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ILCAA
亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2017年7月

日本語 / English / Français
最終更新: 2017年7月15日

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■アビジャン日記 (14): ガーナのビザを取得/スイス科学研究センターを訪ねる (2017/07/15)
■バーゼル日記補遺/アビジャン日記 (13): ノートと荷物の紛失で大騒ぎ/アティエケ食べながら原稿合宿 (2017/07/08)
■バーゼル日記: 初めての欧州アフリカ学会 (2017/07/01)


2017年7月15日 (土)

■アビジャン日記 (14): ガーナのビザを取得/スイス科学研究センターを訪ねる

今週は…なんというべきか、いろんないろんな無数のことが、少しずつ進んで、しかし爽快に片付いたわけでもない、微妙に達成感に欠けた週でしたね…。これを「中だるみ」というのかもしれません。

■アビジャンの仕事の温め直し
今週は、アビジャンのろう者たちとのチームワークを再始動させた。スイス出張と、その後のトラブル、そして豪雨自宅待機と日本語原稿執筆、というふうに、しばらく自分の世界に没頭していて、アビジャンでの共同作業をお休みにしていたので、再度活性化させるために何日かを必要とした。

今週は、小さな準備会合を3回ほど。2人、3人、5人と徐々にメンバーを増やし、原案を固めて、共有していく。本格稼働は来週かなあ。これは、やや前進という感じ。

日本語の原稿と本作りの方も、専念できるほどのまとまった時間がなく、細切れに少しずつお仕事。進んだような、止まったような。でも、確実に少しずつは進めている。

週末近くに、別件の、日本の出版事業に関する細かい仕事がまいこんだ。少し時間を割いて、送り返す。なんだか用事が減ったようでまた増える、雑っとした感じの週末である。

■フランス語に感じる言語の家元制度
懸案のフランス語の共著論文の打ち合わせも、土曜日にようやくできた。たとえば、英語圏では、Deaf と deaf の意味の違いはすっかり定着していて、今さらその解説の必要はないと見える。しかし、フランス語圏ではそうはいかない。Sourd と sourd の使い分けの理由を、注釈で付けた方がいいだろうか、とか、そんな議論をした。

フランス語圏アフリカの人たちは、英語圏(米、英、ナイジェリア、ガーナなど)における研究と当事者運動の成果を参照して、どんどん使っていきたいと考えている。その時にネックとなるのが、フランス語。直訳すればいいというものでもなく、本拠地であるフランスでの用法などが少し気になるのである。

今日の議論でも、英語の deafness に相当するのは surdité だよね。じゃあ、Deafhood に相当するフランス語は何だろう? いや、そういう語はまだないんじゃないかな。フランスではそういう概念が普及してないだろうから。そんな会話があった。

しばしばあることだが、英米で生まれて普及した新しい概念が、フランスでは一般的に用いられていないがゆえに、その余波で、フランス語圏アフリカの人たちもそういう新しい概念を使いにくい状況に置かれる。世界はオープンに自由になったかに見えて、言語をめぐっては、どこか「家元制度」にも似た不自由さが感じられるのである。

「英語とフランス語の違い」という言語の壁に加えて、「フランスとアフリカの権力関係」というふたつ目の壁がある。二重の枷をはめられているようにも見えた。植民地からの独立っていったい何だろう、と考え込む。

#もっとも、アフリカのフランス語人口がさらに増えていけば、フランス語の本場はアフリカに移るかもしれない。そうなったら、フランスに遠慮なく、アフリカで新語をどんどん増やしていくということにもなるかもね。

■ガーナのビザを取得
今週のひとつの達成は、ガーナのビザを取得したこと。

くわしくはまた書こうと思うが、西アフリカ言語学会(英 WALS/仏 SLAO)が隔年で開催する「西アフリカ言語会議」というのが、今年7-8月にガーナで開かれる。そこで発表する機会をいただいたので、コートジボワールから隣国のガーナに陸路で出張しようともくろんでいる。そこで、ガーナのビザが要るわけである。

ビザを取るのは、さほど大変ではなかった。記録として、今回の取得要領をアップしておく。

===
ガーナビザ(2017年7月取得)

関連サイト:Embassy of the Republic of Ghana, Côte d'Ivoire

種類:観光ビザ(1か月、シングル)

申請方法:アビジャンの在コートジボワール・ガーナ大使館で申請、受領

準備した書類(すべて紙によるもの):
・コートジボワールの居住証明のコピー(※1 以下に記述あり)
・ガーナのホテル予約証明(※2 以下に記述あり)
・写真
・パスポートコピー
・記入した申請様式
・30,000F(1か月の場合。ビザの期間によって料金が異なる)
(ウェブでの申請、支払い、訪問予約などの手続きはない)

取得までの経緯:
7/6木、アビジャンのガーナ大使館にて申請。書類と現金の授受のみで、写真撮影や指紋押捺はなし。7/10月に受領指定(4日後)。
7/10月、予定どおり発給、受領。

有効期間:3か月以内の入国に有効。発行日から30日間との裏書きを行う
===

…です。4日ですっくりと出たので、実に楽に感じられた。

少し気になったのが、ビザの中の次の文言。

Endorsed for 30 days from date of issue
Valid for entry within 3 months of date
Issued at: Abidjan
Date: 06/07/2017

"30 days from date of issue"、つまり、ビザを発行した日から数えて30日で切れてしまうのか?と不安になった。よくよく確かめると、これは、どうやら「ガーナ入国日から30日の滞在ができる」という意味であるらしい。ガーナ大使館の職員は、そう強調していた。入国の時に、滞在可能日数を表示したスタンプが押されるらしく、その日からカウントが始まるという。ちょっと誤解を招きやすい表現かもなあ、と思った。実際、ウェブ上には、英語でそういう不安を述べている旅行者の書き込みがあった。世界には、同じようなことを気にする人がいるのだ。

