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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2019年1月

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最終更新: 2019年1月21日

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■『愛知県立大学学報』に在外研究の成果の記事掲載 (2019/01/21)
■「1月7日」という記号の残像 (2019/01/07)
■青空文庫と日本展 (2019/01/05)
■「平成最後の…」の連呼のなかで (2019/01/03)
■2019年、今年やると思うことなど (2019/01/01)


2019年1月21日 (月)

■『愛知県立大学学報』に在外研究の成果の記事掲載

愛知県立大学学報3
勤務先の愛知県立大学の広報誌『学報』に、昨年1年間の在外研究の成果をまとめた記事が載りました。

写真は、2017年8月、ガーナ共和国ウィネバのウィネバ教育大学で開かれた、西アフリカ言語学会議での研究者仲間たちとの交流のひとこま。この学会で、初日開会式に続く全体講演の講師を務めたのが、昨年度のハイライトのひとつだった。その経験を思い出す、懐かしい写真である(関連日記)。

一緒に写っているのは、西アフリカ言語学会の会長(左から2人目、コートジボワール人)と事務局長(左から4人目、ナイジェリア人)、そして左から3人目の人は、同じくナイジェリアの言語学の大学教員で、ナイジェリア手話のうまい方だった。アフリカの大学に、手話のうまい言語学者がいるのだ。そういう共通点を見出しただけで、十分に心強い気がした。

帰国後の2018年8月に、学内で研究成果の報告会があった。私の発表を聞いてくれた学長が、この研究はぜひ広報に取り上げようと即決で推薦、今回の記事の掲載となった。

記事と同じページで、本学が2015年度から開講している「日本手話」の授業の取り組みや、国際関係学科「旅の写真展」の話題も短く載せてもらうことができた。

着任してそろそろ8年。学生たちとともに、特色ある大学づくりに多少なりとも貢献しています。そういう達成となりました。

[『学報』のページ]
[記事掲載ページ]


2019年1月7日 (月)

■「1月7日」という記号の残像

SNSで、「1月7日。あの日の私は…」といった趣旨の、やや感傷的なことばが流れてきた。

「1月7日」。うん…、確かにそんな日付の記憶があるものの。はて、何だったかな…と記憶の検索をする。

大震災ではないし、戦争関係でもないし。やがて、「シャルリ・エブド襲撃から4年」という記事が流れてきて、ああ、そういえば新年早々のできごとだったなとその記事を読み。

何か違和感を感じて、さらにしばらくことばの流れを見ていて、ようやく気が付いた。1989年、昭和天皇裕仁氏が死去した日であった。あれから30年。そうか、シャルリ・エブドと同じ日だったか(26年間の差はあるものの)。

「1月7日」というのは、それ自体がひとつの記号として、記憶の中に沈んでいる。しかし、その中身は限りなく記憶の外へと追いやられていた。

その日付が単体で記号として目に焼き付き、また耳に残ったのも、ゆえないことではない。たとえば昭和最後の年は7日間しかなかったとか、その日に新元号「平成」が発表されたとか、ことあるごとにその日付が連呼された。しばらくテレビが真っ暗な色彩に覆われた。正月休みの最後に当たるために経済や社会への影響が限りなく少なく済んだのは偶然だろうか、という説を唱える人たちもいた。その一連のできごとを重要だと思う人たちも、また批判する人たちも、「1月7日」という記号に依存して持論を展開した。そして、残像としておぼろげに記憶に留まる空虚な記号、それが「1月7日」。

「5月1日」も、やがて何らかの記号になっていくのだろうか。今回は物故を伴わないがゆえに、祝祭一辺倒の日として記憶されていくのだろう。あやかり/駆け込み商戦、「最後」と「最初」の大合唱、ことによると、最後に生まれた/最初に生まれたなどという報道も現れるのかもしれない。

