亀井伸孝の研究室 |
ジンルイ日記つれづれなるままに、ジンルイのことを |
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最終更新: 2009年11月28日 |
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■作家マップ (2009/11/28)
■目に頼ると不便!? (2009/11/25)
■「参謀」いりませんか (2009/11/24)
■点字のシンポジウム@民博200911 (2009/11/23)
■ご家族ずれのお客様 (2009/11/17)
■荷物はほどくためにある (2009/11/15)
■レヴィ=ストロースの功績 (2009/11/09)
■2日でできた研究チーム (2009/11/06)
■OS の違う夫婦 (2009/11/04)
■モデレータとしての文化人類学者 (2009/11/02)
■『手話学研究』「特集・手話研究の倫理」刊行! (2009/11/01)
2009年11月28日 (土)
■作家マップ
オンラインの本屋さんビーケーワンが、「作家マップ」というのを作っていると知った。ある著者の本の情報をウェブで見た人は、他の著者の本も見る。こうして、読者のみなさんの関心の傾向が、著者どうしを自然と結びつける。その近さに基づいて、本の著者たちを平面上に並べて示している。
ためしに、私がどういうところに置かれているか、見てみましょう。
へえ、おもしろいですね。確かに、似たような分野の本を出している人どうしが、近くに集まる傾向がある。
でも、どうして私がこの作家の隣にいるの?と、類似点がまったく想像できない著者が近くにいたりもする。すべては読者のみなさまのお導き、見えざる手のなせるわざということなのだろう。
アマゾンの「こんな本も買っています」や「あのひと検索 スパイシー」のように、ウェブ上での「自分らしさ」が何となく決められていく。それを決めているのは、みなさまの「カチッ」というクリックのひとつひとつなのです。
[関連日記]
■あわせて買いたい『通訳者のしごと』 (2009/07/10)
■検索エンジンに教えてもらう「自分らしさ」 (2009/04/07)
■同期の本 (2007/04/05)
2009年11月25日 (水)
■目に頼ると不便!?
先日、民博で行われたシンポジウムには、目が見えない参加者が多く集まっていた。そこで、いくつかの発見があった。機材のトラブルで、パワーポイントがスクリーンに映し出されず、発表者がもたもたと手間取っている。
「すみません…。あれ、なんで映らないんだろう。あの、どうしたらいいですか」
あせりまくる発表者。言うまでもなく、パワーポイントとは、目が見える人たちのための道具である。目が見えない人たちにとっては、それが映ろうが映るまいが何の関係もないことで、むしろ「スライドに頼らずきちんと声でしゃべってくれ」ということになる(実際、主催者からそういうお達しがあった)。見える人たちだけ、あせってハラハラしている。
ようやく発表が始まった。室内の照明が暗くなると、ふっと睡魔が襲ってくる瞬間がある。照明を落とすと眠くなって集中力がそがれるというのは、目を使う人だけの事情である。もとより生活の中で光を使っていない人たちには、関係がない。
江戸時代の盲の学者である、塙保己一(はなわ・ほきいち)の有名な逸話を思い出す。講義中に、風でろうそくの灯が消えてしまい、闇の中で本が読めなくなってあわてふためく目が見える弟子たちに対して、「目明きとは不便なものよのう」と言ってのけたという。
だから見えない方がいいとか、その逆とか、安易にそういう結論を出すことはひかえたい。情報のバリアフリーが完備されていない社会で、そういうことをみだりに言うべきではないからだ。ただし、目に頼りきっている人は、光の状態に振り回されすぎてしまうということは事実のようである。光のあるなしなどにいっさい動じない身体感覚と文化がこの世にあるのだな、ということについては、敬意をもって理解を深めたいと思う。
以上、ちょっとした気付きの備忘録として。
2009年11月24日 (火)
■「参謀」いりませんか
組織の中で働くとき、自分にもっとも適したポジションは何だろう、と考える。いろいろな共同研究や本の編集などで、チームワークの仕事をする。集まった顔ぶれのなかで、自然と役割が決まっていく。それを見ていると、研究者にもいろんなタイプの人がいることを知る。
・強力統率のリーダー
・調整型の管理職
・思いつき満載の遊軍
・一匹オオカミ
・指示待ちの兵隊
・ぶら下がりの幇間(たいこもち)
・反応がない静かな人びと
・クレーマー
・そのほか
実にいろいろだ。観察すればするほど、おもしろい。
さて、私の好みの役柄は、「参謀」です。かつての与党時代の自民党幹事長や、省庁の事務次官みたいな役どころかな。忙しすぎるトップの近くで、あるていど権限を譲り受け、組織内調整をあらかた済ませて原案を作り、決裁のために差し出す。そういう雑事をまとめることが得意でもあるし、なんともおもしろいと思う。
舞台の上で脚光を浴びるヒーローもけっこうだけれども、こういう渋めの役割も悪くない。「君側の奸」と言われるほどの仕事ぶりができる参謀になれたら、これは、実にかっこいいことではありませんか。
「参謀」いりませんか?