■仕事の遅い組織、仕事の早い個人
ガーナのビザ取得で経験したことを、いくつか追記しておくと。

※1の居住証明(certificat de résidence)。私たちはアビジャンに借家をもっているので、家の契約書をもってまず近所の警察署に行き、居住証明を発行してもらって、それをコピーしてガーナ大使館に提出した。もしホテル住まいだったら、何を出せばいいんだろう。今回はくわしくは聞かなかった。

※2のホテル予約証明。実は、これが最も取得困難な書類であった。学会の実行委員会が推奨する、会場の大学近くのホテル。立派なウェブサイトがあるので、専用ページから予約情報を送信し、「ビザのために必要だから、予約証明書を作ってメールで送ってほしい」と依頼した。数日間、ほったらかし。

2回、3回とメールで催促するも、返事なし。業を煮やしてホテルに国際電話をかけたところ、「え、いつ泊まるんですか? お名前をどうぞー」と、新規予約受け付けという風情。いや、こちらは申し込み済みなんだ、ビザで急ぐから早く予約証明を送ってほしい、あ、はい、メールですか、メールを送ったんですね、今から確認しますー、という気の抜けたようなやりとり。

そして、待機するも、返事なし。ついに、申し訳ないながらも、大会の実行委員会に直訴した。学会推奨のホテルが予約証明をくれない、従ってビザを取れない、ビザがなければ発表に行けない。どうかホテルをせっついて、かめいが予約した証明を送るように言ってほしい、と。

わかりました!という返事の翌日、大会実行委員の1人がホテルに出向いて、即日、予約書類を獲得、画像を添付書類で送ってくれた。この仕事の早さといったら。そのおかげで、迅速にビザが取れたことは言うまでもない。

実行委員の人は、「ホテルのスタッフは、予約証明の依頼についてまったく分かっていませんでした」という。やれやれ。立派なウェブサイトを構えていても、まったく機能していないではないか…。

ホテルは、仕事をしなかった。しかし、ガーナの学会実行委員会のなかには、きわめて仕事の早い人が少なくとも1人いることが分かった。組織が機能しない時は、仕事の早い特定の人物のコネクションを利用して、何とか解決する。アフリカ歴20年のなかで、そういう方法を身に付けた。あんまりいいことではないけれども、とりあえず属人的に解決することで、前へと進む。お世話になったその方には、ガーナでお会いした時にお礼を言おう。

■そして次の難題
以前、ビザや滞在許可の案件を四つも抱えていて、と書いたことがあるが、コートジボワール2件(2回目のビザと一時滞在資格)、ガーナ1件は片付いた。残るは本丸ひとつ、フランスの長期ビザである。これにずいぶんと時間を取られている。

フランスの役所関係のサイトを隅々まで読み、事務的な作業を進める。こういう時のフランス語は、大嫌いである。まず、役所独特のことば使いがよく分からない。次に、フランスと日本の制度の違いが大きく、機能や背景も知っておかねばならない。また、受理する翻訳などの書類の条件がせまい。そして、紙媒体の原本でやりとりせねばならないことが多い。

PDF でだいたいの用事が済むこの時代に、紙でどうこうせよと言い続ける役所の慣行は、世界的にもう全廃しましょうよ、と私は提案したい。効率が悪すぎるからである(もしかして、人間の移動を制約するために、あえて効率を悪くしているのかもしれない、という仮説も成り立つ)。

うーんフランス語分からん!と音を上げそうになるが、つべこべ言ってる暇はない、分かるしかないのである。腹をくくって何日も、このことに没頭したりする。

グローバル化と人間の移動に伴い、国民国家は溶解に向かっている、などと抽象的に軽々しく言うけれど。いやいや、なかなか国民国家の壁は堅牢ではないか、とも実感する。

■スイス科学研究センターを訪ねる
書類雑務にアタマが焦げ付くなか、今週のフレッシュな気分転換は、初めてスイス科学研究センターを訪ねたことである。

Centre Suisse de Recherches Scientifiques en Cote d'Ivoire、CSRS と略される。スイスとコートジボワールが共同出資し、しかし財源の大半は自分たちでまかなっているという、自律的な運営をしている研究所である。

先週、スイスのバーゼルからアビジャンに戻ってきたとき、到着した空港でたまたま知り合ったスイス人の研究者親子。いちどお会いしましょうか、と話していて、その後のメールのやり取りがあり、本当に訪問する機会を得られたのである。空港でぶら下げていた学会のカバンが取り持ってくれた、不思議なご縁である。

ダブー街道(Route de Dabou)を西へ。ヨプゴンの西の端の Adiopodoumé 地区にある(「アディオポドゥメ」と読むのか?)。

遮断機のある検問をくぐり、さらに奥へ。ラグーンに面した静かな森のなかに、その研究センターはあった。今回は、スイス(ドイツ語圏)出身で、幼い時に父親の研究業務に同行してアビジャンに滞在、約20年ぶりにかつて自分が暮らしていたこのセンターを短期訪問しているという E さんに、所内を案内していただいた。所長や理事などの幹部、人類学者なども紹介してもらい、純然たるアカデミックな話をした。書類雑務のストレスと、物事が進まない不全感の日々のなか、一服の清涼剤のようなひと時であった。

photo20170713_csrs.JPG

医学や生態学、農学などの生物学系のプロジェクトを多く走らせているというこのセンター。所内には、研究施設のほか、事務棟があり、ゲストハウスがあり、食堂があり、広い庭に茅葺きの会議室がある。ゲストハウスのベランダでソファーに腰掛け、庭の風景を見やりながら、あー、こんな静かなところで研究に没頭できたら、いかに原稿の筆が進むであろうか、などと(自分の怠慢を棚に上げて)想像した。

