交代します」と言っている。つまり、すぐに下野しますよという宣言だ。

これくらい権力に執着がない、淡白な政党はないものかなあ。


2009年8月24日 (月)

■ドイツ日記2009 (10) ちゃんぽんの手話になって帰る

今回のドイツ出張には、私のつれあいが旅行者として同行していた。10年以上も前に、観光でドイツを訪れたことがあるという彼女は、久しぶりの黒いライ麦パンと地ビールを楽しんでいた。フランスから駆けつけてくれたカメルーン出身のろう者たちも、私たち夫婦にとっては旧知の仲だから、手話でわいわいと。

ふだん、私はつれあいとの間で日本手話を話している。でも、海外に来ると、会話の語彙に変化が起きる。日本手話をベースとした会話の中に、アメリカ手話、フランス語圏アフリカ手話、さらに新しく覚えたドイツ手話がまぜこぜで入ってくるのだ。「ドイツに来たからドイツ手話が混ざる」というだけの話ではない。暮らしのなかで目にするいろんな印欧語族の諸言語の語彙を、とりあえず表現する必要にかられるから、知っている手話の語彙を総動員したちゃんぽん会話になるのである。帰国しても、しばらく家の中では、借用した手話の語彙が残るんだろうな。

国際公務員としてドイツで暮らしている旧友と再会する場面もあった。彼と連絡がとれたきっかけとは、なんとこのジンルイ日記の「■ドイツの蹴るんだい (2007/06/05)」を先方が見て、メールをくれたことだった。こんなくだらない日記でも、書いておけばこういうことにつながるから、なんともおもしろい。

今回はドイツになじむほどの日数もなく、学会の会場内は「ほぼアフリカ」だったけれど。次に訪問する機会には、もう少しドイツ語とドイツ手話にお近づきになれればと楽しみにしている。

「アムステルダム」などの近隣諸国の地名の手話をついでに覚えながら、アムステルダム経由で帰国しました。

[200901003付記]
今回の手話言語分科会の話題を含む、第6回アフリカ言語学会議への参加報告が、近日中にアフリカ学会『アフリカ研究』に掲載されます。詳細はそちらもご覧ください。

[20100107付記]
報告記事が、下記の雑誌に掲載されました。ご参照ください。

■2009年12月31日 [日本語]
亀井伸孝・米田信子. 2009.「理解と進歩のためのアフリカ言語学: 第6回世界アフリカ言語学会議(WOCAL 6)参加報告」『アフリカ研究』(日本アフリカ学会): 45-47.
→ [おわり]


2009年8月23日 (日)

■ドイツ日記2009 (9) ドイツ手話の魅力

今回、ドイツ訪問は初めて。

ドイツ語は、大学の学部時代に履修したものの、かろうじて必要単位をいただいて卒業しただけのおつきあいで、結局、ほとんどものにならなかった。ドイツに行ってみて、トイレに書いてある「Damen(女性)」と「Herren(男性)」の違いをおぼろげに覚えていたていどである。

15年ぶりのドイツ語は、さっぱり話せないし聞き取れない。ただし、看板などの文字については、英語とフランス語の両方の知識をちゃんぽんで活かしたら、まあ暮らせないでもないかな、という感じだろうか。英語と近縁というイメージがあったけれども、あんがいフランス語に近い語彙がちらほらと見られたのは発見だった。

また、今回、初めてのドイツ手話との出会いが楽しかった。学会に参加していた、地元ドイツのろう者たちと晩ご飯を食べながら、片言のドイツ手話を教わった。初めて訪れた国のことばで、覚えやすく便利なのが、あいさつ、食べ物、地名の3分野である。「ダンケ・シェーン」に「ブルシュ(ソーセージ)」、「ケルン」「ベルリン」「ボン」などなど。ドイツ指文字だって、「Kölsch(ケルシュ: ケルンの地ビール)」だけはつづれるようになったのだ。

ドイツでは、かつてほど社会が手話を低く見る風潮はなく、手話の本も刊行された。ただし、ろう学校では今もなお口話指導と聴者教員の権限が強く、ろう者の教員たちがその能力を十分に発揮できる環境とは言いがたいなど、いろいろな話を聞いた。アフリカのいくつかの国で手話が公用語に昇格し、大学で教えられ、というような学会発表が行われているとき、地元ドイツのろう者たちは、それをどのような思いで見つめていたのかな。