時代がことばを生むのではない、こういったことばの集積が時代を生むのだ、ということを観察する、よい機会になるだろう。だれも強制しない、自発的な、大きな物語創作への参加の諸現象。

いずれにせよ、中身を忘れてしまうほどの記号であってよい、と思う。それを共有しない人たちがいることもまた、十分にありうることなのだから。


2019年1月5日 (土)

■青空文庫と日本展

文化と政策をめぐるふたつのニュースを、つらつらと読んでいた。付き合わせてみると実に対照的な話題なので、比べて書いてみる。

□著作権法改正
ひとつは、著作権法改正である。TPP 発効の2018年12月30日に施行された。具体的には、著作権保護期間が延長され、これまで死後50年であった保護期間が、70年になった。このことで、たとえば1968年に死去した作家たちの作品を、ウェブ上で権利フリーで公開することが、今後20年間できなくなってしまった。

困ったのは、たとえば「青空文庫」。著作権の切れた文学作品などをボランティアが入力、校正して、ウェブ上で無料公開している。掲載された作品は、世界のだれもが自由に用いることができる共有の資源となっている。この活動が、20年間停止してしまうことになる。

はて、いったいなぜ著作権法を改正したのか。経緯を見ていてもよく分からない。TPP12 のときに米国が強硬に要求していたことはあったものの、その後、米国は離脱、TPP11 ではこの項目は凍結となった。それにも関わらず、日本政府は急ぐ必要のない著作権法改正を、「TPP 発効を口実にして」するりと進めてしまった感がある。背景は何だろう、来たるべき日米 FTA(政府は「TAG」と呼んでいるアレ)の地ならしを、先んじて済ませておいたということなのだろうか。

いずれにせよ、(理由にもなっていない)外圧を理由にした著作権法の改正が行われ、著作者の権利はよりいっそう守られるようになったものの、ウェブなどで作品を用いたいと思う利用者の便宜が大幅に制約されることとなった。

□2020年「日本展」
これと対照的な最近のニュースとは、2020年、官邸肝いりで開催されるらしい「日本展」。

美術手帖「政府が進める「日本博」構想とは何か。2020年の日本開催に向け始動開始?」

「世界最古の縄文土器を初め、仏像、 浮世絵、美術、伝統ある漆器、陶器、磁器の工芸、着物、盆栽、そして、縄文のアニミズムの信仰から鳥獣戯画を経て北斎漫画、アニメーションに至るまでの歴史的展示を行う」ですって。

そもそも、国家がこうして美と歴史を「国有化」すること自体に違和感がある。しかも、その中身たるや、縄文からアニメまで、外が日本に対して期待するであろう事物を詰め込んだフルコース。まさに「オリエンタリズムを先回って自発的に演じて見せ物に供する」という、なんとも浅薄な文化政策である。

私は、文化事業に対する国費による補助や、制度による支援を否定するつもりはなく、むしろそれは市民がそれらを享受する権利を守るためにも行われる必要があると考えている。しかし、あらゆる文化要素を国家単位で思考し、語ることはフィクションに他ならないし、その事物の取捨選択と演出方法がオリエンタリズムに沿って行われることについても、文化の営みの実態を適切に表しているとは思えない。

□文化と人びと、国家、資本
それぞれ別べつに流れてきた、文化と政策をめぐるふたつのニュース。読み比べてみれば、その違いは明らかである。

前者は、人びとの自発的活動として育まれ、国境を越えて利用されてきた。しかし、外圧によって、あるいは外圧を忖度した自発的政策によって、ウェブ上の文学作品などの資源の蓄積と共有が制約される結果となってしまった。

一方の後者は、官邸主導で、国策として進められる模様である。そこでは「日本」が大いに盛りつけられ、「日本的なるもの」のフルコースが丸ごとオリエンタリズムの消費材となり、五輪とセットで訪日客のために供される。ナショナリズムとグローバル経済が共催/競演する祭典である。