静かな森の中を散策しながら、E さんのお話を聞いた。かつては、すぐ隣にフランスの研究所 ORSTOM(Office de la recherche scientifique et technique outre-mer)があって、その一帯にはフランス人の家庭が多く住んでいた。この地区のためのフランス人小学校があって、全学年あわせて50人ほどのフランス人の子どもたちがおり、スイス人は自分たち2人だけであった。母語はドイツ語だが、この学校でフランス語になじんだ。近くの家々に、フランス人の友だちがたくさん住んでいた。コートジボワールの内戦、フランスの研究所の移転などもあり、学校はすでに閉鎖されてしまった。しかし、幼かった当時、自分たちの世話をしてくれたコートジボワール人のスタッフたちは、今も変わらずここで働いている…。

ひと昔前の、このフランス人・スイス人集住地区の思い出話を聞いた。率直に言って、おもしろかった。ふだんやかましい町に暮らしていて、こういう時間を超越した、まったく視点の異なる人の話に触れるのは、新鮮だったからである。

一種の隔離地区と言えば、そうとも言える。何と言うか、映画に出てくる植民者の邸宅の区域みたいな、そこでの入植白人家族と黒人使用人の、権力関係を含みつつも信頼関係を育んだあの懐かしい日々、みたいな、なんかああいう風景を想起させた。

もっとも、現状を、ヨーロッパ=白人のための地区、と表現するのは適切でない。実際、現在のセンター長はトーゴ出身の獣医学博士であり、センターはコートジボワール人をはじめとするアフリカ出身の教授や院生を多数擁し、いわゆる人種的な隔離を行っているということではまったくないからである。

ただ、こういう地区と設備にアクセスできる人は、やはり一握りの特権的な階層ではあるよな、と言うことはできる。従来の階層の分離は厳然と維持されながら、ヨーロッパ人と一部のアフリカ出身の人たちが、現在それを共有している、という、アフリカの縮図のひとつを見るような思いであった。

ゲストハウスをはじめとする施設の快適さにも、いろいろと考えさせられた。たとえば、こういうところにアクセスしやすい国籍、大学、研究機関の人であれば、着いた翌日から、快適なラボで実験し、会議し、社会調査に出向くことができるだろう。借家探しで何日も時間をかけたり、水道が出ないから雨の日にバケツをもって走り回ったり、路肩の焼き鳥を食べて唐辛子でお腹を壊したり、バカ(乗り合いバス)で釣り銭がないからと言って乗車を断られたり、そういう面倒くさいいっさいのことをしなくてもいいんだな、と(快適すぎて退屈かもしれないけれど。あと、雑木林に囲まれているので蚊には刺されやすいと見た)。

フランスやスイスは、国家の政策として、こうやってアフリカ現地での研究に投資し、施設とスタッフと人脈をもち、人びとを次つぎと送り込んでは成果を上げていく。かたや、日本から来た私たちは、単身乗り込んで、ちまちまと個人で物事を解決し、またちまちまと国際会議に行っては成果を報告していく。ほとんど徒手空拳に近い。スタートラインでずいぶんと待遇が違うよな、と思う面もある(ヨーロッパの政策としてのアフリカ研究は、植民地主義的との批判も受けるとは思うけれど)。

悔しいから、せめて研究者友だちでも増やして、自分の成果のアピールでもするか。という感じで、何気に、いずれ発表でも何でもしますから呼んでください、と声かけをしてみると、じゃあ一度セミナーをやりましょう、ということになった。センター長の即決である。

センターを辞して、帰宅すると、その日のうちにさっそく担当者から電話が入り、メールが入り、日程と時間とテーマが決まり、広報の準備依頼が届いた。おー。仕事が早い。研究のためには効率重視という、研究機関っぽいこの感じ。いいなと思う。

というわけで、スイス科学研究センターでおひろめ講演会をする機会に恵まれたので、がんばって準備しようと思う。

■少しの水で生活するという特技
水道の出ない家に住んでいて、水を節約して使うことにも慣れてきた。食事の後、水をちまちまと使いながら食器を洗っていたところ、うちのつれあいに感心された。よくそれだけの少ない水で洗えるよねえ、私なんかもっと使っちゃうのに、と言う。

少しの水で生活する技。そんな特技が自分にあるとは、あまり自覚していなかった。たぶんそれは、20年前、カメルーンの熱帯雨林の中の集落で長期間暮らしていた時に身に付いた習慣である。

熱帯雨林だから、もちろん水はたくさんある。しかし、それは「川に行けばたくさん流れている」ということである。水浴や洗濯であれば、川に行って心置きなくざぶざぶとできるけれども、炊事や皿洗いなどは、川から集落へとバケツで運んだ水を少しずつ節約して使う。毎日何往復も川の水を汲んでくるのは重くてしんどいから、1日バケツ1杯と目標を決め、それで家での生活を済ませることにしていた。皿やナベを指でよーくこすり、うまくためすすぎをすれば、そんなに大量の水を使わずともきれいになるものだ。

アビジャンは、400万の人口をもつ大都会である。同じアフリカとはいえ、熱帯雨林のあの集落とは対極の世界だ。しかし、水が不足したら節約しながら何とかする、という意味で、実はよく似ているのかもしれない。皿を洗いながら、森の中のあの暮らしを懐かしく思い出した。

日本のテレビでは、制限時間内で、あるいは決まった予算内で、料理の腕前を競うといった番組がある。私が推奨したいのは、「少ない水で料理の腕前を競う」というもの。ペットボトルの水1.5リットルだけで、調理から片付けまでをすべて行え、というルールで料理を競ってみたらどうだろう。などとアホなことを思い付いたりする。

さあ。ぶつぶつ言っていてもしかたない。来週はアビジャンのろう者たちとの共同作業が立て込むかも。一方で、ガーナ行きが迫りつつあるので、そっちの準備も片手間にやらねばならない。ビザはともあれ、仕事の上での達成感のある週にしたい、と思う。

では、また来週。Bon week-end !