半世紀前、口話法が厳しいドイツを出て、自由の大陸アフリカに渡ったひとりのドイツ人ろう者女性がいる。ベルタ・フォスターさんという人で、夫の「アフリカろう教育の父」アンドリュー・フォスター牧師とともに、アフリカ諸国で手話を用いるろう教育事業に邁進した。私は、ドイツのろう者たちといっしょにケルンの地ビールを飲みながら、ちらりとそんな歴史も重ね合わせていた。

[つづく]


2009年8月22日 (土)

■ドイツ日記2009 (8) カメルーン大会開催に向けて

「次回、3年後の開催国は、カメルーンですよ。カメルーンでの研究が長い亀井さんも、ぜひ打ち合わせにどうぞ」

今回のケルン大会の実行委員長からお誘いをいただき、ある日のランチミーティングに参加した。

カメルーンのヤウンデ第一大学の教授を中心に、WOCAL の幹部たちがずらり。ケルン大学の学食で昼食をとりながら、次回の開催のための意見交換会が開かれた。そんな場所にまぎれこんでしまった私。

A「現地の言語のネイティブスピーカーたちを招いて、分科会をしましょう」
K「ええ、それなら、現地のネイティブサイナー(手話話者)も招きましょうか」
B「ほかに提案は?」
K「今回の成果をふまえ、次もぜひ手話言語分科会を」
B「ええ、そうですね。それは重要なことです」

私は、ろう者ではない。ただし、少なくとも手話のテーマが忘れられないように、フォローの発言をちょこちょことする。

残念ながら、こういう非公式の意見交換の場には、ろう者が招かれないことがある。それで、いろんな態勢が決まってしまうこともあるだろう。たまたま居合わせてしまった耳が聞こえる私が、自分の立場と機会を活用することは、一種の責務のようなものだと感じることがある。

私は、WOCAL の幹部とは力量も経験も違う、ただの新入り参加者。でも、非力であっても、そういうことは言い続けるにかぎると思う。ひな鳥は、鳴き続けることによって、えさをもらい、生き延びることができるのだ。

[つづく]


2009年8月21日 (金)

■ドイツ日記2009 (7) 散会をおしむろう者たち

手話言語分科会は終わり、翌8/19にまとめの会議が行われた。

今回の成果として浮かび上がった重要なキーワードとは、「手話言語の標準化」「外来手話、とくにアメリカ手話にまつわる課題」「調査観光」の三つだとされた。やっぱり「調査観光」は、忘れてはならないテーマのようだね。

あいにく、今回の会議で手話通訳が配置されていたのは、手話言語分科会にかぎられていた。WOCAL のほとんどを占める音声言語関係の分科会には、手話通訳が用意されなかった。このため、ろう者の参加者の多くは、5日間の全日程の終了を待たず、手話関連企画が終わった3日目に帰国してしまった。

うーん、複雑な思いが残る。聞こえる人も聞こえない人も、関心に応じてどんな分科会にでも参加できるように、手話が縦横に使える学会であってほしいなあ。手話を「研究テーマとして」だけでなく、「大会の使用言語としても」尊重する学会に成長してほしいと、強く思った。

会期中に開催された、立食パーティ。英語のざわめきで満ちあふれる会場のなかに、ちらりほらりと手話の集まりがあった。夜が更けて、多くの聴者たちが三々五々帰っていった後、最後まで残って延々と話し続けていたのは、手話で話す人たちの集まりであった。

「音声の大海」のなかに、少数の「手話の島」がある。それぞれのことばのなかではうちとけた社交があるものの、それらを越境する会話が少ない。学会の風景は、現実社会の縮図のようにも見えた。

[つづく]


2009年8月20日 (木)

■ドイツ日記2009 (6) 西アフリカつながり

手話分科会の会場には、アフリカ諸国のほか、ヨーロッパ、アメリカ、日本などから、ろう者が参加していた。

一番驚いたのは、かれこれ12年前からの友人であるカメルーン人のろう者たち2人が、とつぜん会場を訪ねてきたことだ。初めて知り合って仲良くなったのは、カメルーンだった。しかし、今はふたりともフランスに移住し、フランス人と結婚して家庭をもっている。

P「ボンジュール! カメイ、元気?」
K「うわ! 君たち、なんでここにいるの? 学会のこと、知ってたの?」
J「ウイー!(笑) パリから夜行バスで来たんだよ。君が学会で発表するという情報があったからさ」
K「メルシー。でも、よくそんな情報がわかったねえ」
P「ガボン出身でパリ在住の PB 君、知ってるよね。彼も来たがってたよ、来られなかったけど」
K「え、PB 君ってパリに引っ越したんだ! よろしく言っといて」