2009年11月23日 (月)
■点字のシンポジウム@民博200911
国立民族学博物館(民博)で開かれた、点字をめぐる国際シンポジウムに参加した。今日主流となっている6点点字の発明者である、フランスの盲人ルイ・ブライユの生誕200周年を記念する行事である。私は、学生の頃、近所の公民館で開かれた2-3日の集中講座で、盲の先生に日本語点字を教えてもらったことがある。しかし、恥ずかしながら、その後いちども点筆を握ることなく、すっかり忘れてしまった。点字使用者のみなさま、まことにもうしわけありません。
そんなできの悪い私を呼んでくださったのは、全盲の民博准教授、広瀬浩二郎さん。
私「私は手話に関わりのある研究者だから、点字のシンポには合わないでしょう」
広「いや、多文化共生シンポだから、いろいろあってええんちゃう」
私「じゃあ、『手話と点字をまぜこぜにあつかうのはよくない!』という発表をしますよ」
広「うん、それでいこう」懐の広い行事である。かくして私は、40分の講演で、日頃の思いをありったけ話すことにした。
・日本語を表記する文字である点字と、日本語とは異なる言語である日本手話は、別物です
・それらを並べてまぜこぜにあつかってしまう風潮は、どちらに対しても理解不足で、失礼なことです
・手話と点字をまとめたがるマジョリティの偏見こそ、正さなければなりません
・こういう大事なことは、小学生の頃からきちんと教えましょう
・文化人類学も言語学も、そういうことに取り組みましょう
ある先生からは、「戦闘的な啓蒙者ですね」というおほめのことば(?)をいただいた。
「世界には、約7000種類もの多様な言語があり、そのなかには多くの音声言語と手話言語が含まれています」
「主要な音声言語には、正書法がふた通りあります。墨字(すみじ: 目で読む文字)と点字です」
こんなふうに、多言語社会をフェアに紹介する教科書はできないかな。自分の発表を準備しながら、そんな思いを確かめた。
音声言語文化のひとつとして、点字という少数文字を発明し、使い、伝承と普及に努めてきた、多くの先人たちに敬意を表します。多くのことを学ぶ、実りある機会となりました。
[20091224付記]
毎日新聞大阪本社版(20091224朝刊)の記事で紹介されました。
■毎日新聞に民博シンポでの講演が掲載 (2009/12/24)
[20100920付記]
このシンポジウムがもととなった論文集『万人のための点字力入門』が刊行されました。
■点字と手話はなぜまとめてあつかわれるのか (2010/09/20)
2009年11月17日 (火)
■ご家族ずれのお客様
あるお店での掲示。「ご家族ずれのお客様」
うーむ。どうやらこの店には、ご家族にすれているお客さんが、よく来るらしいよ。笑
家族に慣れきっていて、世の中をなめているような客が、ぞろぞろと大挙してやってくる光景が目に浮かんだ。
いやはや、日本語はこれだからおもしろくてやめられない。
2009年11月15日 (日)
■荷物はほどくためにある
これといって取り柄もない私だが、ひとつだけ誇るべき習慣がある。「旅行から帰ったときの荷ほどきが、ものすごく早い」
これだけは、自慢したいと思います。
出張を終えて、ただいまーと家につく。カバンをどっかりと置いて、そのまま休みたい。でも、カバンのなかにほどかれていない荷物が残っているのが、どうにもガマンできない。「これはお土産」「これは洗濯物」「これは洗面セット」「これは資料」などと、とにかくすべてを引っぱり出して分類し、カバンが空になるのを見届けてしまわないと、気が休まらない。
あくせくすること、ものの5分ていどだろうか。空っぽになったカバンを見て、やれやれ、やっと家に着いたという気分になる。
以前は、こうではなかった。とりあえず、とカバンに物が詰まったまま部屋に置いてしまう。置いたが最後、そのまま何日も入れっぱなしになったこともよくあった。後になって、必要な物を探したり、のろのろと片付け始めたり、めんどうくささが100倍にも増幅されたようで、かったるいことこの上ない。
「めんどうくさいことは、即決に限る」。そう決めてから、荷ほどきだけは早くなった。
そもそも、荷物とは「運ばれることに意義がある」。運ばれ終わったら、もはやまとまりとしての荷物の存在意義はない。
「荷物はほどくためにある」と10回つぶやいてみたらどうでしょう。ほどかれないままの荷物というのが、許せなくなります。そう、それでいいのです。
【類語】「封筒は開けるためにある」
…これも、たまにつぶやいてみるといいかもしれません。手紙や書類をためてしまいがちなみなさまへ。これも、かつての私によく効いたおまじない。
2009年11月9日 (月)