2017年7月8日 (土)

■バーゼル日記補遺/アビジャン日記 (13): ノートと荷物の紛失で大騒ぎ/アティエケ食べながら原稿合宿

今週は、スイスのバーゼルから再びアビジャンに戻りました。ついでに、いろいろトラブルなども。

■学会を終えて
第7回欧州アフリカ学会(ECAS7)は、無事に閉幕。

次回、2年後にまたエジンバラで再会しましょう
いや、アフリカ関係の別の会議でお会いするかも?
今年11月の米国アフリカ学会(シカゴ)には参加しますか?
それとも、来年8月の世界アフリカ言語学会議(モロッコ、ラバト)かな?
などと、あいさつもいろいろと忙しい。

バーゼルの博物館がすべて無料参観になるという日も重なって、歴史や文化に関する情報を集めたりした。バーゼル民族文化博物館では、妙にパプア・ニューギニアおよびインドネシアに関する収集品が多く、えーとスイスとどういうつながりがあったっけ、と思いを巡らせたりした。アフリカ関連展示は多くはなかったものの、それでもガーナの仮面、アフリカの女性たちがまとうパーニュ(布)、奴隷貿易で用いられた鉄製の拘束具など、いくつか印象に残るものがあった。

奇妙な展示があった。コートジボワールで見かける Maggi のポスターである。Maggi とは調味料の名前だが、実はスイス発祥なのだとか。アフリカ系の母と娘がキッチンで料理をしている写真に、"Avec MAGGI, chaque Femme est une Etoile"(Maggi があれば、女性はみんなスターです)というキャッチコピーが付いている。アビジャンでもよく見るこのポスターが、博物館のケースの中に仰々しく展示されていた。スイス企業の商品が、アフリカでもこんなに広く浸透していると言いたげである。多国籍企業のアフリカビジネス、ジェンダーバイアス、自文化中心主義、アフリカを展示することの政治性、アフリカ系の人びとのイメージの流用などなど、さまざまな権力行使が錯綜する展示であった。

■フィールドノートを置き忘れ
帰り支度をしながら、重大なことに気がついた。愛用のフィールドノートが手元に見当たらないのである。これにはあわてた。学会で知り合った人たちの連絡先、アビジャンでの聞き取り調査のデータなど、貴重な情報が記されている。これはまずい。

会議閉幕後とあってみんなくたびれ果てたのか、学会の事務局に問い合わせてもまったく返事をくれなかった。最終日の分科会で知り合った大学院生のスタッフの方に、ウェブでメールアドレスを探し出して、個人的に連絡。バーゼル出発日の朝7時台に会場となった大学で待ち合わせ、清掃員の方にお願いしてカギを開けてもらい、遺失物の捜索をし、ついにノートを見つけ出したのである。Bravo !

喜びにひたる暇もなく、慌ただしくお礼を言って、トラムとバスを乗り継いで空港に直行した。本当に、時間的にギリギリのタイミングでの解決だったのである。

いやいやいや…。人類学者が「命の次に大事」とかふだんうそぶいているノートを、学会の会場にうっかり置き忘れてくるなど、本当に恥ずかしくてしょうがない。で、今後こういうことをしないためにも、自戒のために日記に書いておく。

韓国出身で、日本にも留学したことがあり、現在はバーゼルで大学院に通い、多くの言語を操りながら、タンザニアで調査しているという、学会スタッフの P さん。本当にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。

#なお、ECAS7 での忘れ物は、事務局が公式 Facebook ページに写真を掲載して、持ち主を探しています。USB メモリなどの忘れ物、多いんですね。

■エールフランスの荷物紛失騒ぎ
バーゼルからパリ経由で、再び地中海を越えてアビジャンへ。あらかじめ申請していたビザも、空港で無事に取得した。

ちなみに、アビジャンの空港のビザ取得待合室で、学会参加者カバン(黒い地にオレンジのアフリカをあしらった、けっこう目立つもの)をぶらさげていたら、隣に座ったやはりビザ待ちの2人から声をかけられた。あなたもバーゼルの学会にいたんですね、私たちもです、と。え、バーゼルからアビジャンまで、道中ずっと一緒だったんですね、と笑う。スイスの親子(父娘)で、そろって研究者であるという。遅ればせながら、アビジャンの空港で名刺交換。学会のカバンのおかげで、不思議なご縁ができた。

トラブルは、ここから。エールフランスに預けた荷物が、出てこなかった。しまったな、パリでの乗り継ぎ時間が2時間20分と短く、それが原因だろうか。いやいや、アビジャン便の出発は1時間55分も遅延したから、4時間15分もあって十分なはず、などといろいろと考えた。

飛行機に預けた荷物が来なかったのは、2005年11月、アメリカ人類学会(AAA)での発表のために米国ワシントン DC を訪れた時に、一度経験した。たしかユナイテッド航空だったような覚えがあるが、翌日ホテルに配達されて、スーツが学会発表前に間に合った!とホッとしたことだけ覚えている。