人びとによる、国境を越えた、自由な、しかし金にならない事業は制約される。国家と資本の結合による事業は守られ、強く推進されていく。あまりに対照的な姿である。

私はナショナリストではないけれども。百歩譲って、日本の言語と文化の存在を世界に知らしめたい、その理解者を増やしたいと思った時、何をするだろうか。来日する富裕層をターゲットにするのも結構だが、無料で世界のどこでもアクセスできる日本語の文学作品を知識資源としてウェブ上に積み上げていくことの意義は、とても大きいと思う。そういうことに冷淡であっていいのか、と考えさせられる。

文化とはだれのものか。政策の立ち位置はどこにあるか。だれに向けて言語と文化の発信をしていこうとするのか。いろいろを考えるための素材として、ここに記しておきます。


2019年1月3日 (木)

■「平成最後の…」の連呼のなかで

さすがに、うざったくなってきました。「平成最後の…」の連呼です。

この年末年始、メディアはとくにうるさかったし、それに留まらず、SNSや人びとの日常会話でも、みんなが同じようなことを言う。決して強制はされていない。みんな自発的に言うんです。

「平成」それ自体は中身のない空虚な記号で、ほとんど無色透明なことばです。むしろ、その空虚さ透明さにゆえに、あらゆる事象をバキュームカーのごとく吸い込むことができる。一方、吸い込まれた具体的事象が、空虚であった記号を埋めていき、いつしかそれらの事象がこの時代区分の説得力を支える根拠となっていく。こうして、そのことばは、人びとの時間感覚を支配する意味の詰まった概念に化け、記憶のなかに沈殿していく。

かつて、「昭和の終わり」といったことばで、1989年に物故した松下幸之助氏や手塚治虫氏、美空ひばり氏の死が修飾された。それらは、本人の意志や実績、経緯とは無関係に、昭和の終焉を象徴する死となり、遡及的に、それら人物とそれにまつわる記憶が昭和的なるものの記号として祭り上げられることとなった。そういう記憶がある。

みんなが軽やかにうれしそうに、日常の少しばかりの演出として、「平成最後の…」を口にし、また、文字にする。この、人びとによる大きなことばへの少しずつの自発的迎合、これこそがファシズムの淵源であると私は感づいている。その振り付け師は、国家権力に他ならない。しかし、このような会話には、こういった全体状況を喜ばしいものとするちっぽけな祝祭感覚が伴っている。これが厄介なのである。あまりに軽やかすぎることば遊びであるがゆえに、ことさらに非難するのも大げさだろうという、批判を忌避する規範が貼り付いている。その規範が私的会話の空間全体を満たしていき、個人のかすかな抵抗の芽を摘み取っていく。

「平成最後の…」と、来たるべき未知の元号の「○○最初の…」ということばづかいは、これから1年余り、各地の各所の日常生活のなかで、少しだけ気の効いた、場を盛り上げるためのことばとして大いに使われることでしょう。そのことばの多くは、ささやかな祝祭感覚とともに人びとによって自発的に発せられ、それを聞く周囲の者たちにも共感を強要していくことでしょう。それを聞く人びとに、反論する機会は用意されないでしょう。

こういったことばを一括消去できたらどれほど気が楽だろう、と思いつつ。こうしたことばづかいに迎合しない、大きなものと一体化する感覚を静かに拒む姿勢こそが、踊らされない、動員されない生き方を守ることにつながるのだと私は思います。


2019年1月1日 (火)

■2019年、今年やると思うことなど

新年明けましておめでとうございます。

12/26に日本が IWC 離脱を表明、12/31に米国とイスラエルがユネスコを脱退、という、何か世界の分裂と不寛容さの増長をうかがわせるニュースが相次ぐなか、また新年が訪れました。今年3月にはいよいよ Brexit も控えているし、どうなることでしょう。

