AACoRE > Laboratories > Kamei's Lab > Index in Japanese
ILCAA
亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2017年5月

日本語 / English / Français
最終更新: 2017年5月20日

[←前の日記へ][今月の日記へ] [テーマ別目次へ] [月別目次へ][次の日記へ→]

■アビジャン日記 (6): 国軍兵士の不穏な動き/自宅近くでの銃撃事件 (2017/05/20)
■オタワ日記補遺/アビジャン日記 (5): アフリカにまつわるふたつの焼き鳥/リビング水没事件 (2017/05/13)
■オタワ日記: 国際人類学民族科学連合(IUAES)の中間会議に参加 (2017/05/06)


2017年5月20日 (土)

■アビジャン日記 (6): 国軍兵士の不穏な動き/自宅近くでの銃撃事件

今週は、アビジャンを含むコートジボワール全土で、一気に軍事的/政治的緊張が高まった週でした。副産物で、自宅でちまちまと論文を書いていました。

■国軍兵士の不穏な動き
最近、国軍兵士の不満分子が、アビジャン、ブアケ、ダロア、コロゴなどのいくつかの主要都市で、発砲や道路封鎖などの実力行使をもって、政府に対する示威行動を行っている。

話は7年前にさかのぼる。2010年、コートジボワールの大統領選挙の結果をめぐって、当時の現職であったローラン・バボ氏と新人アラサン・ワタラ氏のふたりが自身の当選を主張し、それぞれが組閣、同じアビジャンにコートジボワール共和国政府を名乗る勢力がふたつ成立した。

国連もアフリカ連合もフランスを含む主要国も、ワタラ氏の当選とその政府の正統性を支持し、最終的には、アビジャンでの市街戦を含む軍事衝突によって、バボ氏は拘束され、ワタラ政権が確立した。

これにて一件落着、はよかったものの、国内には不満分子がいくつも存在している。もちろん、軍事的に敗北したバボ陣営の不満はくすぶり続ける。

また、ワタラ陣営のなかにも、不満の種がある。当時の武装勢力の中には、高額の報酬を条件にワタラ陣営に協力した者たちがいる。やがて内戦は終結し、ワタラ氏は晴れて唯一の大統領となったわけであるが、かつて武装勢力の一員であり、現在は国軍に統合されている兵士たちのなかには、ワタラ氏が当時の報酬の約束を果たしていないとして、未払いの報酬を要求する示威行動を時どき起こすのである。

先週から今週にかけて、各地の軍事施設での発砲と、一部地域での道路封鎖の速報が何度か流れた。ニュースだけならまだしも。日本やフランスやアメリカの大使館がいっせいに自宅待機や職場閉鎖、学校の休校を発表し(私も日本大使館の方から注意喚起の電話を受けた)、会社や銀行が閉まり、店が閉まり、往来の人びとの姿が消え始め、道ゆくタクシーが減り始めるとなると、さすがに私も警戒の度合いが高くなる。大学でのアポをキャンセルし、遠出をやめ、自宅の水と食料の備蓄を確かめた。

内戦終結から6年。すっかり平穏なたたずまいを取り戻し、繁栄を謳歌するに見えるアビジャンであるが。「今朝、何発かの銃声あり」といったニュース速報で、一気に市民たちに警戒心がよみがえる。

■自宅近くでの銃撃事件
月曜日の深夜。自宅のベランダで涼みながらパタパタとキーボードを打っていたところ、パパパパパパパン、パパパン、パパンと、銃声のような音が聞こえてきた。そう遠くない距離から。おいおい、本当に戦闘が始まったんじゃないか。流れ弾が怖いから、大まじめに頭を低め、ベランダのものを片付けて、家の電気を消して中にこもった。

銃声は続く。パパパパンという高い連射音とズーンという低い爆発音の、ふたつの異なる音が聞こえたから、交戦状態なのかもしれないと考える。深夜だったけれど、聞こえる友人には電話で、聞こえない友人にはメールで、このできごとを報告した。えーと、銃撃、fusillade は、男性名詞だっけ女性名詞だっけ、と、こんな危機の中でも、メールを打つときのフランス語の冠詞を気にするアホである(fusillade は女性名詞)。

友人たちのアドバイスはこうだった。

・大丈夫だから、落ち着いて。
・何があったか、見に行ったりしないように。
・戸締まりをして、照明を落としなさい。
・窓の近くにはいないで、横になること。

なんだなんだ、この落ち着きようは。まるで、台風の時の「川の増水を見に行ったりしないでください」、ちょっとした地震の時の「落ち着いて、机の下に」みたいなレベルですか。