エールフランスの荷物が来ていません、と空港のオフィスに駆け込む。「届いたら配達します」「無料です」「明日、17:40に電話します」。すみませんの一言もなく、淡々と書類を作ってぶっきらぼうに応対する職員。なんだかな、と思いながらも、深夜とりあえず家路につく。

万一荷物が出てこなかったら、困るものは何だろう。さすがに今回は、先のノートの一件もあったから、重要な調査データ関係の書類や機器は、すべて自分で抱えて搭乗した。

まず痛いのは、EPSON のポータブルプリンタ。研究用務で世界を旅行する時の大事な相棒である。次に、一張羅のスーツ、靴、ネクタイ。学会をいくつかこなすために、今年はこの一着で世界を渡り歩くという衣装である。

後は、マラリア検査+治療のための医薬品。どこで熱が出ても慌てないためのお守りが、ひとセット入っている。バーゼル大学の前の公園の蚤の市で買った、イタリア製のエスプレッソメーカー。値段は10スイスフラン(約1,180円)と高いものではないが、アビジャンの家でコーヒーを楽しめないのは残念。

1日たっても、約束の時間に連絡なし。問い合わせ用の電話にかけると、ここじゃないとたらい回し。別の部局にかけると、「まだ届いていない」の繰り返し。

2日目になる。業を煮やして、バーゼルの空港の担当者に確かめようとしたが、国際電話でかけてみても担当者は出ない。アビジャンの空港にかけてみると、昨日言っただろう、担当はこっちじゃないんだと、明らかに面倒くさいという対応。で、指定された方にかけると、これまただれも出ない。

私は、そもそも電話があまり好きではない人である。それに加えて、この不快な用件。なごやかに楽しくしゃべるフランス語は得意だが、電話でクレームをつけてあれこれと要求するフランス語は得意じゃないんだよなあ、などと、言語の用途に好き嫌いを言ってもしょうがないのだが、とにかく憂鬱な2日間であった。

かくなる上は、エールフランスの事務所に乗り込んでガチで交渉しに行くか、と気持ちを固め、アビジャンの友人に同行をお願いしてアポを入れたその日、つまり到着から丸2日後の深夜に、電話がかかってきた。「荷物がアビジャンの空港に届いたので、明日の朝、自宅に届けます」と。ああ、ホッとした。モノも大事だが、こういうウンザリする交渉ごとから解放されたことが、何よりもひと安堵であった。

次の日の朝。予定より1時間半も早く(こういう時はなぜか早い)、自宅に荷物が到着した。本来の予定の2.5日後の配達である。カバンの中身はすべて無事であった。プリンタを取り出し、故障がないことの確認を兼ねて、さっそく仕事を始めたことは言うまでもない。

ちなみに、今回いろいろ調べて知ったこととして、未着の荷物の追跡システムというのがある(たとえばエールフランスであればこのサイト)。しかし、これは情報を得るためには役に立たない。

荷物の番号で検索すると、"Item located"(荷物の所在確認済み)と表示されたので、まあ世界のどこかにはあるのだろう、程度には分かったけれども、いまバーゼルにあるのか、パリにあるのか、もう機内に積まれたのか、アビジャンに着いたのか、そういうことはいっさい分からない。実にもどかしく、荷物を無くされた側の客の不安解消にはなっていない。しかも、配達が完了した後もその表示が何ら変わらないのだから、笑うしかない。「リアルタイムにご確認することが可能です」というのは、誇大表現である。

ゆうパックの追跡システムの「どこどこ郵便局を何時何分に出発」「到着」「ただいま配達中」みたいな、ああいう情報が欲しいよね。日本郵便は、あのシステムを航空会社に売り込んだらどうだろうか、と思う。

■アティエケ食べながら原稿合宿
そんなわけで、出張を終えた後の疲れもあったし、面倒ごとも降りかかったし、アビジャンの仲間たちとの細ごまとした仕事を再開しにくい状況にあった。さらに、今週は豪雨も続いて、家を出にくいことも重なった。

それじゃあ、と、えいっと片付けごとに取りかかる。手がけていたある書き物を、3日間集中で終わらせた。

仕事のペースは、だいたい7,500字/2,500字/3,000字くらいだったかな。初日は全体の骨子を固めて7割がたあらあらを書く/2日目は書きあぐねた後半と終盤の結語を書く/3日目は細かい数字のデータを詰めて用語を確認し、図表も付けて、完成。後は、通しで読んで削って推敲して、人に預けて、終わり。

轟々と雨が降るなか、娯楽の少ない、回線使用料も高いからウェブに逃避もしにくい、スマホでツイッターもやらない、テレビもない、あるのは机とイスと PC と電気と扇風機くらい、という家にいると、仕事くらいしかすることがない。日がなカタカタカタカタと打ち続けて、両腕と20本の指が棒のようになった。それでも、一度走り出したら止まらない。そう、時どきやってくる「没入」の体験。原稿の神様が降りてくる瞬間である。

日本の大学で多忙をきわめていた頃、ああ、どこか山荘にでもこもって、日がな一日書き物だけをするような暮らしをしたい、などと思ったことがある。山荘ではないが、アビジャンのアパートの3階(現地呼称では 2e étage)にこもって、アティエケ(キャッサバのポロポロ発酵パスタ)を食べ、ビサップ(ハイビスカスの赤いお茶)を飲みながら、「缶詰原稿書き合宿」をしている。状況としては、そんな今週であった。

