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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2017年8月

日本語 / English / Français
最終更新: 2017年8月31日

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■2017年8月のまとめ日記 (2017/08/31)
■アビジャン日記 (20): 教員研修で講演/日本も秋入学にしたい理由/自動車を閉め出す地区の動き (2017/08/26)
■アビジャン日記 (19): 近刊『子どもたちの生きるアフリカ』予告を開始/スイス科学研究センターで講演 (2017/08/19)
■朝倉書店『手の百科事典』刊行:いち編集委員より (2017/08/18)
■都市化するアフリカ:100万人以上の都市圏一覧(61都市) (2017/08/13)
■アビジャン日記 (18): 国際学会の後片付け/日本大使公邸にお呼ばれ (2017/08/12)
■ガーナ・ウィネバ日記: 西アフリカ言語会議での全体講演/初めての陸路での国境越え (2017/08/05)


2017年8月31日 (木)

■2017年8月のまとめ日記

今月はじめのガーナの学会で最高潮の盛り上がりを見せて、後はちょっと腑抜けちゃった、という感じの1か月。

上旬。ガーナのウィネバで、西アフリカ言語会議(西アフリカ言語学会主催)。全体講演をこなし、多くの研究者と交流し、今後の執筆、行事、講演などのアイディアが次つぎと浮上。また、再来年のアビジャン大会に向けたいろいろな取り組みもできそうで、とにかくとにかく濃密な時間を過ごしてきた。調子が上向いた勢いで、学会参加報告記事を猛然と執筆、投稿した。あと、近刊予定『子どもたちの生きるアフリカ』の関係の作業も一段落して、大きな肩の荷が下りた気持ち。

中旬。どっと疲れが出て、超低空飛行。「無理したら、マラリア」とおまじないのようにつぶやきながら、仕事を詰め込まないようにした。スイスセンターで講演した他は、ちょっと自宅でのんびりして、ウェブサイトの整理などをしたりもした。川村大使とお会いできたのは、よい経験だった。

下旬は、行事としては、教員研修で講演したくらいで、後は自宅にこもって動画の整理をしていた。

フィールドに長くいることのよし悪しというのを考える。うちのつれあいも、そういうことに気付いていて、
「あんまり長くいすぎると、感謝されなくなるんじゃない? 短期滞在の方が歓待されるよ。笑」
とか言っている。うーん、そうかもな、と思う。

例えば、6月下旬ころにアビジャンを訪ねていた、アメリカ手話がよくできるアメリカ人の牧師さんなんて、わずか1週間余りの滞在の間に、猛然と連日の礼拝と講演とインタビューと見学をこなし、写真を撮りまくり、すべてをフェイスブックにアップして、次の訪問地であるリベリアへと去っていった。パワフルな人だったが、その性格や体力もさることながら、短期間ですべてをやり尽くすという時間的制約が、あの効率を生んでいたのだろうなと思う。

一方、私のように長く滞在すると、お互いに時間の使い方に緊張感がなくなり、そのうちでいいやと先延ばしすることにもなってしまい、あれこれがキビキビと進まない原因にもなる。ちょうど20年前、カメルーンで1年以上の長期調査を行った時にも感じたことだった。

いま思うことは、「今日から調査に来たと思えば、あと1か月ある。何ができるかを考える」である。

さすがに、9月は先延ばしができない月間である。滞在中にこなすべき to do リストを作り、毎日眺め、片付いた項目をひとつずつ消去していくという、よくある短期調査の生活モードに入った。残りを悔いのないように、と思う。

以下は、慣例となった水道日記。雨が少ない季節でありながら、深夜だけ定期的に水が出るというパターンが続いたため、それに合わせて暮らすようになった。

(8/5土 ガーナから戻る)
(8/5土なし)
8/6日 水道
8/7月 水道
8/8火 水道
8/9水 水道
8/10木 水道
8/11金 水道
8/12土 水道
8/13日 水道
8/14月 水道
8/15火 豪雨
(8/16水なし)
8/17木 水道 この間、毎日水道あり。昼は断水、晩に復活を定期的に繰り返す。
8/18金 水道
8/19土 水道
8/20日 水道
8/21月 水道
8/22火 水道
8/23水 水道
8/24木 水道
8/25金 水道
8/26土 水道、豪雨
(3日間、完全断水)
8/30水 水道
8/31木 終日水道が出る珍しい日


2017年8月26日 (土)

■アビジャン日記 (20): 教員研修で講演/日本も秋入学にしたい理由/自動車を閉め出す地区の動き

深夜まで続く、近隣の教会の大音量の祈りの声、"Oh, Jésus ! Oh, Jésus ! Ohhhhh, Jésuuuuus !"(おーじぇずゅ、おーじぇずゅ、おーーーじぇずゅーーーー) 。何百回と繰り返し聞いていると、空耳で「総持寺(そうじじ)」に聞こえてきます。まったく別の宗教だけどなあ、などと思いながら、ちまちまと仕事をしています。

■お湯を沸かしてシャワーの日々
先週の体力の落ち込みは激しかったけれど、結局、熱は出なかった。マラリア再発という事態は回避できた模様。

最近は、お湯を沸かしてシャワーを使っている。なぜって? 涼しく冷え込む日が多いから。それでも昼間は少々暑いこともあるが、昼は水道が止まっている。深夜の23時か0時頃になって、ちょろちょろと出てくる水で水浴をするが、その時間帯はすっかり寒くなっているから、ちょっとポットでお湯を沸かして使うと格段に快適になる。水道を出しながら電気ポットを使うとブレーカが落ちるから、両方を同時に使わないように注意する。

なんやかんや、こんな暮らしにも慣れてきた。カメルーンの熱帯雨林の中で暮らしていた時に比べれば、不自由ながらも、ここには水道と電気の供給がある。腐っても鯛、断水があっても大都会。とりあえずは、マシであると考えることにする。

■書き出し、書き出し…
今週の仕事は、ほぼこれに尽きる。ひたすら、編集済みの大量の動画の書き出しを行っていた。

ただいま編集中の、手話の動画辞典。一度目の動画ファイル作成のサイクルは終わったものの、誤った表現を差し替え、また語彙の不足を補うために、追加撮影を行った(7月)。その後、ろう者たちが動画の編集を行い、作業が一段落ついたということで、膨大なデータが私のところに回ってきた。

自宅の机に MacBook Pro と外付けハードディスクを設置、切り出し済みのすべての動画データを MPEG-4 の形式に書き出すということをやった。この作業に、1週間という時間を要した。

動画の書き出しなんて、ボタンひとつで済むでしょう、というわけにはいかず。1本の長い映画を作っているわけではなく、1件(=1語)当たり約2-3秒という短い動画を、何千種類と大量に作る仕事をしている。一語ずつを Final Cut Pro で確認しながら、それぞれを完成作品として Compressor に送り込み、独立した動画ファイルに仕立て上げていくのである。しかも、どういうわけか知らないが、2-3秒の動画を書き出すのに、4分余りもの時間を必要とするという、おそろしく作業効率の悪いソフトの組み合わせである。いろいろ調べてみたが、改善方法は見つからず、手作業で Compressor に多数のデータを送り込み、徹夜で Mac に書き出し作業をさせるということを繰り返す。

#どなたか詳しいことがお分かりの方がいらしたら、ぜひ教えてほしい。Final Cut Pro X (Verstion 10.2.3) で作成済みのプロジェクトを、Compressor (Verstion 4.3.2) で書き出す時に、やたら時間がかかるのはなぜなのだろうか。

さらに。時どき、Mac がフリーズしたり、Compressor がストライキを起こしたりする。徹夜で書き出し作業をさせようと仕込んでおくものの、夜半に止まっていて、朝起きてみたら進んでいなかったということも珍しくない。Mac を再起動して休ませて、もう一度作業にかからせる。

それに加えて、ここでは時どき停電がある。停電すると外付けハードディスクが止まってしまい、仕掛けた書き出し作業がフイになってやり直し、ということもしばしばである。

結局、今週月曜の昼から初めて、土曜の深夜のいま現在にいたるまで、6日間24時間ほぼ稼働しっぱなしで、まだ書き出し作業が終わっていない。今も日記を書いているかたわらでカリカリと書き出しが続いている。そのくらい、時間がかかり、手間がかかる。

#時どき機嫌を損ねる Mac とそのソフトのお世話をしながら、長い作業の進捗を見守るというのは、どことなく動物を飼育するのと似ている感じがする。

辞書を作るというのは、一種の苦行である。単純作業の繰り返しで、しかもミスが許されない。文章だけ適当に書いていればいいような仕事だったらどれほど楽なことか、と思うこともある。…いやいや、逃避はよくないな。長い道のりを、少しずつ歩み続けるしかないのである。いずれ終わりが来るのだから。ひとつずつ片付け、早く解放されて楽になりたい。

[20170827追記] 日付が変わって日曜日の未明、1時台に、今回の書き出し作業がすべて終了。1,462件の動画の書き出しを終えた。Bravo !! 約5日間と14時間にわたる、ぶっ通しの作業であった(実作業時間は約4日間15時間、つまり約23時間の中断による時間のロスが生じたことになる)。

photo20170825_formation_ecis1.JPG

■教員研修で講演
辞書の編集という苦行の合間に、もうひとつちょっとした頼まれ仕事をした。妻とふたりで、教員のための手話研修で講演をしてきたのである。海外で、夫婦で講演をするのは、今回が初めてである。

今回の研修は、「聞こえない子どもたちを普通学校に入れていくプロジェクト」の一環として行われている。就学すべきろう児童たちがたくさんいるものの、ろう学校のキャパシティが不足している。このため、普通学校で受け入れをしていく必要があるが、受け入れる予定の普通学校の教員たちには手話の素養がないため、手話の基本を覚えさせる研修が行われている。

財源不足など、いろいろと課題はあるものの、少なくとも「ろう児童が通う予定の普通学校の教員たちに、あらかじめ手話を覚えさせる」という政策があることは、望ましいことである。なお、財源不足は、ドイツの援助団体がまかなっている。そのへんは、この国の政府にも、もうちょっとがんばって取り組んでほしいところ。

場所は、いつもお世話になっている国立ろう学校であるが、今回は政府教育省学校教育局(DELC)の副局長(Educadtion for All 担当)も臨席・聴講ということで、少々儀式っぽい雰囲気を伴っていた。聴講者は、およそ70名強といったところ。ほとんどが、手話を少し学び始めた聞こえる教員たちであった。

講演の使用言語について書いておくと。今回のおもな聴衆は手話に堪能ではない聴者たちであったため、音声フランス語で話す必要があった。一方、手話指導員であるろう者たちの参加もあり、手話も必要であった。