そうなんである。翌朝、友人たちと会って、昨日のことを話したところ、銃撃の音が聞こえた時にはそうするものだという。話を聞けば、ほんの6年前、2011年のアビジャン市街戦の際に、銃撃、空爆、戦線包囲網の中での食糧難、徒歩での逃避行などの危機に直面して、生き延びた経験をもつ人ばかり。銃撃の音くらいでそんなに慌てないように、というニュアンスがこもっていた。

日本に来た留学生が、震度1-2くらいの軽い地震で怯えてしまい、慣れっこになっている日本の人たちがみんなで冷静な対応を説く、みたいな光景を思い出した。

翌日の報道で、実際、自宅の近所の警察駐屯地が、素性不明の集団によって襲撃された、と知った。あれは杞憂ではなく、本当の銃撃だったのである。もしこれが、若者たちの花火か爆竹遊びとかであって、心配性のアホな外国人が勘違いして騒いだ一件、ていどに笑って流してくれたらどんなによかったか。

あれが本当の銃撃であったこと、そして、それをあまりに冷静に受け止めて対処する当地の市民たちの感性にも、ヒヤリとした恐怖を覚えた。この街のメンタリティとして、戦争は終わっていない。私は、アビジャンのことを何にも知らないのだ。

#兵士による示威行動がもっと激しく行われていた軍の基地近くに住んでいた日本人の方は、朝から晩まで銃声を聞きながら自宅で過ごしたとのことである。ご無事で何よりだった。

■いくつもの戦争の傷跡
私がお世話になっている、フェリックス・ウフェ・ボワニ大学。ここの大学の美しい芝生のキャンパスも、数年前には戦場となっていた。

もちろん、大学は閉鎖、荒れ放題となった。図書館は破壊され、多くの蔵書が散逸した。この大学にはかつて日本語の講義があり、JICA の支援で日本語の蔵書が一部屋にぎっしりとそろえられていた。それらは、すべて燃えて無くなってしまったという。

不安材料は、国軍内部の不満分子だけではない。アビジャン市街戦がもたらしたこととして、銃が市内に拡散してしまったことがあるとされる。

戦時中は、両陣営とも軍事的勝利を目的として、一般市民にも武器を配布し、民兵として戦闘への参加を呼びかけるなど、あらゆる手段を講じていた。戦後、街中には銃を持った人たちがうろうろと出歩いていた。戦時に配布されたカラシニコフ自動小銃を、自慢げに周囲に見せびらかす人たちなどもいたという。

#なお、コートジボワール内戦の際には、ろう者たちも動員されて、民兵として銃を構えて戦闘に参加していた、という話を聞いた。語りなので、実相は不明。

その後、銃の回収は行われたものの、実際にはどこまで回収されたか分からない。各所に隠されていて、民間で生じる騒乱や強盗犯罪などの時に使われることもあるとの話も聞く。戦闘が止まったら戦争は終結する、というものではない。

■協定大学の夢と現実
私が今回、アビジャンに滞在するにあたって、ひとつ隠された野心があった。それは、「アフリカに協定大学を作ること」。

私の日本での勤務先である大学は、海外留学する学生も多く、ヨーロッパ、アジア、北米、ラテンアメリカと、世界中に学生を送り出し、また、協定大学を作ってきた。

…で、アフリカは? 今のところゼロである。選択肢として、ふたつみっつあってもいいんじゃないですか? せめて、英語圏にひとつ、フランス語圏にひとつ、そしてアラビア語圏にひとつ。

アビジャンには、歴史の長い総合大学があるし、フランス語の勉強にもいいし、欧米よりも安く暮らせるし。水道などの都市インフラに少々問題はあるものの、フランス語の能力がそれなりにあって、アフリカ研究を目指したい学生にとっては、いい所なんじゃないかな。こちらの大学の教員たちと、そういう話題をかわしたこともある。協定とか、交換留学とか、そんなことができたらいいですよね、みたいに。

「銃声あり」のニュースが、こういう夢をすべてくじいてくれる。こういう危険なことが(いつもではないが)時どき起こりうる所に、大学の公務として学生を滞在させることなどできない。

何発かの銃声が、多くの人びとの生活に影響をもたらし、夢と計画を頓挫させる。投資も開発援助も逃げ、学術文化交流もストップし、すべて近隣の平和な他の国に向かってしまう。割を食うのは、武器をもたない民衆たちである。