■レヴィ=ストロースの功績
構造主義人類学の泰斗である、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏が、10月30日に亡くなったという。福岡で開かれていた人類学の合宿研究会のなかで、そのことを知った。享年100。構造主義者らしい(?)、美しい区切れ目での他界である。生前、本人は「構造主義者」と呼ばれることを望まなかったそうだ。まあ、それはそうかもしれません。「○○主義者」というのはたいてい他称なのであって、自分は常にその領域の王道を歩んでいるに違いないのだから。
かねがね思っていることがひとつ。レヴィ=ストロースは、サルトルら実存主義者と対決したことで知られている。でも、本当の功績はそれなのかなあ、という思いがある。
私個人としては、彼の最大の寄与とは、「文化人類学における機能主義の限界を指摘したこと」ではないかと思う。その発見は、やがてボディブローのように効いてきて、ヨーロッパ人から「世界を代表して語ってよい」という特権を剥奪してしまった。
世界の認識を変えたレヴィ=ストロースを、ヨーロッパという一地方の思想史の役者にとどめておくのはもったいないと私は思います。もう一度、読み直してみましょうか。
以上、追悼日記。
2009年11月6日 (金)
■2日でできた研究チーム
「共同研究を組織しましょう。書類の〆切は、あさって必着」こんなメールが舞い込んだ。え、あさって? ということは、事実上、たった1日で全関係者の了承をとって書類を作り上げるの? いくらなんでも、それはムリでしょう。
「とにかく、メーリングリストを作りました」
「あと○人足りない、だれかいませんか!」
「文面、ご確認を」
なんだなんだ、この展開。まあ、やるならちゃんとやりますか、ということで、書類に目を通す。
あ、この事項がもれている、誤字がある、この文言を入れよう…。チェックを始めると、いろいろと手を入れたくなる。私もぶつぶつ言いながら、けっこう付き合いがいいほうである。
私のほかにも、なんだかんだと言いつつ協力する人たちが、ちらりほらり。こういうとき、その人の性格が出ますね。
「完成させて、応募しました!」
はあ。おつかれさまでした。強引なリーダーと、付き合いのいい協力者がいると、物事は想像以上の早さで進むのかもしれません。
[20091122付記]
本件、採択されたとか(すごい…)。人生、決してあきらめてはいけませんね。
2009年11月4日 (水)
■OS の違う夫婦
世の中には、いろいろな違いをもつ夫婦の組み合わせがある。国籍が違う、民族が違う、言語が違う、宗教が違う、など。さて、今日の話題は「OS の違う夫婦」。実は、私のつれあいは筋金入りの Windows ユーザーで、私は10年以上にもおよぶがんこな Mac ユーザー。はたして、平和に共存できるでしょうか。
先日、たわむれに、お互いのいい所、悪い所を述べ合ってみた。悪い方の話題で、つれあいから真っ先に出てきたのが「あんたがマックユーザーなこと」。うわ。
それぞれ専用機をもっているので、ふだん PC を交換して使うことはない。メールもワード文書も PDF も、基本的に互換性があるやりとりばかり。でも、ときどき必要があって(動画の編集をするとか、旅先で貸し借りするとか)、Mac を貸すと、キー配列などの細かい仕様が違ってイライラするんだって。また、うちに無線 LAN を導入しようとしたとき、OS の違いがちょっとしためんどうの元になったことがあった。
私? いえ、私は Windows も使うから、そんなにいらだちはないですよ。マイノリティは、マジョリティのことをよく知っているんです。でも、逆は必ずしも真ならず。
OS の違う夫婦のみなさん。快適な共存の知恵があれば、ぜひ教えてください。(笑)
2009年11月2日 (月)
■モデレータとしての文化人類学者
日本手話学会で、研究倫理に関する企画をいくつか担当していて、気付いたことがひとつある。それは、文化人類学者の特技。昨日も書いたように、日本手話学会は、ろう者と聴者、手話と音声言語というふうに、属性や言語が異なる人びとが、快適に共存しなければならないという使命を帯びている。それはおそらく、この学会の存立の根幹にも関わる、重要なポイントである。
さらに、この学会は、学際性の高い団体でもある。手話を研究対象にする人であればだれでも歓迎する方針をもっているため、言語学、会話分析、歴史学、情報工学、倫理学、社会学など、いろんな分野から会員が集まってくる。それ自体が、文化的多様性を示している。
「うちの分野では、これが当たり前」
「私たちの学会では、こうなんです」