西アフリカのマリから参加したろう者との出会いも、楽しいものだった。

マリの全国ろう者協会の会長である彼とは初対面で、私もマリを訪れたことはない。しかし、彼が話す手話を、私は100%理解できた。なぜなら、アメリカ手話とフランス語の接触でできた手話(フランス語圏アフリカ手話)を話す人だったからだ。フランス語圏西アフリカ仕込みの私の手話は、国は違っても、やっぱりご近所のなじみの手話なのだ。

懇親会では、気づいたら、マリのろう者、カメルーンのろう者2人、そして私の4人で、「共通の知り合い探し」などの話をしていた。同じ言語圏の仲間という親近感に根ざした、楽しいひととき。

[つづく]


2009年8月19日 (水)

■ドイツ日記2009 (5) 手話言語分科会の一日

ウガンダろう者の全体基調講演の後、参加者はそれぞれの分科会に分かれていった。WOCAL 史上初の、アフリカ手話言語分科会(Workshop on Sign Languages in Africa)が始まった。

栄えある朝一番の発表者として、私は昨年勤務先で開発したフランス語圏アフリカ手話のDVD辞典について報告した。私は、ぎこちない英語で多弁を弄するよりも、図表・動画いっぱいの見て分かりやすい発表を作りこむ。このプレゼンは、世界各地から集まったろう者たちの視覚的文化には、歓迎されたようである。

朝から晩まで、11件の発表。登壇者14人のうち、5人がろう者だった。アフリカの手話言語研究の領域をメジャーに育て上げていくぞ!という気概で通じ合った、同志的な連帯感が漂うとでも言うのかな。「研究の進展が、すなわちその言語の話者たちの可能性を広げることにつながるはずだ」という、研究と実践の幸福な共存を信じることができている分野なのかもしれない。むろん、その背景として、アフリカの手話言語が学術界でまともにあつかわれてこなかったという歴史がある。

ヨーロッパのろう者や聴者の研究者が、アフリカのろう者とともに登壇する共同発表がふたつもあった。私も、日本国内の学会の招待講演では、そのような形の発表をしたことがあるけれど。「調査観光」の指摘に向き合う姿勢として、参考になりますね。

分科会では、国際手話での発表もあったし、音声の英語での発表もあった。双方向の通訳があったから、どちらでも選ぶことができた。しかし、ろう者たちからの質問やコメントが多かったのは、明らかに手話で行われた発表に対してであった。

私は、今回はものは試し、英語を発話しつつ、国際手話の語彙を用いた手指英語を併用してみた(隣で国際手話とドイツ手話への同時通訳を並行して行ってもらった)。ろう者たちから質問が次々ととんできたのは、ありがたいことだった。一方で、3種類も手話が舞台上で並行しているのは見づらいという意見もあった。それも含めて、今後の課題。

もうひとつ、気づいたこと。この分科会の発表者は、やたらとマックユーザーが多かったな。なぜだろう。

[つづく]


2009年8月18日 (火)

■ドイツ日記2009 (4) ウガンダろう者の基調講演と「調査観光」

8/18、朝一番の基調講演が、ウガンダのろう者であるサム・ルタロ(Sam Lutalo)氏によって行われた。

講演は全体会として行われたので、多くの聴者の音声言語研究者たちも参加し、国際手話で行われる彼の講演を見た。この講演は、英語とドイツ手話に同時通訳されていた。

ルタロ氏が、「調査観光(research tourism)」ということばを述べていたのが、心に残る。それは、アフリカ域外からアフリカを訪れる研究者たちのことでもあり、また、ろう者と手話言語の世界に入り込んでくる聞こえる研究者たちのことでもあるだろう。

「研究をめぐる権力と資源の偏在の問題」は、今なお根深い。ただ、そういうことを、アフリカのろう者が手話ではっきりと世界に向けて広言できるこういう場面もあって、それなりに風通しはよくなっているのかも。

グローバリゼーションには功罪いろいろあるだろうが、マイノリティが発言力を高めるチャンスを増やしている面も、確実にある。フィールド言語学や文化人類学が、かつてのような「未開社会からの収奪の学問」ではありえようはずもないという現実のひとこまを、この講演は象徴的に示していた。おもしろい時代に、居合わせることができた。

[つづく]


2009年8月17日 (月)

■ドイツ日記2009 (3) 初めてのアフリカ手話言語分科会

WOCAL は、1994年に第1回を南部アフリカのスワジランドで開催し、以来15年の歴史を持つ学会である。その学会として、今回ひとつの快挙があった。アフリカの言語一般をあつかうこの会議のなかで、初めてアフリカの手話言語の分科会(Workshop on Sign Languages in Africa)が設けられたのだ。