■少し敷居の高い街、アビジャン
実は、私がアビジャンに長期で滞在することに関連して、いろいろなお声がけがあった。

「アフリカに、私も行ってみたい」
「せっかくだから、いる間に」

うれしいような、でも、今はこういうアビジャンだからな…という困ったような、微妙な感情に襲われる。

基本的には、アフリカにどんどん来ていただきたい、と思う。アフリカに来て、見て、食べて、しゃべって、アフリカの人たちから多くを学んだ上で、世界で活躍する人たちになってほしいと思うからである。

でも、その「最初のアフリカ訪問」を検討する上で、今のアビジャンが最適かと聞かれると、ちょっと微妙な返事にならざるをえない。

最大の理由は、先に述べたような軍事的/政治的リスクである。ある日銃声が聞こえてきて、自宅に食料を備蓄して、頭を低くしてこもる必要がありうる都市に、どうぞみんなでツアーを仕立てておいでください、とはやはり言いにくいのである。しかも、これは一過性の偶発的な犯罪ではなく、継続的かつ構造的な問題だから、たえず火を吹く可能性が潜在的に存在している。

もうひとつ、やっぱり住んでいて思うのは、「ここはフランス語の世界である」。英語でも多少は通じますよね?という期待もあるかもしれない。確かに、大学の教授とか、エリートビジネスマンのような、裕福で教養のある社会階層の人たちだけと付き合うのであれば、英語にも合わせてくれるに違いない。しかし、英語では、街で買い物もできないし、市中を移動することもできない。

生き馬の目を抜くような、激しい生存と利益追求のための闘いがせめぎあう街。ブロークンなフランス語で、時には怒鳴るような勢いで値段交渉をし、乗り合いタクシーやバスで行き先を定め、拒否されながらもしぶとくケンカ腰でしゃべり続けて、乗り物に乗り、買い物をする。英語で情報が通じるかどうか、よりも、ただでさえ見てくれで目立つ外国人が、「こいつはフランス語ができないやつだ」と目されて、法外な値段でぼったくられたり、カモにされたりする危険の方を私は心配する。

#付言すると、ひとたび仲良くなれば、損得抜きに心から歓待してくれる友人も多い。全員が常にこういう姿勢で接してくるというわけではない。

一度はアフリカへ、という思いを応援したいとは思うが、やっぱり今のアビジャンは少し敷居が高いのである。アフリカのどこでもいいなら、兵士が反乱を起こすような兆しのない国を選んだらいいだろう。街行く人たちがみな英語でスムーズに応対してくれることを期待するなら、英語を公用語とする旧英領の国ぐにを選ぶ手もある。

アビジャンでなければ達成できない目的がある人は別として。「アフリカのどこか」という思いを満たすためなら、選択肢は他にも多いはずである。現地に住んでいて、そう思う。

■4種類の水を使い分ける
相変わらず、自宅の水道の水が出ない。先週の木曜未明に、自宅の部屋が水没するほどのありがた迷惑な水量に恵まれたが、それっきり、水が出ない。今日の土曜日で、9日目である。もうこれは水道だとは思わず、「蛇口の形をした室内装飾」だと思うことにした。期待しなければ、失望することもない。

金、土、日、月、火。うちだけでなく、地区全体で水が出ないらしく、さすがに近隣の人たちも、空の容器をもって往来をうろうろし始めた。近所の教会や学校、知人の家で水が出るらしい、ともらいに行ったり、水を売りにくる車から容器1杯いくらで買ったりする。

いま、自宅では、台所の桶にため置いた水を、節約しながら少しずつ使っている。うちのつれあいと話していて、生活の中で4種類くらいに水を分類して使い分けていることに気がついた。

(I) まず、最も上質の水とは、店で買ったペットボトルの水。直接飲む。
(II) 次のランクが、くみ置きの水道水。直接は飲まないが、料理に使う。
(III) 三つ目のランクが、雨水。豪雨の時にためた水を、食器洗いや洗濯、水浴に使う。
(IV) そして四つ目のランクが、食器洗いや洗濯の後に残った汚水。これをためておいて、トイレで流す。

使い方を誤ると大変だが、何となく容器と置き場所を区別することで、そういう慣習がうちでできた。

水道水がふんだんに出る時には意識もしないが、自分の中の隠された衛生観念が具現化したみたいで、ちょっとおもしろかった。

■軍事的緊張の中で論文を書き終える
今週は、軍事的緊張のせいで、あらゆるアポをキャンセルして家にいたので、妙に時間ができてしまった。じゃあ書きかけのフランス語の原稿の続きでも書くか、と没頭したら、なんとこの1週間で終わってしまった。

正確に言えば、共著論文のうちの自分の担当箇所ということなのだが。フランス語の語数で言えば3,500語あまり、日本語にしたら9,000字程度の原稿である。英語版の論文がすでにあり、それをフランス語に置き換えていく。