■役所関係の仕事もちょこちょこと
そんな自分の世界にこもりがちの今週でも、ちょこちょこと雑務もこなしていた。

まず、ガーナで予定されている国際会議のビザのため、宿泊予約証明書を手に入れた。実は、エールフランスの荷物紛失と並んで、この書類取り寄せの件でも相当ストレスがたまっていたのである。

雨季の晴れ間をぬってココディとプラトーへ行き、コートジボワールの一時滞在資格証(TPS)を取得、ガーナとフランスの大使館を訪問、ビザ関係の手続きを進め、Institut Français で本を借り、などと。

役所関係の書類の仕事は本当に好きではないのだが、紙さえ揃えれば進むという意味では単純でもある。原稿を書くというワクワクするクリエイティブな仕事の対極にある、退屈な事務仕事。プリンタが無事に戻ってきたおかげもあって、そっちでもいくつかの進展があったので、まあ今週はそれでよかったことにしようと思う。

■おまけ:夏休みの計画の参考に
以前も紹介したことがあるが、私のつれあいがアビジャンに一緒に来ていて、滞在で経験したことをブログにつづっている。

最近、彼女のところにも、「あなたがいる間に、私もアフリカに行ってみたい!」という連絡がちらほらあるのだとか。そこで、こうした問い合わせにまとめて対応するために、このような記事を掲載したので、リンクしておく。

Deaf Journal ろう者の風景
「コートジボワール渡航ガイド」 (2017年7月8日)

【注1】アフリカ研究者にとっては、常識的なことが多いです。
【注2】彼女の個人としての経験に基づいており、また、伝聞情報も含まれます。私たちはこれに起因することについて責任は負いませんので、必ず自身で裏を取ってください。また、情勢や制度は急に変わることがあります。

なお、私の見解を述べれば、「アフリカに行きたい」という一般的な関心を満たすためであれば、今のアビジャンは勧めない。理由は、以前も日記に書いた通り、一見平和ではあるが、軍事的緊張が解消しておらず、いつ何時、銃が火を吹くか分からないという危険性が常にあるからである。

スイスで出会った、フランス国籍をもち在仏アメリカ大使館で働いているギニア出身の方(ちなみに配偶者は日本人)も、「アビジャンですか、要注意ですね。2020年の大統領選挙まではね」と一言。世界を知っている人は、そういう目でアビジャンを見ている。

ここでしか達成できない、特定の目的がある場合は別として。アフリカを一度体験してみたい、というのであれば、軍事的緊張のない、英語が通じやすい国ぐにを選ぶのが賢明だろうと思う。

バーゼルの後片付けも、手がけている原稿のことも、この週末にさっぱりと片付け終えて。来週は、アビジャンローカルの仕事に本格復帰します。

では、また来週。Bon week-end !


2017年7月1日 (土)

■バーゼル日記: 初めての欧州アフリカ学会

アビジャンから、地中海を越えてパリへ、そしてバーゼルへ。スイスで開催される第7回欧州アフリカ学会(the 7th European Conference on African Studies (ECAS7))に参加した。

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■スイス、バーゼルへ
欧州アフリカ学会とは、ヨーロッパのアフリカ研究者による隔年開催の大会である(主催: Africa-Europe Group for Interdisciplinary Studies (AEGIS))。

日本アフリカ学会の理事による情報では、ECAS は世界最大のアフリカ研究の国際会議のひとつであり、今回の大会については、主催者発表で参加者1,918名、分科会204、その他各種イベントがある。発表者名簿を見る限り、日本からも10名近い参加があるとのことである。これだけのボリュームを、3日間でこなすという。その濃密さにも驚いた。

スイスは、今回初めて訪れた。バーゼルは、スイスの北端に位置し、フランス、ドイツとの3か国の国境に接する都市である。徒歩圏で三つの国を訪れることもできる観光地であり、貿易都市でもある。バーゼル大学はその都市の中心に位置し、ライン川のほとりの丘の上にある。

オタワの時にも感じたことであるが、スイスでは、商店もクレジットカードもウェブも交通機関も何もかも便利で、実に快適である。しかし、アビジャンの街の喧噪からいきなりここに飛び込むと、なんか静か過ぎて退屈な町、というふうに感じなくもない。

ちょうど夏至の近くで、日照時間が長い。21時過ぎてもまだ明るいという世界である。一方、肌寒くて朝晩は冷え込むため、熱帯アフリカから来た私にとっては、この気候はなんとなく「夏休みが終わって寒くなりゆく秋の風情」のようにも感じられた。

■久しぶりのドイツ語圏
ドイツ語圏に来たのは久しぶり。2009年に第6回世界アフリカ言語会議(WOCAL6)に参加するためにケルンに行ったとき以来である(そのころの日記)。黒いパンが見かけられるのも、このあたりの特色だ。

もっとも、学会の会場であるバーゼル大学に入ると、ドイツ語は聞こえなくなり、言語はすっかり英語とフランス語になる。英語が聞こえることが多かったものの、アフリカ研究の学会だけあって、フランス語の素養のある人たちと遭遇することが多かった。初対面の方と「英語とフランス語、どちらで話しましょうか?」「どうぞ、あなたの好きな方で」というふうに、会話の言語の確認のあいさつから始まることもよくあった。

今の私はアビジャン生活に慣れているため、あいさつや世間話などの適当なおしゃべりではフランス語の方が口をついて出る。しかし、学術的な議論になると、やはり英語の方が楽である。専門用語のインプットの量がまるで違うからである。英仏まぜこぜで話すことも、かなり許される場であった。

分科会の中でも、とくに「フランス語限定」と断りのない場面で、フランス語で発表や質疑応答をする人たちがいた。英仏二言語併用がスタンダード、とまでは言えないものの、言語が切り替わっても聴衆のだれも驚かないといった風景があった。