それぞれの分野の流儀を通したい研究者たちが出会って議論すると、当然、かみあわないことも出てくる。こうした議論を、ひとつメタなレベルでうまくまとめるということが必要なとき、「だれの話でもとりあえず聞く」文化人類学者は、最適なモデレータ(仲介者)になれるという発見があった。
「ああ、なるほど。そういう流儀もありですね」
とりあえず否定せずにあいづちを打ち、すべてを聞き出すのだ。
最近、立て続けに、シンポジウムや学会誌の特集で、研究倫理の繊細な問題を考えることがあり、議論の交通整理役を引き受けた。そのときに役に立ったのは、文化人類学の専門知識というよりも、「異なる人と出会っても動じないで、とにかく話を聞き続ける」という、フィールドワークのセンスだった。
もうひとつ。望ましい手話研究のあり方を議論するなかで、ろう者の研究者たちから、「文化人類学のように、対象集団に自ら参加して学ぶ姿勢をもっていただきたい」といったことばが何度もとびだした。このことは、文化人類学の業界に身を置く者のひとりとして、たいへん名誉なことだと感じた。ほかならぬマイノリティの人たち自身が、「文化人類学を見習え」と言ってくれているのだから。
文化人類学のご同輩、ぶつぶつと自己批判している場合ではありませんよ。この分野の持ち味をいたるところで使い、そのよさを広く知っていただくために、どんどん営業していこうではありませんか。
[20100106付記]
日本手話学会の研究倫理シンポジウムの報告書が、日本手話学会のホームページに掲載されました。ぜひごらんください。[こちら]
2009年11月1日 (日)
■『手話学研究』「特集・手話研究の倫理」刊行!
ここ何カ月間か労力を振り向けていた、日本手話学会の学会誌『手話学研究』第18巻 (特集「手話研究の倫理」) が刊行された。昨日行われた、学会大会でのシンポジウムとも連動した出版企画である。大会の会場で、刊行なった新しい雑誌が配られた。この学会誌で「倫理」をテーマとした特集を企画するのは、これが初めて。
日本手話学会は、日本手話と日本語の両方を公的な使用言語とする学会で、ろう者の研究者も聴者の研究者も、どちらも参加している。それなのに、この二言語、二文化の共存があまりうまくいっていない、学会運営や行事開催にも支障が出るほどだという指摘があいついだ。
それなら、「意見の言いっぱなし」ではなく、きちんと誌上で公開で議論したらいいのでは?と思いついた。私がもっとも嫌いなのは、大事な議論が会話や私信メールだけで終わってしまい、後世に残らないこと。時間のむだだし、大げさに言えば「知的遺産の散逸」でしょう。こういう大事なテーマこそ「蓄積と公開」の姿勢で対話して、後世の人も含めて広く見てもらえるようにしませんか、と。そんないきさつで、特集企画のお手伝いをすることになった。
解散や休会の危機もあったこの学会で、どれほどの原稿が集まるかなとも思ったが、なんと3カ月たらずで、9人の寄稿者から、計7万字近く(ほぼ新書1冊に迫る量)の論考が集まった。この分野の振興に向けた寄稿者のみなさんの強い熱意を感じ、編者としてはとてもうれしかった。
マイノリティの言語である手話と、マジョリティの言語である音声言語が、研究対象として、あるいは使用言語として、学会や大学などの学術界で対等に共存するために、手話に関わる研究者ひとりひとりはどのようなことを念頭に置いておくのがよいだろう。それを考えることは、手話の研究を奨励するだけでなく、学術界と社会との対話を深めていくための、ひとつの試金石ともなるだろう。
ろう者3人、聴者6人のあわせて9人がともに取り組んだ、少数言語研究の倫理をめぐる建設的な対話の試みです。特別付録「研究倫理を考えるための文献ガイド」付き。ぜひ、多くの方がたに、お手に取っていただきましたら幸いです(関心のある方は、日本手話学会に直接お問い合わせください)。
日本手話学会『手話学研究』第18巻 (2009年10月31日)
<特集>手話研究の倫理
(目次より)
「特集・手話研究の倫理」の序に寄せて
研究倫理をめぐる複数のカルチャー
日本手話学会の再生へ向けて
手話会話にみる我々が考えるべき倫理: 「空間的連鎖構造」の提案に向けて
文化人類学的な視点から検討する手話研究者の素養
日本聾史学会の方向性と倫理について
対話の要約としての倫理綱領: 日本手話学会倫理綱領策定準備にあたって
医工学における倫理と日本手話学会への提言
共通語としての言語理論
手話研究者の倫理を考える: Aさんへの手紙
研究倫理を考えるための文献ガイド
内容詳細は、こちらのページをごらんください。
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