これまで、英語版のウェブサイトをもとにウェブサイトのフランス語版をちまちまと作ってきた私にとって、自分の得意分野のことをフランス語でぶつぶつと書くのは、ほとんど趣味のようなものである。ビール飲んだ後、ベランダで夕涼みしながら一節翻訳するか、という感覚であった。投稿先のジャーナルの投稿規定をくまなく読み、図表もすべてフランス語に訳し、投稿のためのスタイルを完璧に整え終えて、この週末を迎えた。この作業自体が相当勉強になった。

軍事的緊張が高まると、外での用事が減るので、論文の筆が進む。「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だが、既視感があった。2007年に日本ではしかが流行し、大学が「はしか休校」を実施した時のことであった。2週間のお休みが舞い込んで、想定外の時間を授かった私たちは、それを活用して一気に執筆と編集を進め、本ができてしまった。そんなこともあったなあと思い出した。[関連日記]

photo20170519_football

■週末の風景:サッカーと市場
今週前半、緊迫の度合いが高まったアビジャン。後半は、少し緊張も和らいだ。銃声も聞こえなくなり、オフィスも学校も開き始めた。

金曜日、ろう学校でサッカー大会が開かれた。6月から長期のお休みに入る前の、恒例の年度末スポーツ大会なのだとか。小3以上の男子たちが、二手のチームに分かれて、青チーム勝て、黄チーム勝てとみんなで応援して観戦した。銃声も銃弾もない、小さな幸せな風景が戻ってきた。

家に帰る途中、ヨプゴン地区の中でもひときわ賑わいを見せる市場を通り、買い物をしながら歩いた。タマネギ、キュウリ、ナス、オクラ、ニンニク。あれこれ品定めしながら、週末のための野菜を買い込む。

朝方の大雨のせいで、路地は泥沼のようなぬかるみになっている。晴れてから路上に店を出してきた商人たちはたくましく、あれも買え、これも買え、もっと買え、と小うるさい。炎天下に並べられた魚や肉の全体が、何とも言えない臭気を放っている。

バナナ1本、ミル・フラン(1,000フラン)だ!お前買うか?などと言って、売るつもりもないのに法外な値段を言ってからかってくる。シノワだのヒーホーだの言って笑い、珍しい顔立ちの客である私たちにちょっかいを出してくる。実は探して買いたい物があるんだがと聞いてみたら、案内するから金払え、とか言ってくる(もちろん断る)。

市場が両側に立ち並ぶ路上は、タクシーとウォロウォロ(乗り合いタクシー)とバカ(小型バス)でひしめき合い、歩行者そっちのけで猛スピードで突っ込んでくる。運転手どうしがゆきずりの口げんかをし、通行人とリアカーがぶつかってもめている。

猥雑で、汚くて、におって、泥がはねて、やかましく、しつこく、腹立たしく、そしてどこか人なつこい。市場にこの風景が戻ってきた。これでこそ、アビジャンだと思う。

住民がみな戸締まりをし、食料を備蓄して家にこもり、往来には人影もなく、息をひそめて戦闘の行き過ぎるのを待つ。それも、アビジャンがこれまで経験してきた風景のひとつである。しかし、そういうアビジャンであってほしくない。みんなが好き放題勝手に活動する、この自由で猥雑なアビジャンが、私は気に入っている。

さて。今週はそんなこんなで、引きこもって論文を書き、半年ぶりの動画編集を再開するというふうに、デスクワークが進む一方で、大学での用事が止まってしまった週でした。来週は、安全を確かめた上で、そろりそろりと大学にも向かおうと思います。

本当に、物騒なことが起こりませんように。それから、水道の水が出ますように。

では、また来週。Bon week-end!


2017年5月13日 (土)

■オタワ日記補遺/アビジャン日記 (5): アフリカにまつわるふたつの焼き鳥/リビング水没事件

小雪の舞い散るオタワから、熱帯の酷暑のアビジャンに戻りました。うわ、暑い。再適応に、なんか時間がかかっています。

■北米先住民の文化を訪ねて
今週前半の、オタワの滞在。学会公式行事として、最終日に北米先住民の地域(Algonquin First Nation Kitigan Zibi)を訪ねるツアーが組まれた。折しも集中豪雨で荒れ狂うオタワ川の橋を越えて、ケベック州に入り、雪が降りしきる林の中をバスで移動。オタワから100キロ強ほど北上したところにある。文化施設ふたつと手工芸品販売店を訪ねて、お話を聞き、収蔵品を見学し、食事をして、歴史と文化を学ぶというものであった。