講師の私たちは、ろう者ひとり、聴者ひとり。結局、こういう態勢をとった。

うちのつれあいが話す時は、コートジボワールで用いられているフランス語圏アフリカ手話で話し、私が音声フランス語に通訳する。

私が話す時は、音声フランス語を話しながら、手話の語を添える。いわば、「フランス語対応手話」である。ただし、そういう時の私の話し方は、音声よりも手話寄りになるので、結果として「手話っぽいフランス語」になっている。

質疑応答の時は、コートジボワールの聴者に応援を頼み、音声フランス語から手話への通訳をしてもらった。

うちのつれあいは、ギャローデット大学仕込みのアメリカ手話に、新たにフランス語の口型を含め、さらに西アフリカの手話語彙をふんだんに取り入れることで、かなりそれらしいフランス語圏アフリカ手話を話せるようになっている。講演をこなせるほどの熟達ぶりである(PowerPoint スライドを作りながら、直前までフランス語表現の確認は入念に行ったのだけれど)。

私の方はといえば、フランス語もフランス語圏アフリカ手話も、だらだらとムダなおしゃべりをするためにはずいぶんと慣れているものの、講演で通訳をするとなるとそれなりに困難である。特に、フランス語。時制や性・数に関わる文法的なことが、文字通り、アタマで考えなくても口を突いて出るほどに慣れていないと、同時通訳はできない。

下手なフランス語でゆっくり小声でぼそぼそやっていたら、みんな飽きてきて私語を始めるだろうから、大声を張り上げる。アフリカ訛り丸出しで、なるべく動詞の活用なしで済むように名詞を多用して、なんとか乗り切るしかないのである。講師のみならず通訳者も兼ねていた今回は、自分ひとりでフランス語(またはフランス語圏アフリカ手話)で講演する時の何倍も緊張し、何倍も疲労した。

でも、おかげで、よかったよー、おもしろい講演だった!と好意的な反応も多かったし、質問も多数出て、予定の60分をさらに20分も延長して、ぶじに終了した。

(今回、私が手話通訳を行ったことについては、ろう者本人の許可を得て記述、公開している)

photo20170825_formation_ecis2.JPG

■多様性への寛容さをめぐって
今回の講演のテーマは、"La diversité des langues des signes dans le monde et en Afrique"(「世界とアフリカの手話言語の多様性」)。手話は世界共通ではない、多様であることが自然なのであり、それら多様性を受け入れて尊重する姿勢をもちましょう、というメッセージを発することが目的であった。「手話って世界共通なのー?」という、世界中どこでも見かける聴者あるあるの認識に対する、啓発的な講演である。

ちょっと意外だったことがあるので、ここで記しておきたい。講演の中で、イギリス手話のアルファベット(両手を用いる指文字)を紹介したときのこと。どよめきのような驚きの反応がわき起こった。あれは強烈だった。ちなみに、コートジボワールを含む西アフリカ一帯では、アメリカ由来の片手の指文字が使われていて、聴者たちもそれを学んでいる。えー、やっぱりアルファベットの指文字は片手がいいですよ、通じるし、という明らかな反応であった。

アフリカは言語的に多様な地域だから、多様性に対して比較的寛容な姿勢があるものと思っていた。実際、アフリカ社会の文化の諸相の中で、そういう面も見かけることも多い。

ただし、教育上の規範となると、また話は別のようである。たとえば、コートジボワールもその典型であるが、多数の民族諸語をもつ社会でありながら、国家の公用語はフランス語のみであり、学校教育も統一してフランス語を用いることとされている。そのフランス語の規範はフランスに基づいており、方言だのアフリカ訛りだのを許容する余地はない。言語使用の実態はさておき、規範意識としては均質性を志向する面が確かに存在している。

手話においても、各地各様の表現の流儀があって…という話が、どこまで理解されただろうか。とくに、教育界に漂う規範志向性の壁は、かなり厚いのではないかという感触があった。

まあ、そういう部分も含めて、現実のアフリカであるということである。現実が多様であるがゆえに、むしろ教育では統制的な思想が支持を得やすいのかもしれない、などとあれこれ考えた。

もっとも、これは余興のひとつだが、来日経験があるコートジボワールのろう者が、「ありがとう」という日本手話の語を講演の最後に紹介した。「日本ではこういう手話なんですよ。日本のゲストには、こちらの手話でお礼を言いましょう」と呼びかけてくれて、聴衆のみんなが、"Merci" と「ありがとう」の二通りの手話で私たちに賛辞を贈ってくれた。こういう肩のこらない交流あたりから、さまざまな違いを経験していくのは、いいことかもしれませんね。

これまで、日本語圏での文化人類学教育についてよく考えてきたけれど。アフリカにおける文化人類学的センスの教育・啓発という課題についても、大まじめに考えた。今回の講演を引き受けて、逆に私の方が得ることができた、貴重な教訓である。

■日本も秋入学にしたいと考える理由

気が早いかもだが、2018年の行事予定をまとめ始めた(ちなみに、英語版フランス語版もいちおうある)。

来年度は、とくに7-8月に大きな国際会議が立て続けに開かれる。

第20回国際言語学者会議 (ICL20)「言語のダイナミクス」, 主催: 常設国際言語学者委員会 (CIPL)、南部アフリカ言語学会 (LSSA)、ケープタウン大学 (UCT) (2018年7月2-6日, 南アフリカ共和国西ケープ州ケープタウン, ケープタウン国際会議場) [Workshop: Signed Language Linguistics]
・第18回国際人類学民族科学連合 (IUAES) 世界大会 (2018年7月16-20日, ブラジル, サンタカタリーナ州フロリアノーポリス, サンタカタリーナ連邦大学) [大会ウェブサイト]
第12回国際狩猟採集民会議 (CHAGS XII) (2018年7月23–27日, マレーシア, ペナン州ペナン島市, マレーシアサインズ大学社会科学部)
・第9回世界アフリカ言語学会議 (WOCAL9) (2018年8月23-26日, モロッコ王国ラバト=サレ=ケニトラ地方, ラバト, ムハンマド5世大学ラバト・アグダル校人文学部) [概要]

おー。楽しそう。しかし、なぜこうも同じ時期に立て続けに。もちろん全部は行けないが、ひとつくらいは行けるかなあと考え始めた。すでに分科会や発表の申し込みも始まっている。

あ、でも来年度は、また多忙な授業の暮らしに戻るのだよなあ、と思うと、野心も少々失せていく。ナイジェリアの言語学者から、ケープタウンの ICL20 に行きます?手話言語ワークショップとかもあるみたいですよー。などとお知らせをいただいて、つらつらとウェブサイトを見る。南アには一度行ってみたいけど、7月だと前期試験期間も近いしなー、などと、すでに来年度計画はすっかり「国内の人モード」になっている。

今年は、そういうことを気にしないで行動できるため、国際学会を渡り歩くような1年になる。すでに三つをこなして、また秋に活動再開の予定。でも、こんなことは一生に何度もできることではない。

世界中の大学が閉まってバカンスになる時期に、こういう国際会議がよく開かれる。日本の大学も秋入学にして、6月から8月を大学の長期休暇にしませんか? 世界の都合に合わせて活動しやすくした方が、何かといいと思いますけどね。

■自動車を閉め出す地区の動き
事件性はないが、最近の自宅周辺の状況をひとつ。「地区からの自動車の閉め出しが強まった」という変化があった。

私たちの借家は、ヨプゴンの一角にある Cité(集合住宅地区)の中にある。さほど厳格に封鎖されているわけではないが、いちおう壁でぐるりと周りを囲まれていて、2か所に設けられた門から入構するという構造の地区である。

当初は出入りの規制もなく、門は開けっ放しで、ゆるやかなものであった。しかし、1か月ほど前から、門に踏切のような遮断機を設け、常時住民の若者が門番として張り付き、出入りする車を規制するようになった。このために町内の寄り合いも開かれたようだし、遮断機を新設したり、門の横に警備室のような小さなコンクリートの構築物が設置されたりした。釘を多数打ち込んだ長い板を路上に置いて、物理的に自動車が入構できないようにしていることもあった。

背景として、バカ(小型乗り合いバス)やウォロウォロ(乗り合いタクシー)が、ここの地区の住民と関係ないにも関わらず、渋滞した大通りを避けて、抜け道としてこの地区の中を爆走するということがあった。規制が強化された後、そうした小型バスなどの運転手が道を通せと要求し、門番の若者たちが抗議して遮断機を降ろし、両者が口論してもめているといった場面を見かけることもあった。

私たちは車を使わないので、徒歩で門を通り抜けるだけなのだが。こういう住民の自発的な検問で疑われてトラブルになっても嫌なので、門番をしている若者たちとは、つとめてにこやかにあいさつするようにしている。どうせ道を歩くだけでも見てくれで十分目立つ私たちのこと、とりあえず門番たちには顔を覚えてもらい、円満な関係で毎日のあいさつを交わしている。

今週の木曜日、ココディ地区の東の端の方にある、ある大学教員の方のご自宅を訪ねた時のこと。そこはさらに警備が厳重な隔離地区(gated community)だった。専従のガードマンが門を管理し、タクシーで入構する時はタクシードライバーの運転免許証を出構するまで取り上げて預かるほどの厳しい管理をしていた。また、以前訪れたスイスセンターは、入構者に対してパスポートの提出保管を義務づけていた。高級ショッピングモール、スーパー、銀行、フランス文化センターなどで、警備員が空港なみの身体検査と手荷物チェックをすることも珍しくない。

厳しい検査、身分確認。そして一歩入れば、その中では、入構を許された人たちの独特のコミュニティが、その場限定の自由と安全を謳歌する。かつてのような「人種による隔離」という風景は見られないが、富裕層、特権層を守ろうとする壁は維持され、その敷居は高い。アビジャンのような富裕層と貧困層が共存する大都市では、そういう光景がある。

きっかけは、町内会のささやかな交通整理の取り組みに過ぎないのだけれど。アフリカの多様さ、そしてその多様性の隙に潜む隔離と分断の現実に、つい連想が及んでしまった。

さてと。8月も終わりゆく。アビジャン滞在中にあれしてよこれしてよ、という、講演やセミナーなどの要望が増えてきた。こういう事態は、なるべく避けたかったのだが。だからはじめからずっと言ってたやんか、やるなら早めに企画してよ、と。お互いに先延ばしにしてきたツケが、いろいろとたまってきていている感じがする。安請け合いはせず、できることを淡々と進めるのみ、と肝に銘じ直している。

では、また来週。Bon week-end !