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■参加者の顔ぶれ
国際会議でよく見かける風景というのは、欧米から参加しているヨーロッパ系の人がほとんどを占めているというものである。しかし、今回は、さすがにアフリカをテーマとした国際学会だけあって、アフリカ系の参加者が非常に多かった。過半数とまではいかないものの、おそらく3-4割は占めていたのではないか。欧米の大学で研究に従事しているアフリカ出身の研究者、大学教員、院生、また、アフリカ各地から発表にかけつけた人たちも多かった。

アジア系は、きわめて少なかった。他の国際会議ではしばしばその人数でインパクトある存在感を示す、中国やインドの人たちの姿が見えない。日本からの人が、ちらりほらり。韓国、香港出身の方がひとり、ふたり、といった感じである。ラテンアメリカやオセアニアからの参加も見なかった。世界における、アフリカ研究の地域的な偏在を印象づけた。

【20170708追記】インドからはムンバイ大学所属のインドのアフリカ学会の会長が、中国からは北京大学アフリカセンターの幹部が参加していたそうです。(日本アフリカ学会理事による教示)

私はレアなアジア系であるからか、頻繁に声をかけられた。「あなた、さっきの児童労働のセッションに来てくれましたよね、感想は?」などと。妙に顔を覚えてもらいやすいというメリットがあった。なかには、「去年東京の会議で会いましたよね、久しぶり!」といった、心当たりのないあいさつもあった。おそらくは人違いである。

■言語にまつわる分科会
2か月前のオタワの会議と同様、仕事柄、言語関係のセッションをよく回って歩いた。

今回の大会では、純然たる言語学の記載的研究よりも、言語集団のアイデンティティや話者の移動など、社会言語学/言語人類学的な研究の発表が多かった。Camfranglais(カメルーン)、Nouchi(コートジボワール)、Sheng(ケニア)、Tsotsitaal(南ア)など、都市に集まった雑多な若者たちが創り出したことばの研究などもいろいろと進んでいて、それだけでひとつの分科会が成り立つほどの盛り上がりを見せていた。

私は、"mobility(移動性)" をキーワードとした言語系の分科会にアプライし、発表の機会をいただいた。西アフリカフランス語圏に広域的な手話言語集団が形成された最大の要因は、手話言語のスキルをそなえたろう者たちの頻繁な国際的移動であった。そのことを、アフリカの言語の歴史のなかにきちんと位置づけたいと思ったのが、今回の発表の主眼である。

ろう者における "mobility(移動性)" は、同時代においても重要なコンセプトである。今日、多くのアフリカろう者が、アフリカ域内の諸国およびアフリカ域外(欧米)に移住して労働し、生活している。そのような国際移動と手話言語伝播の実態を、きちんととらえる必要がある。ろう者コミュニティを、いつまでも「国民国家内に閉ざされた静的な集団」であるかのように認識するのは、現状にそぐわないのである。もしかして、アフリカにおける研究のアイディアが、国民国家が溶解しゆく世界の未来を先取りして説明するモデルになるかもしれない、という予感をもっている。

■手話の話題が珍重されるのはよいことか
私の発表を聞いた聴衆の方がたから、これはおもしろい、新しい、初耳だ、刺激的な仕事をしている、大いに学んだ、といったことばを投げられる。評価されるのは大変うれしいことでありながら、同時に、どこか微妙な感情にも襲われる。

西アフリカフランス語圏のろう者たちが、アメリカ手話に由来する独特の広域的な手話言語を用いている、という、実にシンプルな事実が、アフリカ研究の世界ではほとんど知られていない。アフリカの言語を専門としている人たちですら知らないし、フランス語圏であるフランスやベルギーの研究者ですら知らないのである。調査されていない、研究者がいない、文献がない、という状況は、私がちょうど20年前の1997年にカメルーンでこの分野の調査に着手してから、あまり変わっていない。

私自身も、20年間にわたってアフリカ各地を駆け回り、日本語のみならず、微力ながら英語やフランス語でも発信してきたつもりだが、世界におけるアフリカ研究の一般的知識として定着するには至っていない。英語とフランス語は世界に読まれるが、日本語の文献は読まれない。分かっているつもりだが、その認識をあらためて確認した。今後の発信のスタイルを検討する上で、大いに参考にする。

正直言うと、手話の存在を指摘しただけで珍しがられる状況は、もうそろそろ脱したいよね、と思う。君の発表内容はもう常識になっている、もっとオリジナリティのあることをやりたまえ、といった「より高い水準の要求」が聴衆からまいこむ状況になってほしいと思う。手話が言語であり、ろう者は文化をもっていて、言語学と文化人類学による現地調査を通じた記載が必要である、という教科書レベルの認識と具体的知識が、広く共有されてほしい。

日本における手話やろう者に対する認識の問題については、ずいぶんこれまでもいろいろと働きかけをしてきたけれど。そういう意味では、ヨーロッパもあまり状況は変わらないのかもしれないと思う(少なくともアフリカ研究という分野においては)。

うれしい出会いがあった。私の発表が含まれていた言語系の分科会に、ウガンダのろう者が手話通訳者を伴って現れたのである。発表の後の休憩時間に、すぐさま話しかけて友だちになった。彼自身も翌日に発表するというので、参加すると約束した。

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■「障害とテクノロジー」の分科会
翌日、「障害とテクノロジー」をテーマとした分科会が、1日がかりで開かれた。くだんのウガンダのろう者も参加し、発表するということで、終日、手話通訳および英語の PC 筆記通訳が付いた。スイスのチューリヒ大学を中心にした、障害研究プロジェクトの成果であるという。