煙を客人の身体にかけて迎え入れるという儀礼から始まり、ヨーロッパ人の入植と土地収奪による苦難の歴史、そして今なお生活水準の面でも言語文化の保持の面でも土地をめぐる権利の面でもさまざまな課題を抱えていることが、お年寄りたちの静かな語りのなかで紹介された。

その苦難の歴史の長さから見れば、日帰りのバスツアーでやってきていろんな質問を浴びせる数十人の人類学者たちって、さぞかし気楽な観光客に映るのだろうなあ。世界の各地からここに集まってくれてありがとう、ということばに込められた、語られないさまざまな感情を想像した。大学などでの教育を仕事にしている参加者が多く、自分の大学に帰ってこの経験を伝えますと述べる人たちもいた。人類学者の社会的役割/使命のようなことも考えた。見学受け入れに感謝している。

■ケベックとボーア:大英帝国に併呑された入植地
オタワ出発前に、カナダ戦争博物館を訪れた。

カナダとアフリカをつなぐ歴史のひとつとして、ボーア戦争の展示が充実していたのが興味深かった。この戦争は、カナダにとっても大きな転換点であったという。そもそも自国の領土防衛とは関係ない、地球の反対側の戦争になぜ軍を出すのだと、意見もかなり割れたらしい。結局、英国との関わりの中で参戦することになったのだが、とくにフランス系入植者の多いケベックでは反戦の主張が強かったという。

そりゃ、そうでしょう。ボーア戦争って、大英帝国に反旗を翻したオランダ系入植者(ボーア人)たちの国家を叩き潰すための戦争ですから。ケベックの人たちは、英語優位のカナダにおける少数派として、自分たちの境遇をボーア人に重ねて見ていたに違いない。大英帝国に併呑された入植者たちの心情を、少しだけ想像した。

…でも、ケベックにしてもボーアにしても、そもそも先住民たちの立場はいったいどうなるのさ、という問題は共通してあるのですが。

■アビジャン再適応
さて、大西洋を越え、パリで乗り換えて、地中海もサハラ砂漠も越えて、ふたたびアビジャンに戻ってきました。

あ、暑い。

ついさっきまで、雪が降りしきる中で、長そで服を2枚重ねて着ていても寒い寒いと言っていたのが。長そでの服などもう見たくもない、という酷暑の熱帯に舞い戻る。地球は広く、多様である。ことばにできない、この環境の違い。

気温だけでない。貨幣価値、時間の流れ、人脈、ウェブ環境、食事、そして言語。いろんなことを、アビジャン仕様に戻すのに、何日かかかった。

カナダでの生活も、快適でよかったな。でも、何というか、あの暮らしは日本でも代替可能な感じもするのである。

たとえば、クレジットカードをどこでも使えて、ウェブは速くて、買い物の時におつりの有無を気にしなくてよくて、タクシーやバスの運転手は静かに仕事をするので苛烈な交渉もバンバンと車の屋根を叩いて客寄せすることもない。

何だ、日本と同じじゃん。という感想である。静かで楽で速くて便利だけど、何かギラギラした生存のための闘いというものを感じない。

その真逆の、ギラギラした生存が400万人集まってせめぎ合っているアビジャンに、私は帰ってきた。バンバンと屋根を叩くやかましいバスに乗り、細ごまと交渉し、おつりの有無を気にしながら、せめぎあう400万の生存のなかのひとりに戻っている。

(なお、カナダでの生活費は何倍も高いですね。食べて飲んで寝るという生活のためだけでこの出費か、と思わずにはいられない。あと、消費税がかかり、チップもかさみ、と、貨幣生活的にはけっこうくたびれる面も多かった)

■アフリカにまつわるふたつの焼き鳥
アビジャンに戻って、路傍の焼き鳥屋に入った。キンキンに冷えたビールを飲みながら、路肩でパタパタと焼いているニワトリを、アティエケとともに食べる。ニワトリ半羽1,500、アティエケ1袋100。唐辛子が効いていて、ビールが進む。

骨をかじりながら、ふと、オタワで食べたあのナンドーズのチキンを思い出した。そして、何か表現しにくいのだけれど、あれとこれの違いをいろいろと考え始めて、思わずひとり笑いしてしまった。

どちらも、アフリカに由来する、焼き鳥のお店であることには違いない。

かたや、世界中に展開するファストフード店となり、おそらくは店舗を展開した先ざきで柔らかいブロイラーを調達して、記号としては「アフリカ発祥」というイメージを押し出しつつ、テレビ CM が YouTube で受けて、ウェブの炎上で人気を稼ぐという、まさにネット依存の多国籍企業である。