「アフリカのろう者と手話」というテーマは、日本でも珍しがられることが多いが、世界的に見ても研究例がさほど多いわけではない。しかし、東アフリカ、西アフリカ、中部アフリカ、南部アフリカ、島嶼部と、各地の手話言語とろう者に関わっている研究者たちが、世界中から一カ所に集まったら、発表がずらりと並ぶ分科会を開催できるほど、研究は出始めている。もちろん、多くのろう者の研究者たちがこの分野に参画し、それらを進めている。

大会初日、混雑する会場に着いたら、手話でしゃべっている人たちがちらりほらり。肩を叩いて話しかけてみると、ああ、あなたですか! メールでやりとりをしたことがあるウガンダのこの人、オランダのこの人、3年前にノルウェーの会議で会った南アフリカのこの人に、タンザニアのこの人。まあ、せまいといえばせまい世界。いくつもの手話言語のちゃんぽん会話で、もりあがる。

手話言語分科会は、WOCAL 会期中の8/18の丸一日を使って開催される。その前日に、分科会の公式使用言語のひとつである国際手話(International Signs)の重要語句を確認するためのワークショップが、ウガンダのろう者を講師として開かれた。

[つづく]


2009年8月16日 (日)

■ドイツ日記2009 (2) アフリカの研究をアフリカに戻そう

世界アフリカ言語学会議(WOCAL)とは、「アフリカ言語学をアフリカに戻そう」という趣旨で、アフリカ出身の研究者たちを中心に、アフリカ域外の研究者たちも参加するかたちで1994年に発足した国際学会である。

3年に1回、アフリカ域内と域外で交互に開催するのを慣行としていて、今回は、ケルン大学のアフリカ研究所が中心となって開かれた。

ドイツと言えば、ヨーロッパ諸国がアフリカ分割を決めたベルリン会議(1884-85)を主催した国である。また、第一次世界大戦で敗北するまでは、今日の国名でいうトーゴ、カメルーン、ルワンダ、ブルンジ、タンザニア、ナミビアなどを領有していた旧宗主国でもある。

「そのドイツが、アフリカ会議を?」などという揶揄も、事前にちょっと聞こえてきたけれども。もちろん、植民地を放棄した戦後の新しいドイツは、アフリカとの間で学術的な貢献を重ねてきていて、それはアフリカにとって有益なものとなっているはずである。ほかならぬアフリカ出身の研究者たちが、ドイツを開催地に選んだのだから。

それにしても。「アフリカの研究をアフリカに!」という当たり前のことが声高に叫ばれねばならないほど、この分野の研究はアフリカの外(おもに欧米)で進められてきた。そのことの意味を、あらためて考えさせられる。

[つづく]


2009年8月15日 (土)

■ドイツ日記2009 (1) もとコロニーのケルン

第6回世界アフリカ言語学会議(The 6th World Congress of African Linguistics [WOCAL 6])に参加するため、ドイツのケルンを訪れた。かつて西ドイツの首都だったボンにほど近い、歴史のある町である。

「ケルン」(Köln, 英語や仏語表記では Cologne)の語源は、植民地(colony)と同じ。ローマの植民都市だったという由来を、今もその名前に残している。

この町のシンボルは、第二次世界大戦の激戦のなかにあっても破壊をまぬがれたケルン大聖堂(世界文化遺産)である。それゆえに、大聖堂の二つの尖塔を模した

「^^」

という図像が、町中いたるところで見られる。名古屋のシャチホコも真っ青かも、というくらい、この「とがった二つの塔」が町のアイデンティティそのものであるように見受けられた。

空港から鉄道でケルン中央駅に移動。改札を出たら、目の前にずどーんとそびえたつ ^^(大聖堂)。なるほど、こりゃあすごい。あんぐりと口を開けて、塔をながめていた。

観光客をかきわけて、ケルン大学方面へと向かう。

[つづく]


2009年8月14日 (金)

■『手話の世界を訪ねよう』朝日新聞「ひと」欄で紹介

朝日新聞「ひと」2009/08/14 拙著、岩波ジュニア新書『手話の世界を訪ねよう』が、今日の朝日新聞(全国版)朝刊で大きく紹介されました。ありがとうございます。
『朝日新聞』2009年8月14日朝刊 p.2.「ひと」欄.
「手話の世界に魅せられた文化人類学者: 亀井伸孝さん」