2017年8月19日 (土)

■アビジャン日記 (19): 近刊『子どもたちの生きるアフリカ』予告を開始/スイス科学研究センターで講演

涼しい涼しいアビジャンより。日本の夏は暑いような話を聞いています。みなさまご自愛ください。

そういえば、ようやく同僚教員たちも学生たちも夏休みに入ったようで、世界各地に飛び立っていく人も多いみたい。ひとりだけ「年中夏休み」をやっている私は、「多忙な仲間を置き去りにしてきた脱走兵のようなやましい気持ち」をもっていましたが、みんな夏休みに入ったとなると、やましさも少しやわらぐというものです。

■むりして詰め込まない
今週のモットーをざっくりいうと、「むりして詰め込まない」であった。

ガーナでの国際学会講演と、その後の猛然たる学会の後片付けを済ませた後、ちょっとホッと気が抜けた。そこで「あの感覚」がやって来たんです。「あの感覚」とは、マラリアを患う時の予兆にも似た、体の疲れ。

具体的には、全身に疲労感があり、節々が痛み、とくに古傷の右足首と左手首が痛み始め、頭痛がして、何かやる気がしない。これに寒気と熱が加われば、「マラリアの症状ひとセット」がそろって、病院行きということになる。

体温計を脇にはさみながら、ちょっとだらだらと休養するような、それでも休養だけしていたら時間のムダだから、重いデータのコピーをしたり、ハードディスクの大掃除をしたり、懸案だったウェブサイトの整備をしたり。軽めのデスクワークをちまちまとやっていた。

幸い、映像の編集はろう者に任せていて、待機していればよかった。ここのろう者チームは聴者教員のための手話教室が始まって忙しくなり、私との会議や作業も一休み。大学の同僚たちは、学会が終わってそれぞれバカンスに行ってしまったし、日本の大学も出版社もお盆休みで、連絡のやり取りがなくなった。自宅滞在の多い、静かな環境の一週間であった。

せっかくアフリカに滞在しているのに、のんびり静かにデスクワークって、もったいなくないか?という気がしなくもない。しかし、短期の出張と違って、何か月もの長期にわたる滞在の場合は、毎日毎週のようにアクティビティを詰め込んでいたら、体がもたないでしょう。とりあえず平穏に健康に暮らすことをベースにして、時どき学会講演のような大きな仕事をきちんとこなし、その後は少しのんびりの週があってもいいと私は思っている。

そんなふうに言いながらも、ごろごろ寝ていたわけではなくて。動画辞典の構造に関する作業をしたし、日本語の論文の初校を終えて出版社に返却したし、フランス語の共著論文の今後の方針についての打ち合わせもした。また、かつて東北大学大学院に留学し、現在はブアケ大学で教鞭をとっている、日本語の言語学が専門の G さんが私たちの家を訪ねて来られたので、意見交換をするなど。それなりに仕事はしていたし、交流の機会もあった。

■大学での社会調査実習のまとめページを作る
ぽっかりと空いた時間を活用して、ウェブサイトの大きな整備をふたつした。

ひとつ目は、勤務先の愛知県立大学でこれまで取り組んできた、社会調査実習関係のまとめページを作ったことである。

「愛知県立大学映像制作ワークショップ: 2012年以降の全記録」
「愛知県立大学国際関係学科フィールドワーク・フェスタ: 旅の写真展/旅の報告会・茶話会: 2011年以降の全記録」

私が2011年春にこの大学に着任してから、学生たちの調査力を向上させることをねらいとして、毎年のように社会調査実習とその公開行事を重ねてきた。これまでの経験が蓄積されているものの、ふだんは実施するのに忙しくて、なかなか全体をまとめる機会がなかった。今回、えいっと思い立って、過去の実績をまとめるウェブページを新設。で、毎日少しずつ時間を見つけてはデータの補充をし、過去数年の実績を一覧で紹介できるようにした。

こういうウェブページを作っても、別に研究上の実績にはならないが、実は、私の一種の仕事術でもある。データを自分の手元にしまっておいても、絶対に日の目を見ることはない。しかし、ウェブページでも何でも、だれかの視線にさらされる場に置き始めたら、ちゃんとまとめないといけないという気持ちになって、データの整理をするようになる。それが、後日、思わぬ形で論文になったり発表になったりする。

今回の記録用ウェブページ整理も、教育上の実績を紹介して、大学と学科の宣伝につなげようという意図もあるけれど、それだけでなく、いずれきちんと執筆と刊行につなげようという意図のもとでやっている。具体化は、これからなのだけれど。

■近刊『子どもたちの生きるアフリカ』予告を開始
もうひとつ、今週新しく作ったのは、昭和堂から近日中に刊行される新しい本の紹介サイトである。

清水貴夫・亀井伸孝編. 近刊予定. 『子どもたちの生きるアフリカ: 伝統と開発がせめぎあう大地で』京都: 昭和堂.

いろいろ苦労もあった本書の編集ですが。大きな山を越えて、タイトルも刊行時期も確定し、出版社のウェブサイトやツイートで紹介が始まった。

昭和堂:近刊予定の広告
昭和堂の紹介ツイート

ちょっと時間があった隙に、この研究室サイト内にも特設ページを作って、宣伝に乗り出すこととした。

まだ、三校がひかえているので、完成した気持ちになって慢心することは自ら戒めつつも。少しずつ人目に触れてもらえる本に育てていきたいと思います。寄稿者のみなさまのおかげで、アフリカ中の多彩な環境下で学び育つ子どもたちと出会えるような、すてきな本になると思います。おたのしみに。

photo20170817_seminar_csrs.JPG

■スイス科学研究センターで講演
今週の行事として、スイス科学研究センターでの講演というのがあった。科学者たちの前で、自分の取り組んでいる課題を短く発表し、議論をするというものである。15人ほどだっただろうか、所員の勉強会といった感じの小規模な集まりであった。

会議室に集まったみなさんとともに、リラックスした感じで質疑応答をこなしてきた。出た質問は、以下のようなもの。

・ナイジェリア手話とガーナ手話の類似性について
・コートジボワールに分布する60もの民族諸語と、手話言語の多様性について
・外来のフランス語とアメリカ手話の影響のもとに成立した接触言語に「アフリカ」と名付けるのには賛成しがたい。アフリカ固有の文化に根差した手話言語の調査こそ行うべきではないか。(コメント)
・辞典作成にともなう標準化の問題について

だいたいは私の守備範囲の、いつもよく聞かれる質問、コメントであった。

三つ目の「アフリカの固有性」に関するコメント、これもよくある、やや観念的な批判である。アフリカの地域固有の多様な手話言語の調査が必要であることは、言うまでもない。一方、アメリカ手話と音声/書記フランス語をベースにした接触手話言語を発展させたのは、他ならぬアフリカのろう者たちなんですけどね。そのコミュニティの存在と長年の営みの歴史、そして広域的な使用の実態に敬意を表して、私たちは「フランス語圏アフリカ手話(Langue des Signes d'Afrique Francophone)」という言語名を提唱しているのである。そして、その手話には、多くのアフリカ由来の語彙が含まれてもいる。

アフリカのろう者コミュニティの実状を知らない聴者の人たちには、こういった基本的なことをさらに丁寧に説明していく必要があるなと実感した。高々30分の発表、30分の質疑で、初めてこの話題に触れる聴者たちに心底納得してもらうのは、非常に難しい。

でも、もちろんこれは貴重な意見だし、そういう反応を招いてしまわないように、次に書く予定の英文論文では、このような見方がありうることを想定した配慮ある書き方をしようと思う。そのために大いに参考になった。

私がいまアフリカに住んでいて、各地で発表を重ねていることの意義は、こういうところにあるのだろうと思っている。多様な立場の人に成果を見聞きしてもらい、多彩な意見を浴びるように聞く。自分のアンテナでこれらの反応をキャッチして、私自身の立場とことば選びを慎重に微調整し続ける。自分の持ちネタを、最大限の効用とともに世界に普及させていくためには、どのような形式とことば選びをするのがよいかを、自分自身で体得する。この1年は、自分の素材と世界の聴衆(少なくとも、アフリカとヨーロッパと北米を含む)の間ですり合わせを行って、適合可能性を探る、「アンテナのチューニングを続けるような旅」である。

スイス出身で、コートジボワールの人と結婚し、長らくここに在住しているという、政治人類学専攻の K さんとも知り合いになった。紛争の最中もずっと西部に暮らしていたという強者である。ブアケ大学などでの人類学系のコネクションももっているようで、これからのお付き合いが広がっていけば、と願っている。

スイスのバーゼルで開かれた国際会議、会議の後の空港でのスイス人研究者親子との偶然の出会いから、アビジャンのスイスセンター訪問と、このような発表機会が実現した。ご縁というのは不思議なものである。お招きくださり、ありがとうございました。

■音環境を記録してみる
スイスセンターに講演に出かけた以外は、比較的自宅にいることが多かった今週。事件性はないネタですが、自宅にいて周囲から聞こえてくるさまざまな環境音があるので、余興のひとつとして記録してみた。

・教会からの音。これが実は相当にうるさい。"Oh, Jésus ! Oh, Jésus ! Ohhhhhhhh, Jésuuuuuus... !" と、昼夜問わず聞こえてくる。説教のマイク音、音楽、賛美歌なども。
・モスクのアザーン。「アッラーフ・アクバル…」。これは、教会とは違う方角から定刻に聞こえてくる、静かなものである。
・自動車の音、とくにクラクションとエンジン音。
・若者と子どもの叫び声。サッカー観戦時が多いが、それ以外にも、遊びの声、扮装したお化けが出現する時の騒ぎ声なども。
・ペタンペタンという臼の音。階下の台所から。
・水を汲み上げる電気ポンプの音。しゅーーー、っと音がすると、あ、水が来たな、と感知できる。
・工事の作業の音。のべつ何かをがんがんと壁に打ち付けている。営繕の続く、整備中の(未完成の)新しいアパートなのである。
・子どもを呼ぶ母親または姉妹の声。
・カンカンカンとハサミを鳴らす音。道を歩く、服の修繕屋さんの客寄せ。
・「ああー・ああー」という独特の調子の声。何かの売り子さんの声である。
・ぴっ、ぴっぴょろぴょろぴっ…という甲高い鳥の声。
・(まれに)近隣の民家での口論。
・(まれに)近隣の警察署での銃撃音。

たわむれに記録してみたが、メモしておくといずれ自分にとっての思い出にもなるだろうな、と思っている。

なお、うちのつれあいはろう者だからこういう音を聞かない人だが、警察署の銃撃音も含めて、大部分はすでに手話で通訳済み。自分では聞いたことのない教会の祈りの声やモスクのアザーンを、正確に記憶してしまうほどである。こういう何気ない経験を共有することは、大事なので。もっとも、それくらい、近所の教会の音は、頻繁でしかもうるさいということでもある。

■危機に直面するたびにフランス語がうまくなる
今週も、小さなトラブルがいくつかあった。動画編集作業中のろう者から「ハードディスクが壊れた!」みたいな速報がメールでまいこみ、青ざめて作業場に駆けつけ、相談し、対処を考えたりする。これは、同じ日のうちにぶじに解決した。

また、これまでも、荷物が届かないとか、書類が足りないとか、行事計画/成果公開のめどが立たないとか、自宅の設備が壊れるとか、なんやかんや。何か起こるたびに、メールで、電話で、対面交渉で、人とやりとりせざるを得なくなる。しかも大急ぎで。

こういうトラブルが起こるたびに、フランス語の語彙が増えていく。増やさないと解決できないからである。これは、短期滞在では得ることができない、ひとつの成果と言ってもいいかもしれない。

最近の水事情といえば。雨季が過ぎ去り、豪雨はめったに降らなくなった。

水道は、定期的に深夜に出るようになった。つまり、夜がふけて23時くらいになると、ちょろちょろと低水圧の水が出始める。水を溜めて、必要な水の貯蔵、そして洗濯と水浴を済ませる。朝になると必ず止まる。これを繰り返す。昼間に水が出ないのは不便と言えば不便だが、ほぼ規則正しいので予測ができ、また対策もできる。さほど不快でもない、生活リズムのひとつになりつつある。

いろいろの疲れが出てきたかもしれない、この週末。無理して動いてまた熱が出てしまわないように、そろりそろりと暮らしている。ろう者による動画編集もそろそろ終わり、バトンタッチでまた私の方に作業がやってきた。毎日の目標を小さめに定めて、少しずつ進めようと思います。

みなさんも、よい夏休みを。Bon week-end ! そして、Bonnes vacances !