こなた、アビジャンのヨプゴン地区のビールが飲めるお店のかたわらで、毎晩ひとりで兄ちゃんがチキンをさばいてはパタパタと焼き、酔客の相手をする。その鶏肉は筋肉質で歯ごたえがあり、あのブロイラーチキンとはまるで違うものであった。

記号としてウェブで世界に流通する焼き鳥屋と、対面の客だけで黙々と商売する焼き鳥屋。どちらがいい/悪いではなく、どちらも気に入っているのではあるけれど。今のアフリカがもち合わせたふたつの現実世界について、焼き鳥をかじり、爪楊枝でチクチクと奥歯をつつきながら考えた。

(ちなみに、お値段は、5:1くらいで、圧倒的にファストフードチェーンの方が高かったです)

■リビング水没事件
今週の事件と言えば、これです。家でたいへんな失敗をした。

かねてから水不足に悩まされていた、このアパート3階の借家ですが。帰宅してみて、やはり水が出ない。

「晩は水道の消費が減るから、水圧が上がるんだ」
「いいか、晩には水道の栓を開けっ放しにしておけよ」
「いつ水が来てもいいように」
「水が出たら、すぐにバケツにためるように」

こういうふうに、大家や友人たちに言われるのである。

今回もそう言われたので。まあ、そんなもんかと思って、台所の水栓を開けっ放しにして、ベランダでビール飲んで、そのままうたた寝をしていた。

未明、3時。なんか、ベランダの床がぬれている、雨でもないのに、というときに、はっと気付いたのだ。なんと、リビングの床が水浸し! 台所の床も水浸し! 家中が、池のようになっている!!

つまり、深夜に水道が復活したのだ。台所の水道が全開で、ごうごうと水が出ている。水は汲み置きのバケツを満たし、さらにバケツの底がシンクの排水口をふさいでいて、シンクからあふれ出した水が、なんと家中を水浸しにしていたのだ!

なんだなんだこれ、と、泣きそうになりながら、水を止め、ほうきで家の床にたまった水をベランダに掃き出した。

幸いだったのは、水浸しになったのは家の一部であって、すべてではなかった。また、リビングの床にほとんどものを置いていなかったので、PC、携帯、プリンタ、そのほか大事なものはいずれも被害がなかった。せいぜい、床に置いていたトイレットペーパー2本、紙袋ひとつ、そしてカバンと地図とUSBメモリが少しぬれた程度。乾かしたら現状に戻るものばかりであった。機器が壊れず、調査関係のデータが飛ばなかったのは、本当に、不幸中の幸いと言わざるを得ない。

深夜にほうきで家中の水をかき出し、あふれ出した水をうらめしく思いつつも、それでも水が来てくれるのはありがたいから、やっぱり水道が出るうちにバケツに何杯かくんでみたり。今回ほど、「水への憎しみと愛着」が同時に湧いたことはなかった。

すっかり落ち着きを取り戻した時。携帯にメールが1通入っていることに気がついた。階下に住んでいる大家の兄ちゃんからのメールであった。

「カメイ、水が来たぞ」

借家人を気づかう、水を汲んでおけという趣旨のアドバイスのメール。あーあ。水があふれ出る前にこのメールに気付いていればよかったなあ、と思う。でも、寝入ってたんだからしょうがない。

くじけていても仕方ない。とりあえず、水栓開けっ放しはほどほどに、床にはモノ(とくにPCや携帯、書類など)を置かないぞ、という暮らしをすることにした。水との闘いは続く。

photo20170510_DELC

■いくつかのブレイクスルー
なんやかんや、大陸間移動し、アビジャンの暮らしに戻り、というために、時間と体力を使った今週でしたが。それでも、いくつか大きな達成があったのですよ。

まず、政府教育省学校教育局で開かれた、ろう児の統合教育をめぐる会合に陪席したこと。私は教育学の専門家ではないが、聞こえない子どもたちの教育には手話が必要だ!と主張するろう者たちのグループに加勢するつもりで、参加した。政府部内に、手話の必要性、公認の機運が盛り上がれば、との思いである。政策提言なんてまったくおこがましいけれど、どんなところでもどんな相手でも、食わず嫌いすることなく、行って見てしゃべるのが文化人類学者の仕事ですから。よい出会いがいくつかあった。

それから、週末に近い金曜日だけれど、執筆、動画編集、そして今年度後半の在外研究計画のいずれにおいても、大きなブレイクスルーがあって。ぐわっといろんなことが進んだ1日でした。

とくに大きかったのは。大学で執筆要領と方針を確認し、投稿計画が定まったことを受けて、ついにフランス語によるフルペーパーを本当に書き始めたことである。

「こういう時、フランス語で何て言うの?」

気軽に、大学の研究所のそのへんの同僚に聞けるのが、何ともありがたい。この環境にいることのありがたみは、そういうところにある。

書かねば。Il faut écrire. この勢いをかって、毎日、少しずつ書き進めていきたいと思います。

来週からは、ずっぽりとアビジャン暮らし。仕事の達成もさることながら、とにかく水道が来ますように、と願いつつ、週末に入ります。

では、また来週。Bon week-end!