(記事の一部は、こちらのコーナーで読んでいただけます)

今回の記事は、書評欄ではなく「ひと」欄です。つまり、本そのものよりも、それを書いた人をメインに取り上げたかたちの記事。

「ひと」欄といえば、著名な賞の受賞者や、トップアスリートたちが並んでいるコーナーですよ。そんなところに、場違いなへなちょこ文化人類学者がまぎれこんでしまって、たいへん恐縮しています。まあ、珍しいといえば、たしかに珍しいのかもしれませんけど。

聞こえる人の役割について、「私は入り口までの案内人」とはっきり書いてくださったことは、ありがたかった。手話の領域の本来の主役は、言うまでもなく、手話話者であるろう者たちである。耳が聞こえる私のような「脇役」が前面に出てしまうことについては、ちょっと気が引けるような思いもしている。取材の依頼をいただいたときも、その点を気にしていた。

聞こえる人の役割は「露払い」。このようなことの積み重ねが、少しでも手話に対する偏見を弱め、ろう者がいっそう活躍しやすくなる社会を目指すための、ささやかな貢献になればと願っています。

なお、今回の担当の社会部記者は、これまでもろう者関係の取材を重ねてきた方だとか。そういうご縁は、大切にしたいと思います。

ご紹介くださり、ありがとうございました。


2009年8月7日 (金)

■研究者が一般書を書いたらしかられる?

研究者が、専門家でない多くの人たちに向けた本を書くのは、いいこと? 悪いこと?

東大薬学部の脳科学者であり、『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス, 2007) などの一般向けのヒット作を次つぎと世に送り出している、池谷裕二(いけがや・ゆうじ)さん。

彼のところに、いろんな批判が寄せられているのだとか。内容についてではなく、研究者がそういう本を書くという行為についての批判である。その実例が、ご本人のウェブサイトで紹介されている。

Gaya's homepage! (池谷裕二のホームページ)
「研究者が一般向けの科学書を著すこと」に対する賛否諸々

研究者が一般書を書くことを批判する人たちが、こんなにいるんですね。叱責を謙虚に受け止めている池谷さんも、たいしたものです。

私自身は、日頃から「お客様あっての、科学です」などと広言している者である。そして、岩波ジュニア新書ポプラ社の絵本を作る仕事などに、喜んで取り組んできた。もちろん、社会を相手にする仕事という文化人類学の性格もあるとは思うけれど、「分かりやすく多くの人に語りかける」ということは、研究者の重要な仕事の一部だと思っている。

一般書の執筆を批判する人たちは、科学の理解者、支持者をひとりでも増やそうということに、やりがいを覚えないのかな。そういうことは、二流の人がやる雑用のように思っているのかな。少なくとも、書きたいと思う人の足を引っ張る必要はないのでは?

「研究を一生懸命やっている教員は、教育にも熱心」という傾向も指摘されている(石浦章一. 2005.『東大教授の通信簿』平凡社新書)。

すぐれた研究は、すぐれた教育や啓発と両立するはず。そのことを、実績として証明できる研究者のひとりでありたいと思います。


2009年8月6日 (木)

■もしもろう者が支配する世界に暮らしたら

うちのつれあい(ろう者)に、こんなたとえ話をふられた。ある日、いきなり。

妻「なあ、もし『世界のほとんどの人たちがろう者で、聞こえる人が少数派』という世界になったら、どう思う?」
私「え…。とくに」
妻「通訳サービスを要求したい?」
私「いや、通訳は要らない。自分で手話を話すから」

手話を話せなかった15年前の私だったら、手話だけで進んでいく世界のただなかに放り込まれて、パニックになっていたかもしれないけどね。

妻「困ったこと、ないの?」
私「あ、ひとつある。世の中がみんなろう者だったら、『夜中は静かにしましょう』というようなマナーはないだろうねえ。深夜でも、いろんな音が響きまくり。聞こえる人たちは、やかましくて眠れないだろうね」
妻「どうする?」
私「それが社会の常識だったら、しょうがないわなあ。自分で耳栓を買って、耳をふさいで寝るか」
妻「自分で買うの?」
私「聞こえる人が安眠権を守るためには、自分で防衛するしかないよね。福祉制度で耳栓の給付があれば、もらいたいけど」
妻「音に過敏すぎる特別な人たちのための、支援制度やな」(笑)
私「そうそう」(笑)

まあ、とくにオチはありませんけど。思考実験としては楽しいですよ。意外な発見も、あるかもしれません。



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