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発表要旨
最終更新: 2007年3月19日

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関学COEワークショップ「多文化と幸せ」
2004年11月8日

「なぜ多文化と幸せか: ワークショップのねらい」
亀井 伸孝 (関西学院大学)

キーワード:多文化と幸せ、応用人類学、文化の多様性、フィールド、同時代


■発表の要旨
COEワークショップ「多文化と幸せ」を企画・コーディネートする立場から、そのねらいをお話ししたい。一言で言えば、動機は「多文化と幸福追求のあり方について本気で考えたい」と思ったことである。

応用人類学をめぐってはいくつかの言説群があり、たとえば以下のようなグループが見受けられる。

(1) 「応用に対する原罪意識」系
人類学が植民地主義に便乗/加担してしまった過去を糾弾したり自己批判したりする。

(2) 「副業としての応用人類学」系
事件/問題/変容を目の当たりにしたフィールドワーカーが、ルポを書いたり現地で恩返しの事業をしたりする。

(3) 「人類学への片想い」系
開発や教育などの研究者が、多文化のファクターを取り入れたいために「人類学的な視角」に片想いを寄せる。

かくして「フィールドワーク」「××人類学」などのキーワードが「異文化理解」を示す印として軽く用いられ、一方で、文化研究の老舗である人類学が中心部で沈黙を続けているという、一種の空洞現象がある。多文化と幸せの関わりについて素直に考える学問分野があってもいいと私は考えている。

多文化と幸せを考えるための三つのキーワードとして、「文化の多様性」「フィールド」「同時代」を挙げたい。どれも欠かせない重要な条件だが、この三つを本気で受け入れるならば、学問の立場を越えて興味深い成果を共有することができるだろう。人類学・社会学のみならず、言語学、社会福祉学、教育学、開発研究など、およそ人間の暮らしに関心を寄せる諸分野が、幸せの形について学び考えるための共通の土台を持てるはずである。

私は西・中部アフリカのろう者の文化と歴史観に関する現地調査を進める中で、多言語・多文化主義が必ずしも当事者の幸福と相容れないケースがあること、幸福の条件を数値で測れる場合があること、その上でやはりフィールドでしか見えてこない当人たちの幸福の形があること、などを学んだ。「多文化だからさまざまな幸せの形がある」で終わってしまうのではなく、その「さまざま」を貫く普遍的な幸せのあり方を見すえる努力も必要である。

本来、幸せについて語ることは楽しいことであるはずだ。このワークショップが、学問の立場性や歴史性に過度にとらわれることなく、フィールドからの新鮮な報告を持ち寄れる場になれば、と期待している。

■参考文献
青柳まちこ編. 2000.『開発の文化人類学』東京: 古今書院.
亀井伸孝. 2003.「アフリカ諸国のろう者によるろう教育事業」『アジ研ワールド・トレンド』(アジア経済研究所) No.96 (2003.9). 35-38.
亀井伸孝. 印刷中.「言語と幸せ: 言語権が内包すべき三つの基本的要件」『先端社会研究』(関西学院大学21世紀COEプログラム) 1.
セン, アマルティア. 1988. 鈴村興太郎訳. 『福祉の経済学: 財と潜在能力』東京: 岩波書店.
ハク, マブーブル. 1997. 植村和子ほか訳.『人間開発戦略: 共生への挑戦』東京: 日本評論社.


■討論の要旨(●参加者/○発表者)
<普遍化する必要性はあるか>
●フィールドワークの知識を問題解決に応用するのであれば、個別の問題を考えていくので十分ではないか。普遍化することは必要か。

○個別の問題から考え始めることは不可欠だろう。ただし、同じような問題があちこちで起こっているとすれば、モデル化して参照することに意味はあると思う。もちろん、モデルが一種の教科書となって教条的に押しつけられてしまったら、逆に問題を引き起こすことになる。マルクスもおそらく人々の幸せの形を目指して理論を作ったに違いないが、その体制が逆に不幸をもたらす事例があった。常にフィールドに帰って考え直すという往復運動が必要だろう。

<そもそも普遍化などできるのか>
●幸福や価値観に普遍性はあるのか。それはあくまで個別文化に依るのではないか。もっとも「幸福追求する」ということ自体は普遍的かもしれないが。

○「幸福」そのものではなく「幸福追求すること」が普遍的だという指摘は、確かになるほどと思う。幸福追求の方法や目的が個別文化に依存する可能性は高い。ただし、人である以上「だれしもここより先は譲れない」というギリギリのラインはあるのではないか。私は、どこか普遍性を見いだそうとする立場に踏みとどまりたいというこだわりがある。

●幸福とは、個別の交渉の中で具体的な形として見いだされていくものではないのか。

○そう思う。幸福それ自体をいくつかの簡単な条件で書き出すというのは難しいだろう。ただし、個別の交渉に挑んでいく人々の姿を見ていくと、文化に依らない似たような幸福追求のあり方を見ることができるようにも思う。

<その他コメント>
●多言語主義が非現実的な理想となっている面は現にあるが、一方で大言語による少数言語の抑圧が続いているのも確か。その一歩先を具体的に考えたい。

●フェミニズムを考えていく際、フェミニズムとマルチカルチャリズムが両立するのか?背反するのか?という問いが必ず出てくる。端的に言えば、文化の保護の名目の下で女性への抑圧が保存される実例はよく挙げられる。”幸せ”という尺度を用いてこの論点に一つの”答え”を出すことができるのであれば、興味深い。

●文化のとらえ方をめぐっては、歴史上、普遍性と個別性の間で行きつ戻りつを繰り返している。そもそもこの二つを対立的にとらえること自体に問題があるのではないか。


■発表者の感想
これまでアフリカのいくつもの都市の街角でろう者たちと会い、手話を通してその価値観や歴史観を学んできた。その経験の中で「けっこう人間というのは似たようなことに喜びや悲しみを見いだすものだな」という確信を得たため、今回はそれを理屈に託して話してみた。しかし、そう簡単に普遍化を急ぐべきではないというフィールドワークの原点を、議論を通してあらためて確かめた思いだ。

人類学の歴史や植民地主義への反省を軽んじるべきではないし、個別文化の多様さへの敬意も忘れてはならない。今回は「いずれ普遍を見ようとするための第一段階としての個別文化研究の重要さ」を再認識し、今後勉強を深めていくためのよいきっかけをもらえたと思う。

もっとも、マルクスもセンも格闘したと思われる「幸福のためのグランド・セオリー」探求の魅力は捨てがたい。同じヒトである以上、文化を越えて何か共有したいという思いは、何らかの形で残り続けることになると思う。(亀井)


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