2017年5月6日 (土)

■オタワ日記: 国際人類学民族科学連合(IUAES)の中間会議に参加

今週は、アビジャン暮らしを一時中断して、国際人類学民族科学連合(IUAES)の中間会議のため、カナダのオタワを訪れた。

■世界大のアパルトヘイト
アビジャンの友人たちにとって、「カナダに行く」というのは、相当の大ごとに映る。高値の航空券と審査の厳しいビザが、見えない壁となってアフリカの民衆の前に立ちはだかっているからである。

一方、私たちは(そんなに安くはないけど)いちおう航空券を買い、eTAで事前登録すれば、ビザなしでカナダに入国する特権をもっている。

「生まれながらの自由と平等」なんて、やはりウソなんだなあ。その人がたまたま生まれた地域によって、できることとできないことがあらかじめ決まっている。

壁の向こう側の国ぐにでは、貧しい地域から人びとが押し寄せてくるのは迷惑だ、と考えているのであろう。国境とビザ要件と航空運賃というのは、「世界大のアパルトヘイト」を構成する要素になっているのだなと思う。アフリカにいると、そういうふうに世界が見えてくる。

アビジャンの友人たちも、そのへんは分かっているから、あまり露骨に話題にはしない。いってらっしゃい!と明るい見送りを受けつつ、特権を活用する申し訳なさを少しだけ感じながら、アビジャンを出た。

■時差がない!
パリとモントリオールを経由して、オタワに到着。アフリカからヨーロッパを経て、大西洋を越えて北米に渡るのは今回が初めて。

アビジャンとオタワの時差は4時間である。日本から来た参加者が、11時間の時差で眠い眠いと訴えているのを横で聞きながら、私だけ時差なく活動できるのは実に幸いであった。大西洋が、想像以上に狭いと実感する。ヨーロッパ、北米、アフリカを中心に回る世界にとって、日本だけ異常に遠いのだということが分かる。

#もっとも、世界人口の分布で言えば、最も多くの人口を抱えるタイムゾーンは、グリニッジ+8時間であるらしい。中国を丸まる含んでいるため、多数決で言えばそのゾーンが圧勝するようです(World Population by Time Zone)。

photo20170503_Ottawa_plenary

■フランス語の分科会を訪ね歩く
さて、5日間の国際会議。無数の分科会が組まれる中で、今回はどういう基準で聞いて回ろうかと作戦を立てる。今回、試しにやってみたのが、「フランス語で行われる分科会を優先して聞きに行く」。英語でぼけーっと聞き流していてもしかたないので、フランス語環境をキープするぞ、というひとつの試練を自分に課したのである。

ケベック州を抱えるカナダだけあって、今回の大会も英仏二言語で実施すると事前に告知もあり、フランス語で行われるセッションが毎日のように組まれていた。結局、全日程の半分ほどの時間を、フランス語の議論に接して過ごしたかな。

気付いたことがいくつかある。ケベック州で活躍する研究者、北米フランコフォンをテーマとする研究者に多く出会った。フランス語圏アフリカから来た研究者たちと知り合いになった。全会場の中ではやはり少数派なので、奇妙な仲間意識が芽生える。など。

私にとってのフランス語は、議論がすべて明快に分かるというほどでもない。しかし、チンプンカンプンで嫌気が差して眠くなるというほどでもない。ほどよく分かってほどよく分からない、もう少し分かりたいぞと思って一生懸命スライドや資料を見ながら追いついていく、という努力目標になる。そう、学生の頃、初めて英語の国際会議に出て緊張しながら議論に参加したこと、初めてろう者の大会に参加して日本手話での発表をがんばって理解しようとしたこと、そんな言語経験を思い出した。

photo20170506_Ottawa_Africans

分科会が終わった後の立ち話の中で、ケベックやフランス、西・中部アフリカの人たちと仲良くなれるのも、また楽しい。アフリカで言えば、今回はコンゴ・キンシャサ、カメルーン、ブルンジの人と知り合うことができた。フランス語のセッションに集まる顔ぶれもわりと重なるので、あー、昨日は別のセッションでどうもでした、みたいな話になったりする。国際会議、こういう楽しみ方もあるんだなと知った。今回は、英語よりもフランス語の名刺の方が、減りが早かった。