2017年8月18日 (金)

■朝倉書店『手の百科事典』刊行:いち編集委員より

手の百科事典

編集委員として編集・執筆に参画した、朝倉書店『手の百科事典』が刊行されました(もっとも、私はずっと日本を留守にしているので、現物をまだ見ていないのですが)。

日本を出発する直前の3月末か4月始めに、最後の最後の悪あがきでさくいんの総点検をした。いくつもの箇所にがしがしと赤ペンを入れて編集部にお送りし、校正終了。後はよろしくお願いします!と言って日本を出てきた。

その後、6月頃にぶじに刊行されたと聞いた。編集、執筆に関わった関係各位、どうもありがとうございました。

そもそも、この事典は、「バイオメカニズム学会」という、生物学系/工学系の学会による企画である。私はこの学会の会員ではないものの、ネアンデルタール人の絶滅の謎を解くという大規模な学際的科研費の片隅に参加していたことがきっかけで、その人脈のなかでこの編集を担当している方とお会いし、この事典の話が浮上した。

はじめは、「手の遊び」などの項目に関するいち寄稿者として参加しませんか、という打診であった。おもしろそうですね、とその話に乗る。やがて、手の機能や構造についての自然科学的な記事を書く人はその学会にたくさんいるものの、「人間が手をどのように用いているか」という文化的・社会的側面について書ける人が実はちょっと足りないので、というお話になった。そして、そういった分野の原稿の書き手に依頼することも含めて、取りまとめを行う編集委員としての参加はいかがですか、と打診された。

乗りかかった船である。本事典を構成する五つの編のうちの「生活編」の編集担当委員として、深い関わりをもつようになった。

人間=ホモ・サピエンスにそなわった「手」という器官のおもしろさは、私自身、かねがね思っていたことだった。進化の過程で樹上生活の霊長類にそなわった、拇指対向性のある五指をもつ両手。それが、目的外の転用に転用を重ねた挙げ句、道具を作り、アフリカを出て、都市を造り、国家を作り、核兵器を造り、ロケットを作って宇宙にまで行ってしまうという、だれも想定していなかった人間の現状(惨状?)を招き寄せた。

#思い出したが、昔、自分の手をしげしげと見つめつつ、こんな日記を書いたこともあった(「■私に十指を与えたもうたご先祖へ」

手を語ることは、人間を語ること。そのくらいの気宇壮大な構想で編集に取りかかり、文化人類学や社会学の知人のネットワークを駆使して原稿を依頼した。私自身、手について毎日毎日考え、思い付いた手関係のネタをすべてメモに書き付けては、自分の原稿や依頼原稿を構成する素材にしていった。

そういう意味では楽しい作業でもあったし、まあ、実際のところ、さまざまな苦労もありました…。

実は、私にとっては「未完の作品」という思いが残る。手にまつわるいくつもの分野、事象、データ、逸話などを調べかけ、結局、内容として盛り込むことができなかったことがある。ああ、もう少し私に余力があれば…と思うことがいくつもある。もっとも、人間社会における手についてのすべての事象を網羅する事典など、おそらく永遠に完成することがないだろう。それくらい、手はおもしろすぎて、きりがないのである。

全40章から成る「生活編」は、いろいろと思うところがありながらも、それなりに人間生活における多種多様な手の現れと働きを網羅的に紹介した部になったのではないかなと、いまもくじを読み返してみて、そう思う。

#ざっくり計算してみたところ、この「生活編」だけで約40万字を数えた(24字×46行×2列×178ページ=約39万字)。新書数冊分に相当するボリュームである。編集の渦中では気付かなかったが、そうか、そんなにありましたか。どうりで、苦労したはずである…。

これから本事典を手に取ってくださる読者のみなさまへ。手について何か調べものをするきっかけに。また、本事典の記述から刺激を得て、手にまつわる学習や研究を進めていく方がたが現れますように。そして、できることなら、将来、さらに人間社会の手の可能性を網羅した新しい手の事典の構築に参画してくださる方がたが現れますように。

そういう思いとともに、本事典の刊行を喜びたいと思います。「ほんの軽いお手伝いのつもり」で参画して、想像以上に深入りしてしまった、いち編集委員からのごあいさつでした。

朝倉書店『手の百科事典』特設ページはこちら

私の執筆項目をちょっと立ち読みできます。

「手の遊び」
「手と暴力、犯罪、刑罰」
「手の拡張としての道具、手を模した道具」
「架空の生物、キャラクターの手」


2017年8月13日 (日)

■都市化するアフリカ:100万人以上の都市圏一覧(61都市)

ある本の下ごしらえで、最新の都市圏人口データに基づいた「アフリカの大都市一覧」を資料としてまとめる機会があったので。せっかくだからウェブで公開しておきます。

え、ライオンとシマウマが駆け回っている野生のアフリカに、100万都市なんてあるの?とか言っているあなた。認識が1世紀ほど更新されていません。

アフリカの100万人を超える都市は、2017年現在で、61都市に上ります。1000万人を超えるメガシティが、三つもあります。近い将来、都市住民の数がアフリカ全人口の半数を超えるであろうとも予測されています。「アフリカ=野生」ではなく、「アフリカ=大都市」というイメージになる日も近いのです。

なお、以下は、都市圏による推定人口のランキングです。たとえば、この元ネタとなった資料では、日本の「東京-横浜圏」が世界第1位の都市圏であるとされています。その点に留意してご覧ください。

===
アフリカにおける100万人以上の都市圏: 61都市

(世界順位) 都市 (国名) 推定人口

=== 1000万人以上 (3都市) ===
(17) Cairo (Egypt) 16,225,000 ※アラビア語圏最大/北アフリカ最大
(24) Lagos (Nigeria) 13,360,000 ※英語圏最大/西アフリカ最大
(28) Kinshasa (Congo (D.R.)) 11,855,000 ※フランス語圏最大/中部アフリカ最大

=== 500万人以上 (5都市) ===
(41) Johannesburg-East Rand (South Africa) 8,880,000 ※南部アフリカ最大
(49) Onitsha (Nigeria) 7,635,000
(53) Luanda (Angola) 7,250,000 ※ポルトガル語圏最大
(76) Nairobi (Kenya) 5,545,000 ※東アフリカ最大
(78) Khartoum (Sudan) 5,345,000

=== 400万人以上 (5都市) ===
(86) Abidjan (Cote d'Ivoire) 4,980,000
(88) Alexandria (Egypt) 4,870,000
(92) Dar es Salaam (Tanzania) 4,715,000
(96) Casablanca (Morocco) 4,370,000
(101) Accra (Ghana) 4,175,000

=== 300万人以上 (11都市) ===
(109) Cape Town (South Africa) 3,925,000
(124) Algiers (Algeria) 3,730,000
(132) Addis Ababa (Ethiopia) 3,555,000
(136) Durban (South Africa) 3,480,000
(145) Yaounde (Cameroon) 3,360,000
(148) Dakar (Senegal) 3,320,000
(149) Bamako (Mali) 3,280,000
(157) Douala (Cameroon) 3,180,000
(158) Pretoria (South Africa) 3,135,000
(159) Kumasi (Ghana) 3,105,000
(162) Ouagadougou (Burkina Faso) 3,020,000

=== 200万人以上 (13都市) ===
(163) Ibadan (Nigeria) 2,990,000
(176) Lusaka (Zambia) 2,785,000
(182) Maputo (Mozambique) 2,695,000
(188) Antananarivo (Madagascar) 2,645,000 ※島嶼部で最大
(198) Kampala (Uganda) 2,540,000
(207) Abuja (Nigeria) 2,460,000
(210) Mogadishu (Somalia) 2,425,000
(227) Tunis (Tunisia) 2,260,000
(230) Harare (Zimbabwe) 2,240,000
(234) Mbuji-Mayi (Congo (D.R.)) 2,185,000
(238) Lubumbashi (Congo (D.R.)) 2,165,000
(246) Uyo (Nigeria) 2,105,000
(250) Rabat (Morocco) 2,065,000

=== 100万人以上 (24都市) ===
(264) Brazzavill (Congo (R.)) 1,980,000
(270) Port Hartcourt (Nigeria) 1,960,000
(285) Nsukka (Nigeria) 1,790,000
(285) Lome (Togo) 1,790,000
(299) Conakry (Guinea) 1,735,000
(301) Freetown (Sierra Leone) 1,715,000
(350) Monrovia (Liberia) 1,495,000
(353) Niamey (Niger) 1,485,000
(372) Benin City (Nigeria) 1,400,000
(393) N'Djamena (Chad) 1,320,000
(399) Marrakech (Morocco) 1,310,000
(412) Kananga (Congo (D.R.)) 1,250,000
(412) Aba (Nigeria) 1,250,000
(414) Port Elizabeth (South Africa) 1,240,000
(421) Cotonou (Benin) 1,215,000
(427) Kigali (Rwanda) 1,200,000
(428) Mombasa (Kenya) 1,195,000
(438) Fez (Morocco) 1,170,000
(457) Tripoli (Libya) 1,125,000
(461) Kaduna (Nigeria) 1,120,000
(468) Tanger (Morocco) 1,105,000
(481) Kisangani (Congo (D.R.)) 1,080,000
(503) Wahran (Algeria) 1,030,000
(510) Pointe Noire (Congo (R.)) 1,015,000

===
以下の資料に基づき亀井伸孝作成。
Demographia: World urban areas. 13th annual edition: 2017:04.
http://www.demographia.com/db-worldua.pdf
Accessed on July 29, 2017