アフリカ研究の国際学会で、障害をテーマにしたセッションに11件(発表予定は12件であったがキャンセルあり)もの発表があり、そのアクセスのための情報保障がきちんと整えられているということは、大変望ましい傾向である。

…と、美談にまとめることができないような裏話があった。

実は、今回の大会の主催者には、障害をもつ参加者のためのアクセスを保障するという認識が欠けていたのだと言う。関係者に話を聞くと、アフリカから学生などを招聘するために多大な予算を必要としていて(これはこれで、経済的なバリアを軽減する措置ではあったのであろうが)、障害をもつ参加者/発表者のための予算は割かれなかったという。

このため、障害テクノロジー分科会の発表者でもあり、大会のスタッフも兼ねている研究者らが中心となって、クラウドファンディングを行い、総額1万スイスフラン(約118万円)くらいの予算を捻出して、障害をもつ参加者のアクセスを保障する措置の経費をまかなった。具体的には、英語の PC 筆記通訳として、3日間の会期中にろう者が参加する予定の分科会を選び、毎日2人ずつスタッフを配置した。この措置のために、1日あたり2,500スイスフラン(約29.5万円)程度の経費を投入した。また、車いす使用者が参加するため、車いすでアクセスできるホテルを探したりもした。

しかし、それでも手話通訳を配置する予算まではまかなえず、スイスのチューリヒ大学のアフリカ障害研究プロジェクト(この分科会を企画したグループ)が予算を捻出して、手話通訳者1名をウガンダから招聘したという。彼は、終日、ひとりで手話通訳を延々と続けていた。

一見すれば、情報保障が整ったすばらしい国際会議と映る。しかし、舞台裏の話を聞くと、その折衝や予算探しのために闘った人たちの大変な苦労話が見えてくる。予算探しに奮闘した内情を知る人たちは、「このような苦労は必要なかったはずだ、本来は主催者が準備するべきことなのだから」と言う。

次回、2019年のエジンバラ大会では、大会の組織委員会がきちんとその必要性を認識するように働きかけた方がいいですよね。そんな話をして、おいとました。学会発表の内容に加え、運営のしかたについても貴重な話をうかがえた分科会であった。

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■日本で/日本語でアフリカ研究をする意味とは?
アフリカのことを日本語でがむしゃらに書いても、話しても、世界にはまったく知られない。その認識はこれまでもあったけれども、今回もその思いをいっそう強くした。

もちろん、日本語で本を書いたりすることは、日本におけるアフリカ教育や啓発のための資源を厚くし、日本におけるアフリカのプレゼンスを増すことにつながり、学生と次なる研究者を育成し、そして若手研究者にとっては就職などのためにも役に立つであろう。決して意味がないとは言わない。

しかし、多大な経費と時間と労力をかけて現地調査し、膨大なデータがたまっていながら、それが世界のため、アフリカのために活用されないまま日本語圏に眠っている、という状況は、どう考えてももったいない事態である。

ヨーロッパとアフリカでの研究成果がとびかう中で、日本におけるアフリカ研究の長所と短所とは何だろうと、閉会式に参加しながらつらつらと考えた。

日本のアフリカ研究の長所は、
・研究拠点がある
・資金がある
・データが多い
・アジアの中では比較的優位
といったところか。資金は足りていないという見方もあるかもしれないが、航空券を買って海外調査に行ける予算の枠組みがあることは事実であり、アフリカの大学の研究者たちの予算の困窮ぶりに比べれば、それなりにあると言ってよい。

一方、日本のアフリカ研究の短所は、
・日本語で公表されたものが世界に流通しない
・英語、フランス語、アラビア語のいずれも公用語として共有していない
・地理的に遠い
・歴史的な関わりが薄い
などであろう。もっとも、歴史的な関わりの薄さは、一面ではメリットでもある。つまり、直接的に日本が植民地支配や戦争介入という形でアフリカに関与していないだけに、(印象は薄いけれども)歴史観としてアフリカの民衆の憎悪の対象とはなりにくい。「日本の研究者はいいですね、中立的にアフリカに関われるから」と、ヨーロッパ出身の研究者に羨望とともに言われたこともある。

自分たちが日本の研究仲間と取り組んでいる試みなどを、振り返ってみる。たとえば、「アフリカ子ども学」。アフリカのさまざまな生態環境・気候植生・生業文化のなかを、子どもたちが生まれ育ち、次の時代の新しいアフリカを担う人びとになっていく。そういう総合的な視点でアフリカの子どもについて学ぼうという試みを続けてきた。今回の大会では、アフリカの子どもについてのセッションはほとんどなく、一部に児童労働などの話題があるにとどまった。私たちは、世界水準で見ても、きめ細やかな調査に基づいたよいデータをもっているのだと実感した。

こういった「日本語圏という小さな缶詰」の中で眠っている大量の貴重なデータを、缶切りで開けて、世界に向けて解き放ちたい!というようなイメージをもって、この大会を終えた。

隔年開催の ECAS、次回は英国スコットランドのエジンバラ大学アフリカ研究センターにて、2019年6月12日-14日に開催だそうである(CAS Edinburgh によるおしらせツイート)。次はいっそう多くのアフリカ研究仲間が参加することがあれば、と期待している。

【20170715追記】AEGIS の公式ウェブページに、次回の2019年エジンバラ大会に関するお知らせが出ました。

閉会式を終えて、これから最終日の閉会ディナーへ。来週は、また熱帯アフリカのアビジャンに戻って、いつもの仕事に復帰します。

では、また来週。Bon week-end !



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