□国際会議など
さて、今年1年、何をしよう…と元旦に考えました。手がかりになるのは、今年の学術行事などのスケジュールです。もちろん、すべてに行くことはありません。オカネと時間と発表するネタの三つの都合が付くものを選んで、行きたいと思っています。

そういえば、トップページにも上げたんですが、今年の国際人類学民族科学連合 (IUAES) 中間会議のテーマが "World Solidarities"、第8回欧州アフリカ学会 (ECAS2019) のテーマが "Africa: Connections and Disruptions" です。なんだか、世界のあちこちに亀裂が走るなか、人類学や地域研究が、何とか人びとをつなぎとめたいという淡い期待を投げかけているような感じを受けます。過激で強引なグローバリズムと、それに対抗するナショナリズムの間で衝突が起こり、人びとの感性が両極に引き裂かれていくなか、知識の生産を主務とする学問の世界で、理性的で冷静なつながりの回復を地道に訴え続けることは、それなりの同時代的な意義があるのだろうと思います。

□国内学会
今年の重要なミッション。人類学関連学会協議会合同シンポジウムの開催です(6月、仙台)。人類学関連の5学会(日本文化人類学会、日本人類学会、日本民俗学会、日本生理人類学会、日本霊長類学会)が、毎年持ち回りで開催するシンポジウムがある(過去の開催実績)。今年は日本文化人類学会が開催担当で、その理事として、この企画を取り仕切ることとなりました。今年は、「社会と対話・協働する人類学」(仮)をテーマに、おそらく6月1日(土)に、東北大学川内キャンパス開催の日本文化人類学会の一部の時間帯で行われる見込み。

この他、もしかしたら、アフリカ子ども学関係で、別の学会にお呼ばれで発題することがあるかも? あまり無理せずに、他の分野との交流を進めたいと思います。

□主催する行事
今年のすでに決まっている重要な行事は、文部科学省のミュージアム「情報ひろば」での学科の写真展です(秋頃、東京・霞が関)。

愛知県立大学国際関係学科の「旅の写真展」。2011年に、旅行好き、写真好きの学生たちの持ち寄り作品で始まった企画でしたが、すでに開催8年目(9回)を数える恒例の行事となりました(過去の開催実績)。

昨年の夏頃、文部科学省のミュージアムで企画展の募集があったので、まあむりだろうなと思って応募してみたら、一発で採択されてビックリ、という経緯だったのでした。写真展とともに、東京で、本学科のフィールドワーク教育の実践を紹介するシンポジウムも開く予定です。今年は、夏から秋にかけて、これらの準備に時間をかけることになりそうです。

□書くべきもの/書きたいもの
例によって、執筆の面で、仕事から解放される日はありません。

・書くべきもの
・書くことが期待されているいくつかのもの
・書きたいと思っていて未定型なアイディアの段階のもの

などが、常にアタマの中にあります。ひとつ目は急務、二つ目も果たさねばならないものを進めねばならないのではありますが。どちらかと言うと、義務感よりは、三つ目の、自分としていずれは成し遂げたいと思っている著作物の方を少しずつ向いて仕事をしていきたいなあ、と思います。

アイディアのメモはいくつもあるんですが、作品が形になるためには、(1) ネタ、(2) 情熱、(3) 仕上げる時間、の3要素が不可欠だと考えています。その三つを資源として確保するぞ、と思う。

□日記の復活へ
ついとばかりにネタを投下していて、のんびり日記を書く時間もない、という日々が続きましたけど。140字で書けないことは多いです。アクセスの数を競う商売でもあるまいし。反響など度外視して、自分の書きたいことを勝手に長文で日記に書いて置いておく、というふうに、ことばの使い方を少し変えようかなあ…などと考え中。まあ、どうなるか分かりません。

その時どきにおいて右往左往しない思考とことばづかいを、ということを今年の目標としたいと思います。

本年も、どうぞよろしくお願い申し上げます。



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