===

ちなみに、これまで私が訪れたことがあるのは、Lagos (Nigeria), Abidjan (Cote d'Ivoire), Accra (Ghana), Yaounde (Cameroon), Dakar (Senegal), Douala (Cameroon), Kumasi (Ghana), Ouagadougou (Burkina Faso), Ibadan (Nigeria), Lome (Togo), Cotonou (Benin) の11都市。そのほとんどに、アメリカ人ろう者牧師がろう学校を創立していて、アメリカ手話の影響の強いろう者コミュニティができている。20世紀後半以降のアフリカの都市化現象と手話言語コミュニティの形成史はほぼ重なっているため、アフリカの大都市を訪れることは、ろう者たちの歴史を学ぶことでもあるのです。

なお、「学会にぜひ講演に来てよ!」と誘われているのは、Port Hartcourt (Nigeria)。来年の国際学会で訪ねてみたいと思っているのが、Rabat (Morocco) です。どちらも、実現するといいけれど。


2017年8月12日 (土)

■アビジャン日記 (18): 国際学会の後片付け/日本大使公邸にお呼ばれ

さてと。ガーナから再びアビジャンに戻ってきました。

月曜日は、独立記念日で休日。1960年のコートジボワール独立から57年。どこかで祝賀のイベントなどもあったのかもしれないが、私たちはガーナ旅行の疲れもあり、その後の片付けなどもあって、日月と二連休ののんびりした静かな自宅滞在でした。

■国際会議の後の to do
国際会議が終わっても、なーんか用事がだらだらと続いてサッパリ終わった感じがしない。体が休まらないなあ…と感じていた。いったい自分は何をしているのだろうと、今回のガーナのケースをもとに、具体的な仕事内容を書き出してみた。

□会議でお会いした方がたとの間で
・名刺や連絡先の整理
・お礼のメールなど
・写真の交換
・会議中のアイディアの具体化

>できたご縁を大切にしないと、高い交通費と時間を割いて行った意味がない。そのご縁のほとんどは消え行くかもしれないが、いくつかは確実に残り、思わぬ展開につながることがある。

また、よくあるのが、会議中の立ち話で、次はあれやこれやしましょうか、などとアイディアが浮かぶこと。放置したら忘れ去られるだけなので、気分が乗っている学会直後に、具体的な計画にしてしまう。そのために企画書を書いたり、やりとりを続けたり、新しい仲間を誘ったり。実現の見込みが定かでないものも含めて3-4件あるが、まあひとつでも成就したらいいかなあというくらいの期待感で。

□ロジ面で
・大学への報告など諸連絡
・領収書の整理

>公務として行っている以上、必要なこと。さっさとやってしまう。ためると、本当に面倒くさくなる。

□経験を記録する
・ウェブの発表業績欄を更新
・余力があれば、日記に体験談をアップ
・さらに余力があれば、参加報告記事を書いて学会誌などに投稿

>よくも悪くも、私の癖である。会議参加などの経験が忘却とともに消えていくのがもったいないので、文字にして二度三度楽しめるようにしなければ、と思ってしまう。ウェブ日記の掲載で済ませることもあれば、本格的な記事にまとめて学会誌に投稿することもある(今回も)。報告記事をまとめるために、参加者数などのデータを主催者から取り寄せ、プログラムを分析して発表件数のデータをまとめるなどの作業も含まれる。

□執筆業績へとつなげる
・会議の論文集への寄稿の準備

>これも、会議への参加しっぱなしでは終えたくないという、私のこだわりのひとつ。論文集の刊行計画がある場合は、極力文字にして残したいと考える(今回も)。本格的な執筆はこれからだが、規定枚数の確認などの準備はすぐにする。

大事なのは、こうしたことを、気分が高揚している数日の内にやってしまうべきこと。それを過ぎたら、もう「過去の思い出」になってしまって、だれも相手にしてくれなくなるし、自分もやる気が削がれてしまう。だから、会期中に準備を始め、帰宅後に猛然と片付ける。

そうか。これだけのことを、コートジボワール帰着後に立て続けにやっていたのだ。どうりで、休まらないはずである。

#ちなみに、国際会議前のロジについてはこちらの日記でまとめたので。両方をあわせると、「国際学会のしごと全工程」リストになります。

■会議の報告記事を執筆、投稿
これまで、日本語圏から西アフリカ言語会議に参加した人は、1970年代にひとりいたようだが、近年ではほぼ見ることがない。今回、参加した貴重な体験を記録に残そう、ということで、簡単な報告記事を書いて、日本アフリカ学会の雑誌に投稿した。

学会の会期中からその着想があって、実は会場ですきま時間を見つけては、ちまちまと逸話やデータなどを書き始めていた。こういうことは、気分が乗っている間に済ませてしまうに限る。

今回の執筆スケジュール:
火水木金の会議中に、細々と執筆メモを書きためる。
金曜日に会議が閉幕。同日に、学会事務局長であるナイジェリアの教授にインタビュー。
土曜日、1日かけてアビジャンに移動。
日月は、別件の原稿に没頭。
火曜日に最終に近いものを書き上げて、データをまとめて、表も作成。
水曜日に事務局長からの追加情報メールを受信。それに基づいて参加者数のデータを修正し、写真を付けて、投稿完了。

会議閉幕から5日後に報告を完成させて投稿してしまうという、私としてもいつになく最速で済ませた仕事であった。

これは、私の力だけでなく、仕事の早いナイジェリアの事務局長のおかげでもある。彼はとにかく実務が早く、国際会議を取り仕切る重要な役割を担い、私の申し出にも快く応じてデータを速やかに提供してくれた。もつべきものは、仕事の早い友人である。

査読なしの記事なので、おそらく掲載されるものと思う。掲載されたらぜひご覧ください。

亀井伸孝「西アフリカ言語学会主催・第30回西アフリカ言語会議(WALC2017)参加報告」
『アフリカ研究』(日本アフリカ学会)
2017年8月9日投稿済, 掲載可否の連絡待機中.

■いろんなタイプの大学教員
今回、ガーナの学会出張で、コートジボワールの大学教員たちと事前にいろいろと打ち合わせして、講演の予定、移動の手段、宿泊の確保など、さまざまにお世話になった。この学会出張という共通の目的があったおかげで、急にみんなと仲良くなった面がある。

とくに最近いろいろと便宜を図ってもらってよく会う人たち3人を、キャラ別に紹介してみたい。

(1) お世話好きタイプ:ニコニコして学生たちの話をよく聞き、人助けのための労を惜しまない B さん。
(2) 学究肌タイプ:合理的、理性的だがちょっと冷たい感じ、自分の研究に専念したい感が顔に出ている K さん。
(3) 政治家タイプ:学内部局長や国際学会の要職を占め、即断即決、仕事も早いが、忙しくてつかまらない A さん

あー、日本の職場にもいるなあこういう人(笑)という、大学教員あるあるの世界。

大まかな方針は (3) の人に頼んで決定してもらい、研究の実務的なことは (2) の人に聞き、出張の時の交通や宿泊については (1) の人にお世話になる、みたいな感じで、目的別に人脈を使い分けている。

■時差というハンディ
もうひとつ、今週は日月と家にこもって、別件の本の編集の最後の詰めをやっていた。これは、昨年からずっと抱えていた重要な案件で、アビジャンに来ても少しずつこの仕事をやっていた。アフリカの子どもたちに関する論集である。

アビジャン暮らしの最中はもとより、ガーナへの出張先にも作業を持参して、すきま時間に細々とやっていたのだが、アビジャンに戻って最後の詰めをこの2日間で行い、日本の出版社に送付した。ああ、大きな課題が片付いて、すっと楽になった。

出版の細かい詰めの作業のために、日本のみなさんとの間でメールが飛び交うが、日本との間に時差があるため、意思決定のプロセスに微妙な影響を及ぼす。日本の人たちがだいたい意見を出しつくして、方針が定まった頃に、9時間遅れで私が議論に参加して、最後に「OK」だけ言う、みたいな。

かつて、アメリカ人類学会の分科会の打ち合わせをアメリカ在住の人たちとした時も、似たような感覚を覚えたことがある。ほとんど方針が決まった頃に、日本の私が起きてきて、了承するだけ、という流れ。ウェブで世界はせまくなったが、最後のバリアはこの時差のハンディかもしれない。地球が丸く、人間が昼間に行動する生き物である以上、こればかりは修正しようがない。

あー。そうこうするうちに、また日本からゲラが届いた。別件の校正の〆切である。おかしいな、日本の仕事はバッサリと断ってきたつもりなのに、切れ目なく指示がやって来る。いただいたご縁は大切に、でもほどほどにしておきたいとも思う。

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■大使公邸にお呼ばれ
今週をしめくくるひとつのイベントは、金曜日の夕方に、川村裕・駐コートジボワール日本大使の公邸に食事に呼んでいただいたことであった。

大使公邸へのお招きにあずかるのは、今回が3回目である。

1回目は、1997年頃、カメルーンのヤウンデにて。確か、和崎春日日本女子大学教員と市川光雄京都大学教員(いずれも当時)のおふたりが公邸に招かれた際に、現地滞在している関係する大学院生として、おともする機会をいただいた。主賓は教員たちであり、私はただの無為徒食の学生であった。

2回目は、2014年8月、ブルキナファソのワガドゥグにて。アフリカ研究仲間の清水貴夫さん(総合地球環境学研究所、当時)と2人で、アフリカ子ども学の講演会を大使館で開催し、その後に二石昌人大使にランチにご招待いただいた。

そして、今回が3回目。主賓としてピンで呼ばれたのは(正確には私たち夫婦のみで呼ばれたのは)、今回が初めてであった。

ココディの大使公邸。2011年のコートジボワール危機の際、当時の岡村善文大使がバボ派の傭兵部隊に急襲され、フランス軍によって救出された映像が世界中に配信された、あの事件の現場となった公邸である。

#参考ブログはこちら。岡村善文「エピローグ (1)」『コートジボワール日誌』(2012年4月6日)

川村大使は、20年ほど前にもアビジャンに勤務された経験がおありだとのことで、長いスパンでの西アフリカのお話をいろいろとうかがった。アビジャンがまだ小規模な都市で、ココディやヨプゴンも含めて林や原っぱが広がっていた時代のお話は、家いえが立ち並び渋滞と人ごみでうんざりしている私たちにとって、新鮮なことであった。また、1999年に始まる内戦の12年間で協力隊などの国際協力事業も民間企業も撤退し、日本人コミュニティも消失して、さまざまなことが中断、頓挫したという話は、戦争がもたらした影響の甚大さを感じさせた(いまは在留者120-130人ほどまで増えてきているという)。