■言語人類学、どこへいく
私は言語人類学系の分科会に入れてもらい、最終日の発表となった。台湾やカナダやガーナの人たちと知り合いになって、それはそれで実りがあったのだが。

ひとつ残念だったこと。IUAES 公認の「言語人類学専門委員会」、作業会合があるというので訪ねてみた。集まったのは、私も含めて2人だけ。クロアチアから来たというその人と、あー去年のクロアチア・ドゥブロヴニク大会では大変お世話になりましたねー、などとよもやま話をして、散会した。なんだこりゃ。

言語人類学、はやんないよね、社会言語学にお株を奪われてるかも。などとぶつくさしゃべって、その方と別れたのだが。それにしても、人類学が言語分野をこんなに軽視していいの?と不安にもなった。

今回、アメリカ人類学会(AAA)の会長も務めた著名な言語人類学者のかたと知り合いになったことも励みになったのだけれど。言語学から学びつつも、言語学にはできないことを、人類学の側からアプローチしなきゃ。人とことばの移動がいっそう激しくなり、ウェブでことばのやりとりがたやすく国境を越え、手話言語が世界中で公用語になりつつある今こそ、人類学はことばをちゃんとやろうよ。と、なんだか言語人類学の振興の使命を帯びた宣教師のような気持ちになって、この大会の閉幕を迎える。

■英仏がまざった街、オタワ
オタワの暮らしについて、少し書きます。

英語圏とフランス語圏の境界にあるということで首都に選ばれた街、オタワ。英語とフランス語が、会話の中でも街の表記でもバスの放送でもほどよく混ざっていて、心地よい。

フランス語がそんなにできるわけではないけれど、あいさつや買い物など、口を突いて出る言語はフランス語になっているので、ぐっと考えて英語に翻訳してから話すと、どうもテンポがずれてやりにくい。何も考えずに思わずフランス語で話しかけてしまうことがあって、それでも店員やホテルスタッフがさっとフランス語に切り替えて応対してくれる。「がんばって英語に切り替えなくてもいい」というのは、フランス語圏の暮らしからやって来た私にとってありがたいことであった。

カナダ歴史博物館(州の境界を越えてケベック州側にある)をバスで訪ねたときのこと。オタワ市内では英仏二言語併用の車内放送であったが、州境の橋を渡ったとたんに、フランス語だけの放送に切り替わった。こういうちょっとした現象に気付くのも、またおもしろい。

■カナダで見つけたアフリカ
カナダに来ているのに、アフリカ関係のネタを見つけては喜んでいる。

まず、今回の最大の達成は、ナンドーズ(Nando's)に初めて行ったことです!

南アフリカに本店をもつ、ピリ辛チキンのチェーン店。世界中の英語圏に店舗があるが、西アフリカには店がなく、日本にも出店していない。

辛口の政治風刺 CM でも有名で(参考:たとえばこの記事この記事など)、アフリカ概論の授業でも、学生たちと一緒にナンドーズの CM の動画を鑑賞して、アフリカ史の解説をしたことがあるくらい。

いちど食べたい!と思っていたが、日本の最寄りの店はマレーシアというありさまだから、まあどこかで巡り会えたらいいやというくらいに思っていた。今回、オタワのホテルの近くの街角で見つけたときには、震えるほどの感動を覚えましたよ。

味? ええ、ピリ辛でおいしかったですよ。日本でも、きっと人気のお店になると思います。どなたか、フランチャイズ契約で第1号店を開きませんか。

もうひとつは、ネルソン・マンデラ氏のカナダでの足跡を知ったこと。生前、オタワを訪れていて、カナダの名誉市民となった。彼の名を冠した「ネルソン・マンデラ広場」があり、歴史博物館には彼の肖像入りの記念切手も展示されていた。

アフリカとカナダを結ぶいくつかの線。そういうつながりを学ぶのも意義深い。

さて、発表も終わって、これから学会最終日のディナーパーティに向かいます。

来週は、また熱帯アフリカのアビジャンに戻って、フィールドワークの続きです。つかのまの寒い国、さようなら。

では、また来週。Bon week-end!



矢印このページのトップへ    亀井伸孝日本語の目次へ

All Rights Reserved. (C) 2003- KAMEI Nobutaka
このウェブサイトの著作権は亀井伸孝に属します。