その他、大使館職員の方がたもまじえて、研究の話、治安情勢の話、最近の政局、大学間交流の話、日本研究振興の話から、京都の百万遍界隈のせまい話まで、いろいろとお話ができたのは有益であったし、日本とアフリカと世界の手話とろう者のことをいろいろと知っていただけたのも幸いだった。なお、この会話のなかで、現在アビジャンには日本食レストランが3軒あるということを知った。いずれも日本から来たシェフはおらず、フィリピン、韓国、レバノンなどから来た人たちが経営、調理していると聞く。

会食中、私が手話通訳を兼ねていると、どうしても食事の手がおろそかになる。みんながすでに食べ終わって、私だけ皿に手を付けていない、という光景が何度かあった。コースなので、ひとりだけ食べていないと、全員が次を待たねばならない。そんな時、大使夫人がさっと紙とペンを取り出し、うちのつれあいとサクサクと筆談をして、話を進めてくれた。手が空いた隙に、私もそそくさとご飯を食べる。そういうちょっとした配慮が、会話をずいぶんと円滑にしてくれた。言語や慣習の違う人たちとの付き合いに慣れている方は、そういうことが自然とできるんだなあと感じさせられた。

研究者の層が比較的薄い、西アフリカ。コートジボワールの治安が改善して、大学間交流や研究者・学生たちの学術交流がいっそう進みますように、という思いを共有して、おいとました。

今週は、そんなこんなで、学会の後片付けと、原稿仕事を2件こなして、終わりゆく。仕事ははかどったが、アビジャンでのチームワークの温め直しはちょっとペンディングという感じ。長期で滞在していると、(ま、来週でいいか…)みたいに緊張感がなくなってよくないですね。来週は、引き締め直して、ここアビジャンでしかできない作業に時間を振り向けたいと思う。来週は、スイスセンターでのお呼ばれ講演会もある。むりせず、ぼちぼちとやります。

日本はそろそろお盆休みかもしれませんね。大学からの諸連絡メールがパタッと止まったので、遠くにいながらも日本の人たちが休暇に入ったことが感じられます。

Bon week-end ! そして、Bonnes vacances !


2017年8月5日 (土)

■ガーナ・ウィネバ日記: 西アフリカ言語会議での全体講演/初めての陸路での国境越え

今週は、コートジボワールの東隣、ガーナ共和国のウィネバ教育大学で開かれた、西アフリカ言語会議に参加するために、ガーナを訪れた。うん。いい経験でした。書きたいことはいろいろありますが、おもには学会講演の話題を。

■西アフリカ言語会議
西アフリカ言語会議とは、西アフリカ言語学会主催で、隔年で開催される言語学の国際会議である。

2011年・アビジャン(コートジボワール)、2013年・イバダン(ナイジェリア)、2015年・アボメカラビ(ベナン)、2017年・ウィネバ(ガーナ)と、おおむね英語圏とフランス語圏で交互に開催される慣行があると聞く。ちなみに、次回は2019年、再びアビジャン(コートジボワール)で開催される予定である。

今回、アビジャンの大学に所属するなかで、ちょうど滞在中に近隣のガーナでそれが開催されることを知り、よかったら参加・発表しませんかと教授に誘われた。その人は、この学会の会長を務める人でもあった。しかも、西アフリカの広域的な手話言語調査をしている私の研究は、諸国から集まる参加者たちの啓発にいいから、全体講演にしよう、とも提案してくれた。

アビジャン滞在中に偶然知った国際会議の開催、そして、名誉ある全体講演の機会の提案。ビザ取得や交通・宿泊の確保、そして日本の大学に対する研究計画変更の届け出と予算の再計算など、いろいろと面倒もあったけれど、その得がたい機会を活かすために準備を重ねてきた。そして、ガーナにやってきた。

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■国際会議での全体講演
会議は、ガーナのウィネバ教育大学で開かれた。色とりどりの服をまとった西アフリカ中の言語学者たちが、会場に参集。しかし、開会式は40分ほど遅れて始まった。

私の出番は、初日の開会式およびフランスからのゲストによる基調講演に続く、全体講演であった。会期中、最も多くの人たちが参加する晴れ舞台である。約200人もの聴衆が集まる大会議場で、先週アビジャンで仕立てたばかりの緑と白のアフリカの服をまとって、登壇した。

タイトルは、「西アフリカの統合と発展のための手話言語とその研究の役割: 英語圏/フランス語圏アフリカの諸事例」。

これは、今大会の全体テーマ「西アフリカの統合と発展における言語の役割」に引き付けて、コンセプトを練ったものである。また、アンドリュー・J・フォスターというアフリカ系アメリカ人ろう者牧師の国際的な教育事業(関連書籍)をルーツとし、今もなお広域的な手話言語と歴史観を共有している、西アフリカ諸国のろう者コミュニティに対する、ひとつのオマージュ(賛辞)でもある。西アフリカのろう者コミュニティの統合と発展を、共通の言語と文化に根差して、共に議論し、見据えていきたいというのが、私の研究の大きなコンセプトである。

今回、愛知県立大学はもとより、コートジボワールのフェリックス・ウフェ=ボワニ大学所属の客員教授という肩書きとともに登壇できたことは、お世話になっている大学や先生がたに対する恩返しができたような気もして、晴れがましい経験であった。

なお、今回の大会は手話通訳のない聴者たちの会議であったため、講演は音声英語で行った。このことについては、後でくわしく記したい。

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■講演のなかで配慮したこと
講演は、私の20年におよぶ西アフリカ・中部アフリカの9か国におけるろう者コミュニティと手話言語の調査のダイジェスト版のような内容である。

今回の講演で、とりわけ気を配って準備した点が、三点ある。

一点目。西アフリカ諸国の事情を、正確に調べ直して準備し、紹介したこと。なにしろ、「アフリカ」と言えば済んでしまうような日本での講演とは違って、当該の国ぐに出身の研究者たちが集結して、私の話に一心に耳を傾けるのである。事実誤認のようなへまをするわけにはいかない。たとえば、歴史上のある戦争に言及するにしても、年代をもう一度調べ直すなど、細部の準備にかなりの時間を割いた。

二点目。今回の講演では、西・中部アフリカの13の国ぐに(フォスターらによる教育事業が展開されたすべての国ぐに)を、スライド1枚ずつで網羅した。これは、多国籍で構成される聴衆のみなさんへのサービスでもある。だれしも、自分の出身の国が言及されると、その発表の関係者になったような気がして、うれしいものだろう。

三点目。「フランス語圏びいきの話はしない」ということ。これまで、私はおもにフランス語圏諸国と深い関わりをもってきた。フランス語圏で講演する時は、「英語圏の方では研究が盛んですが、フランス語圏アフリカはなかなか注目されませんよね」といった軽やかな「マイノリティ感情」を共有しながら、フランス語圏での研究奨励を訴えて理解を求めたりすることもある。しかし、今回の会議の中心は、英語圏であるナイジェリアとガーナである。英語圏の人たちを敵に回す必要はまったくない。つとめてニュートラルに。タイトルに、英語圏/フランス語圏と併記したのも、そういう意図があった。おかげで、会議の多数派を占めるナイジェリアの研究者たちも、「フランス語圏の話題=よそ事」とは思わずに、喜んで議論に参加してくれた。

■質問と反応
60分のもち時間のうち、50分で講演は終了。いちおう、笑いも取ったし、納得の表情も、何度かの拍手も受けることができた。

質疑の時間。質問が殺到して、時間が足りないほどであった。

・統語論の側面でのフランス語圏アフリカ手話(LSAF)の多様性について
・ナイジェリアのビアフラ戦争がろう教育に与えた影響について
・アフリカのろう者の識字率と思考様式について
・聴者とろう者がともに参加する教会と、ろう者のみによって営まれる教会について(コメント)
・アフリカの音声言語文化(擬音語や擬態語)が手話に与える影響について

それぞれ、手短かにお答えした。時間切れで講演は終了。後は、フロアに残ったみなさんに囲まれて、しばらく解放されなかった。たとえば、こんな話題が相次いだ。いただいた多くの質問、コメントに感謝して、記念にここに掲載しておく。

・視覚障害をもつろう者はどうやって話すのか。
・手話における文法と言うが、それは一体何なのか。定冠詞と不定冠詞、時制はどう表現するのか。
・一部に導入されたフランス手話の影響はどうなっているか。
・私の息子はろう者だ。家庭のハウサ語を覚えず、学校で英語のみ習得しているが、それについてどう思うか。
・ぜひうちの学生のための/知人の研究者のためのアドバイスが欲しい。
・アフリカのろう者のために何ができるか。
・手話を学びたい。ウェブなどで手話を学ぶ教材はあるか。
・これだけの調査を重ねるのは、さぞかし苦労も多かっただろう。
・アフリカ諸国の手話のバリエーションを、すべて習得して、インタビューをしたのか!
・あなたの発表はよく練られていて、まとまっていて、写真や情報が多く、たいへんよく分かった。
・私はナイジェリア言語学会の会長を務めている。今年の学会の年次大会に招待したい。ただし、予算はない。

単に、日本という遠方から来た珍しい客、というだけでなく、文字通り中身で評価されたことは、うれしかった。英語力ではアフリカのみなさんにかなわないから、せめてデータ重視!で、写真と地図とグラフと模式図と数字をふんだんに盛り込んだ。その作戦は当たったようである。また、ナイジェリアの学会に招待したいという申し出は、本当にうれしかった(時間と予算の都合などと相談する必要があるけれども)。

手話とろう者に関する一般的な疑問質問は、聴者あるあるの反応ですね。また、アフリカのために何かをしてほしい/手話を学びたいといった要望については、「あなたの地元の事情を詳しく知らない私よりも、まずはあなたがたの身近なろう者コミュニティとの協力関係を築くことをお勧めしたい」という決まり文句で答え続けた。だって、それ以外に方法はないでしょう。

「私も少し手話を学んだことがあります」と、手話をまじえて声をかけてきた人が3人いた。手話の素養のある仲間がいて、うれしい出会いだった(ナイジェリアの女性研究者2人、ガーナの男性研究者1人)。

「私には、ろう者の息子がおります」と語りかけてきたのは、ナイジェリアの父親、ガーナの父親。これだけの聴衆がいると、そういう関わりをもつ人たちがおのずと含まれるのだなあと実感した。

初日の昼に私は大きな役割を終えて、解放された。残りの3日半は、悠々と発表を見て回る。初日全体講演者の役得とは、一気に自分の研究テーマを周知できて、後のあいさつや会話に苦労しないこと。4日間にわたる会期中、続々と声をかけてくれる人がいて、人脈が大いに広がった。本当によい機会だった。

■全体講演を終えて
今の心境を、ふたつのことばに託して表現してみたい。

まずは、「石の上にも三年」。超マイナーなことであっても、しつこくやることで叶うことはある。ただし、営業は大事。このテーマがいかに重要で、アフリカと人間の言語一般の認識を塗り替える可能性があって、かつ、いかにだれも取り組んでこなかったか、ということを、くどいほど人びとに訴え続ける必要がある。

今回の学会講演も、座して待っていたらチャンスは訪れなかった。コートジボワール滞在中に、所属大学の教員たちに重要さを説き、名刺と英語論文をたずさえてあいさつ回りをした。さらに最後に一押し、多忙な学会幹部のみなさんがこのことを忘れてしまわないよう、軽めの催促を仕掛けもした。それがもたらしたご縁である。

そして、「鶏口牛後」。たとえば、このテーマでアメリカのとある学会に要旨を送って、リジェクトされたことがある。それはそれで残念であったものの、もし採択されたとしても、無数のひしめき合う研究者群の中のいち泡沫発表となり、その会場にいる20-30人くらいの間で珍しい話題として消費されて終わることだろう。一方、アフリカの学会や大学では、会長や所長が直々に提案してくれて、学会全体講演や特別講演会などの名誉ある機会をくれる。文字通り、参加者の桁が違うのである。

マイナーなところで「お山の大将」になって満足してはならないという自戒を伴いつつも。私は、自分のアフリカ研究がアフリカの人たちに必要とされ、歓迎されるこの事態を、素直に喜んでいる。そのご縁に感謝し、期待にこれからも応え続けたい。そうやって応答し続け、アフリカの学術界で足場を固めることが、やがては欧米の学界に影響をもたらすことにもなるであろうし、長い目で見て「アフリカ研究の本場を欧米からアフリカへと戻していく」という世紀的なプロジェクトに寄与することにもなるに違いない。

#このことは、「これまでアフリカ各地のろう者たちと手話による講演会を地道に重ねてきた結果、聴者の大学教員・研究者たちの目に止まり、学会講演という大きな役目につながった」というのと、構造的にはよく似ている。

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■学会に対して注文もした
今回、手話通訳がない、ろう者の参加がない、聞こえる研究者たちの会議で、手話に関する話題を提供することは、ろう者を置き去りにしてしまったようないくばくかのやましさを伴う行為であった。

この学会では、過去にろう者が参加した例はなく、手話通訳を用意した経験もないと言う。手話言語に関する発表は、過去に何例かあったそうだが、いずれも聴者による発表であった(発表後に論文が査読を経て論集に掲載された例はなく、文献としても蓄積されていない)。手話言語のテーマが全体講演になったのは、学会としては今回が初めての試みであった。手話言語についての啓発のためには、参加者全員が聞く全体講演がいいだろう、という会長の推薦であった。

そういうチャンスを提供してもらった以上、これからのろう者の参加について、何らかの責務を帯びた立場にあるのだろうと私は自分で判断した。こういう会議では、私は将来に向けて提言をしてくることを自分に課している。この学会も「テーマとして」手話言語を含めていくべきこと、そして、「発表者/参加者として」ろう者の参加を受け入れていくべきことの二つである。

そのための具体的な手段として、会議に手話通訳を配置すること、長期的にろう者の高等教育と研究を奨励する取り組みを行うこと、手話通訳者の育成と学術的なレベルの研修に取り組むべきこと、こうした実践的な提案を、今回の講演のまとめとした。私の役目は、今後ろう者たちが本格的にこの業界に参画していくための「露払い」なのだろうと思っている。

2年後の次回大会は、コートジボワールのアビジャンで開かれる。私が多くの大学人脈をもち、客員としていま滞在していて、ろう者の仲間たちとともに手話研究を振興してきた、その都市で、第31回西アフリカ言語会議が開かれる(2019年8月頃)。

「次回の大会から、本学会でも、手話言語分科会を設置しませんか?」

私は、今回の会期中に、会長、事務局長などと、そういう会話をかわし始めた。

うまく行くかどうか、分からない。また、アフリカで主催、開催される学会に対して、アフリカ域外の研究者が何かを主導するような姿勢は避けたいという遠慮の気持ちもある。何より、西アフリカのろう者たちの積極的な意欲と提言が重要である。そういう立場をわきまえつつも。それでも、状況が少しでもオープンになっていくことを期待して、せめて「公言し始め、側面的な協力者として、状況を温め始める」くらいのことは、このアビジャン滞在中にできるのではないか。

私の数少ない経験から思うことは、人間関係や常識のしがらみの中にある現場の当事者よりも、むしろ、飛び入りの客人の方が、そういう普遍的な理想を述べて、状況を変えるような「突飛なこと」を言いやすいことがある。状況は変わるかな。選択肢を増やすための種を、少しずつまき始めている。

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■西アフリカ、ナイジェリア、そしてフランス語圏
今回の学会参加者の中では、ナイジェリアの研究者が多数派を占めていた。西アフリカ全域から見れば、面積はさほど大きくはないものの、人口でも経済でも英語での発信力を見ても、他の諸国を圧倒する存在感を見せている。学界でも、その状況は同様であるらしかった。おかげで、ナイジェリア言語学会の会長という要人を含めて、ナイジェリアの大学教員の友だちが一気に増えた。

西アフリカで、よくある会話。一般的に、西アフリカは、英語圏の東アフリカや南部アフリカと比べて、研究の蓄積や情報発信力で後れをとっている、という自己認識がある。「アフリカ」全体で学会をやると、どうしても東アフリカや南部アフリカが中心になる、という見方が生じる。

では、「西アフリカ」だけで集まって学会をやったらどうなるかというと、その中の英語圏であるナイジェリアが主導権を握りがちで、フランス語圏の人たちはどうかすると隅に置かれがちである。面積や国の数では圧倒しているフランス語圏の人たちが、なぜか少し肩身の狭い思いをするのである。

たとえば、大会の公用語は英仏併用ということにはなっていたが、事実上は、英語が支配的であった。フランス語による発表は、全発表286件のうち21件(約7%)と少数派である(プログラムによる算出、当日キャンセル分は反映していない)。しかも、その多くは「フランス語分科会」というふうに一部屋に固められて、フランス語圏の研究者たちのみの集まりとなっていた。アビジャンからバスでやって来た大学院生たち数人が、学会の中でいつも固まって行動している様子が、少し痛々しく見えた。

うーん。言語で分断することは本意ではないものの。やはり、「西アフリカ」という枠組みだけでなく、「フランス語圏西アフリカ」という枠組みで何かを実施する、その中でフランス語で快活に活動する自由を守るという選択肢も、それなりに意味があるのだろうなあ、と思わされた。

#そうすると、今度はポルトガル語圏のギニアビサウ、カーボヴェルデ、サントメ・プリンシペ、スペイン語圏の赤道ギニアなどは、さらなるマイノリティということになるのだろう。これは、どこまでも続く階層的な構造であるとも言える。

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■アフリカで主催、開催される学会へ行こう
アフリカ域内の多様性にまつわる、微妙な力関係を感じつつも。それでも、アフリカで主催、開催される学会に参加したのは、自分にとって本当によい経験だった。見聞が一気に広がった。

日本のアフリカ研究者は、日本国内の学会、そして欧米で開催される国際学会などに参加することが多いだろう。しかし、前者は日本語圏で閉じてしまいがちである。後者は多少開かれているとは言え、経済的な理由、そしてビザの要件などで、参加できるアフリカ出身者は限られる。

先月に私も参加した、欧州アフリカ学会。もちろん多くのアフリカからの参加者を得て行われていたが、それとて、アフリカ全体の研究者の層を考えた場合、スイスまで出張に行ける人はほんの一握り、氷山の一角に過ぎないのである。

今回は、近隣諸国の大学院生たちもバスを仕立ててやってきて、発表や議論に挑むというふうに、実に裾野の広い人脈と情報が集まる場となっていた。こういう若手の形成途上の研究も含めて、アフリカで広く着実に行われている学術の営みを目の当たりにすることは、アフリカ研究者としてとても有益であり、勇気づけられることでもあった。本当の学術上の仲間、そして成果を競い合うライバルは、欧米ではなく、ここアフリカにある、とすら感じさせられた。

アフリカを「研究対象としてのみ」扱うのであれば、日本だけ、欧米だけで発表して、評価を得たらよいのかもしれない。しかし、本当の意味での「研究のパートナーとして」アフリカと出会い、付き合い続けるためには? 私たちが、アフリカで主催、開催される学会へ自ら出向き、参加の機会を請うといった姿勢をもつこともまた大切なのではないか。そんなことを考えるよい機会となった。

#ここでも、聴者の研究者は、ろう者と手話を「研究対象としてのみ」扱うのか、「研究のパートナーとして」付き合い続けるのか、という問題と、構造的によく似た課題を見出すことができる。

#この学会参加の報告記事を、日本アフリカ学会の雑誌『アフリカ研究』に投稿する予定です。この日記は私的な視点による速報なので、公式の参加記録は、そちらが刊行されたらご覧ください。

[20170809追記] この報告を書き上げて、学会への投稿を済ませました。

■陸路で国境を越える:コートジボワールからガーナへ/その逆
今回の旅行で、初めて陸路でアフリカの国境を越えた。たかがイギリスとフランスが引いた植民地境界であったとはいえ、それから1世紀も経ち、しかも独立後の国境になって半世紀も経てば、それなりに意味のある境界線になってくるというものである。

越境の一連の手続きとできごとについて、データとしてまとめておく。もちろんいつも書くように、これは個人のいち経験であって普遍性はない。また、この記述に起因するすべてのことについて責任をもつことはできない。あくまでも、参考として。

===
■コートジボワールからガーナへ(往路:2017年7月30日)
交通手段:STC(バス、アビジャンからアクラへの国際便)
国境通行料:5,000F(バス会社がチケット代金とともに事前徴収)

□出国手続きを行う施設の手前でバスが停車。全員に降車が指示される。

□コートジボワール側の出国手続き:
入管→検疫の順で手続き。
手続き順のコースができていて、それに従って進むだけでよく、分かりやすい。
検疫では、「黄熱の予防接種証明のみでは足りない。空路とは異なり、陸路では髄膜炎の予防接種証明も必要である」と求められた(追記1)。

(この間、数分のみバスに乗って移動)

□ガーナ側の入国手続き:
検疫→入管の順で手続き。
手続きのための降車前に、入管職員がバス内でパスポートを先に回収。
また、バス降車前に、検疫官が非接触タイプの体温計で全員の検温を実施。検疫のカードを記入、提出。黄熱証明を提示。
入管のカードを記入、提出。写真撮影。入国日からのビザの有効日数を手書きで書き添えたスタンプを押印(追記2)。
2種類のカードの受領、記入、提出の手続きのために行きつ戻りつする必要があり、やや分かりにくい。

□乗客全員が入国手続きを行い終えて乗車したことを確認して、出発。

===
□越境のための所要時間:1時間33分
うち、コートジボワール側出国手続き:31分
うち、両施設の間のバス移動:4分
うち、ガーナ側入国手続き:58分(カード2枚への記入、ビザへの追記作業などのため、時間がかかる)

===
□関連すること:
・両施設の周辺には、フランセーファとセディの間の両替屋や、携帯電話の SIM カード、プリペイドカードを売る商人などが多数いて、声をかけてくる(追記3)。
・昼ご飯に、ヤムイモのフライやチキンを売っている人もいる。フランとセディのどちらでも買い物ができると言う。
・どちらの施設の付近にも、トイレがある(有料、フランまたはセディの小銭が必要)。

===
□追記:
(追記1)髄膜炎の注射は受けていたが、その証明書がよもや出入国で必要だとは思わず、アビジャンに置いてきてしまった。私たちだけ別室に入れられて質問を受けるという事態になった。このため、つい先日私たちはアビジャンで受けてきた、受けた場所は Treichville の INHP、大学病院のすぐ隣で、ロータリーから右にこう入ったところにあるでしょう、と、アビジャンで注射を受けた時の経験をとにかく問わず語りでまくしたてた。検疫官が笑い出して、もういいから通りなさい、と通過を許された。私たちの立ち去り際に、「この人、妙に予防接種の場所について詳しいよ(笑)」などと検疫官たちが話のネタにするほど、私の語りには信憑性があったらしい。

髄膜炎の予防接種の要求に、法的/制度的な根拠があるのかどうかは、未確認。ただ、予防接種の料金表が掲示されていて、Méningite(髄膜炎)と確かに書かれていた。それを指しながら主張する検疫官の語りには、妙に信憑性があるように感じられた。一方、単に小遣いねらいの要求ではないか、という見方も存在する(コートジボワールのある人の解釈による)。

[20170812追記] 在コートジボワール日本大使館による情報。ブルキナファソから陸路でコートジボワールに入ろうとした旅行者が、国境で髄膜炎の予防接種証明を求められたケースが過去にあったという。制度的根拠はいまだ明らかでないものの、そのようなケースは初めてではないと知った。空港でそれを求められたケースは聞かないが、とりあえずは「陸路でコートジボワールの出入国をしようとする時は、黄熱と髄膜炎のふたつの証明書を持参する」のが適切な対策であろう、というのが今の結論。黄熱のみ接種して空路でアビジャンに入り、アビジャンの INHP で髄膜炎を打ってから近隣諸国にバスで出発、という流れもいいかもしれない。

(追記2)アビジャンのガーナ大使館でビザをもらったときは、本当に入国できるのかと少し不安も感じたが(関連日記)、行ってみたら何のことはない、あっさりとスタンプが押された。しかも、予定の30日間ではなく、入国日から60日間有効の追記をもらうことができた。

【スタンプおよび手書きによる表記】
Disembarked Jul 30 2017
Valid for 60 days

(追記3)ここで携帯 SIM、プリペイドカードを買った(フランで買えた)。ガーナ入国後にバスの中で新しい SIM カードの設定をして、よい時間つぶしになった。ただ、ここでフランからセディへの両替はしなかった。両替屋が札束をビラビラと見せながら群がってくるのに胡散臭さを感じて、思わず拒否してしまったのである。ところが、目的地のウィネバに日没後に到着して、なかなか両替ができず、ホテルでも外貨を拒まれ、少額でもいいから国境で替えておけばよかったと後悔した。

===
■ガーナからコートジボワールへ(復路:2017年8月5日)
交通手段:小型乗り合いバス(ウィネバからアビジャンの間に4台のバスを乗り継いだ)
国境通行料:無料(大学の公務で派遣されたグループの一員として越境したため、免除となった。通常は7,000Fかかるとの情報がある)

□出国手続きを行う施設の手前でバスが停車。全員降車。

□ガーナ側の出国手続き:
検疫→入管の順で手続き。
検疫官に黄熱証明を提示。
入管のカードを記入、提出。写真撮影。
カードの受領、記入、提出の手続きのために行きつ戻りつする必要があり、やや分かりにくい。

(この間、バスに乗って渋滞待機。国境の橋を含む道路が非常に細く、混み合っていて、1時間ほども待つはめになった)

□コートジボワール側の入国手続き:
検疫→入管の順で手続き。
手続き順のコースができていて、それに従って進むだけでよく、分かりやすい。
検疫では、黄熱証明をちらりと見ただけで通過を許された。往路とまったく違う対応であった(もちろん、よかった)。

乗客全員が入国手続きを行い終えて乗車したことを確認して、出発。

===
□越境のための所要時間:1時間52分
うち、ガーナ側出国手続き:30分
うち、両施設の間のバス移動:1時間5分(高々600mほどの短い距離だが、今回は渋滞のため足止めをくってしまった)
うち、コートジボワール側入国手続き:17分

===

■陸路での国境越え、雑感
以下は雑感。

予防注射については、黄熱だけでよいと思わず、手持ちの予防接種証明をすべて持って行った方が無難であるかもしれない。その必要性や根拠については未確認だが、法的/制度的根拠がなくても要求されることがありうるため。

両国を比較すると、コートジボワール側はわりとシステマティックに出入国者をさばくのに対し、ガーナ側は手作業でカードの記入、提出をする、窓口がいくつもあって行き来する、窓口に申請者が殺到して混み合うなど、施設の構造と手続きの仕組みが洗練されていないような印象を受けた。

ガーナ側は、出入国のいずれでも、手書きでカードを記入することが必要であり、時間がかかる。また、ガーナ側/コートジボワール側の両方の住所や電話番号などを書く必要もあって、そういう情報がすぐ出せるように書類を持っていた方が、手続きは早くできる。

ガーナのカードは、すべて英語の大文字で記入する必要がある。書き直しまでは求められなかったものの、入管職員にそのことで注意を受けたので、始めからそれで書いておいた方が安全だと思う。

陸路での越境は、おー、アフリカ植民地分割のときにここの川で英仏がラインを引いたのか、みたいな歴史を思い起こさせたり、そこで明確に言語が切り替わったり(英語/フランス語)、いろんな意味で、空路での出入国とは違ったおもしろさを感じることができた。

■拒否されたガーナの旧セディ
今回の旅行で、最大のピンチといえば、「旧ガーナセディが使えなかったこと」。

前回のガーナ滞在は、2006年(その頃の日記)。当時のガーナの通貨セディの余りが、長らく引き出しに眠っていた。今回、換金する可能性も考えて持参してみたところ、ガーナ行きが決まったため、これでようやく使い切るチャンスだと思った。

実は、その間にガーナではデノミが実施されて、10,000旧セディ=1新セディという切り替えが行われていた(2007年)。ウェブ情報では、新旧両方のセディが使えるような記述もあったので、まあ何とかなるだろうと高をくくって、旧セディのみを持参してバスに乗った。国境で群がってくる両替屋もすべて断って、目的地のウィネバに着いた。

日没後の地方都市。暗闇のなか、荷物を引きずりながらホテルを探して歩いたが、地図がどうやら不正確で、ホテルの場所を突き止めることができない。タクシーに頼ろうとしたところ、運転手はいずれも拒否。「こんな金は使わないぞ」「どこで手に入れたんだ」とけんもほろろ。

数台のタクシーに続けて拒まれ、途方に暮れた私たちは、ガソリンスタンドに入ってスタッフに尋ねた。「おー、こんなお金あったな」「これはおじいちゃんの時代のお金よねー」などと大笑い(注:10年前の切り替えなので、「おじいちゃんの時代」は大げさである)。

ようやくたどり着いたホテルのフロントでも、「旧セディはもう使えません。うちでは外貨も受け付けていないから、明日、銀行で外貨を新セディに替えてきてください」というばかり。旧セディは、まったく使えなかった。

翌朝、最寄の銀行をホテルスタッフに教えてもらって、両替に向かった。銀行に行くための移動すら、タクシーに乗れないのだから、てくてくと徒歩で向かうしかない。小一時間歩いて、大学キャンパス内の銀行に着き、「うちの銀行の顧客じゃないんですか?」「ネットがダウンしていていまは業務停止中です」などといろいろ言われながらも、なんとか懇願して、手持ちの英国ポンドを新セディに替えてもらうことができた。

ホッと一安心しながら、参考までに聞いてみた。あのー、旧セディの両替は?

「うちの銀行ではもう扱いません。首都のアクラに行って、ガーナ銀行で替えてくるしかないです」

銀行員たちも、10年前に廃止された旧紙幣を珍しげに眺め、わざわざ同僚を呼んで見せ、笑った。そして衝撃だったのは次の会話。

A「旧セディって、今のセディでいうといくらになるの? 10,000セディが1セディになったんだっけ?」
B「いや、1,000セディだろ」
C「そうそう、1,000だよ」

通貨のプロたちも、なんと交換レートすら覚えていないのであった(正しくは、10,000旧セディが1新セディになった)。こりゃあむりだと、私たちはここで完全にあきらめた。

アクラに行って中央銀行で替える手はあるのかもしれないが、そのために使う交通費と時間のムダを考えて、もうやめた。旧紙幣でもいい国際機関などがあったら、どこかに寄付してもいいかも、というくらいに考えている。

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■ガーナでの気分転換
アビジャンが「日常の雑務もろもろの町」に思われ始めている私にとって、ガーナ出張はとてもよい気分転換になった。

英語の教員であるうちのつれあいにとっても、いつもフランス語ばかりのアビジャンを出て、英語環境に飛び込んだのは、よいリフレッシュになったようである。町の看板がすべて英語になるのも、お店のスタッフが英語で筆談に応じてくれるのも、気分的にずいぶん楽であったようだ。大学の書店は、小規模ながらも英語の本を揃えていたので、一緒に訪ねたりもした。

学会のための公務出張であり、プログラムもタイトだったため、ガーナにのんびりと滞在することはなかったが。それでも、ウィネバの海沿いの旧市街まで行って、浜辺で漁労にたずさわる人たちの風景を眺めることもできた。

ジョロフという真っ赤なごはん、ヤムイモを揚げた主食も楽しめた。コートジボワールとガーナの間の道中、見渡すかぎり整然と植えられたアブラヤシの林の景観も、この地域の気候と産品を象徴するようで、いい写真がいくつか撮れた。

アビジャン生活に少ーし飽きてきた頃合いでの、陸路でのガーナ旅行。そういう意味でも、有意義な出張だった。4月にお会いした教授のお誘いにのって、講演内容も手続きもまじめに準備して、本当によかったと思う。

土曜日の晩に、バスを乗り継いで、アビジャンに到着。自宅に帰ってきた。来週は、学会の後片付けをし、旅行中にできなかったいくつかのたまった仕事を片付けつつ、アビジャンのいつものろう者チームとの仕事を再開させます。残り2か月を有意義に。

では、また来週。Bon week-end !



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