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発表要旨
最終更新: 2007年3月19日

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関学COEワークショップ「多文化と幸せ」
2006年7月10日

「触文化が拓くフリーバリア社会: 障害を"いやす優しさ"から"いかす強さ"へ」
 広瀬 浩二郎 (国立民族学博物館)

キーワード:バリアフリー、フリーバリア、職人(=触人)


■発表の要旨
多文化と幸せ20060710広瀬 バリアフリーとは、障害者と健常者の間にあるバリアを取り除くこと。では、バリアとは何なのか。本ワークショップにおいては「視覚障害者=ユニークな五感活用術を知る職人(触人)」と定義し、みなさんとともにバリアの意味を考える。

現在、民博で「さわる文字、さわる世界」という企画展を担当している。展覧会の狙いは、五感の持つ可能性を切り開くことである。たとえば企画展では、点字と通常文字を併記したパンフレットを用意したが、それには見える人と見えない人が同じ情報を共有するという意味があるだけでなく、マジョリティが異文化に出会ってもらうきっかけともなる。

私は「健常者」「障害者」という区分ではなく、「視覚をよく使う人」「触覚や聴覚をよく使う人」というような見方をしてみたい。盲人の歴史を研究していると、先人たちのさわるための工夫、不便な時代のしたたかさに気づく。それは「たいへんだなあ」という側面とともに「すごいなあ」という側面も持っている。展示の企画者としては「すごいなあ」という面を見てもらうことを期待したい。それを「物に語らせること」が博物館の仕事だと考えている。

視覚と触覚を対比してみると、さまざまな違いがある。「一目瞭然」という言葉が示すように、視覚は状況を全体としてとらえるが、たとえば机を触れてみればわかるように、触覚は手で触れた所を点として把握する。ただし、手を動かせば認識は面となり、立体となり、創造力と想像力を刺激してくれる。また、机の表と裏を同時にさわれるなど、視覚にはできないことができる。温度や質感がわかるのも、触覚ならではの特徴だ。情報の「量」が重視される今日、しばしば視覚が優位と見なされがちだが、触覚でしかわからないこともある。

企画展の準備の過程で示唆を与えてくれた3人の人物を紹介したい。1人目はルイ・ブライユ。フランスの盲人で、点字を発明した。軍の暗号として用いられていた点字を改良し、盲人が読み書きしやすい6点式の点字の体系を考案した。それまでは目の見える教員によって、通常の線文字を浮かび上がらせた文字(凸文字)が作られていたが、触覚では線より点の方がわかりやすいし、書きやすい。ブライユは線から点へ、見る文化からさわる文化へと、自己表現にこだわった転換をし、いわば健常者の論理を打破する「革命」を起こした。それが世界的に普及した。

2人目は葛原勾当(くずはらこうとう)。江戸時代末の盲人箏曲家。木活字(仮名のハンコ)を使って、独力で40余年間、日記を書き続けた。この方法は、いわばタイプライターの元祖といってよいだろう。自分が読めない日記をつづり続けた葛原は、情報伝達にこだわった人物であり、彼をモチーフにして太宰治が「盲人独笑」という小説を書いている。

彼の日記の大部分は「歯が痛い」など他愛もない記述だが、時おり彼なりのものの見方をうかがわせる和歌がある。たとえば「鴬の声だにきけば梅の花 咲くも咲かぬも嬉しかりけり」(鴬の声が聞こえれば、梅の花が咲いても咲かなくても嬉しい)というのは、梅ではなく鴬で春の訪れを知る彼の認識方法を示しているだけでなく、梅の花を見る人、鴬の声を聞く人が共に春を楽しむ共存の可能性をも示しているようだ。

多文化と幸せ20060710広瀬 興味深いことに、1809年生まれのブライユと1812年生まれの葛原は、ほぼ同時代の人物である。かつては文字を必要としない人が社会の大半を占めており、盲人は琵琶法師やイタコなど、文字を用いない生業を持っていた。しかし、近代化の中で文字を必要とする社会が到来し、マイノリティもその中に巻き込まれていく。二人がそれぞれの方法で文字を書き始めたことには、この時代背景が関わっているのではないか。

3人目は麻原彰晃。彼は近代化の犠牲者だと思われる。彼は盲学校で鍼灸を学び、やがて開業した。人体の内部を見ることができなかった時代、鍼灸は触覚によって体内の状況を認識する手段だった。西洋医学が移入され、レントゲンなどで体内を見ることができるようになると、鍼灸は低い位置に甘んじることとなる。麻原は医学部受験などに失敗し、いくつもの挫折を経て、宗教へと辿りついた。そして、一連の事件を起こした。

逮捕時に彼は「目の見えない私にこんな事件をやれるでしょうか」と言ったとされる。これが事実なら、たいへん腹立たしいことである。けっきょく彼は「目が見えない=何もできない」と自分を認識する中で挫折を重ね、多くの事件を引き起こしてしまった。

近代化の過程にマイノリティが飲み込まれていった時代、「視覚を使わない」という生き方を選んだ者(ブライユ、葛原)もいれば、「視覚を使えない」という見方の中で盲人の「すごさ」を失い、「たいへんさ」のみ抱え込んでしまった者(麻原)もいる。触覚の文化における成功者だけではなく、歴史の中で消えていった者たちの悲しみや怨念も忘れてはならないだろう。

※発表における主な論点をコーディネータ(亀井)が要約しました。

■参考文献
葛原勾当. 『葛原勾当日記』(広島県指定重要文化財).
太宰治. 1940 (2005).「盲人独笑」『太宰治全集 3』東京: 筑摩書房.
広瀬浩二郎. 1997.『障害者の宗教民俗学』東京: 明石書店.
広瀬浩二郎. 2003.「近代日本の〈厄介な人〉、〈気になる人〉、〈変な人〉: 麻原彰晃への旅、麻原彰晃からの旅」赤坂憲雄・中村生雄・原田信男・三浦佑之編『いくつもの日本 V 排除の時空を超えて』東京: 岩波書店. 251-270.
広瀬浩二郎. 2004.『触る門には福来たる』東京: 岩波書店.
■参考サイト
さわる文字、さわる世界〜触文化が創りだすユニバーサル・ミュージアム


■討論の要旨(●参加者/○発表者)
<さわる展示の方法論>
●博物館がさわる展示を行うと、リスクとして資料の破損の恐れがある。たとえば文学館の展示などでは、どんな工夫ができると思うか。

○文学館では人によるガイドがよいだろう。これは古くて新しい方法だ。アメリカでは、事前予約すればガイドが同行するサービスなどの例がある。民博でも「ミュージアムパートナーズ」制度があり、館内ガイドなどを頼むことができる。音声ガイドの機器を貸し出す所もあるが、機器は同行者との会話を妨げることがあるため、使いづらい面がある。さわる人と見る人の対話を重視するという展示の考え方もあってよいだろう。

●レプリカの展示については、どう思うか。

○「重要な物より本質的な物を」と考えている。国宝や重文を何でもさわりたいと主張するつもりはない。レプリカは有効な展示法なので、製作費の問題はあるかもしれないが、もっと増やしていきたい。一方、残念なことに、展示品をさわる企画をすると、壊されたり、いたずらされたりすることがある。これまでさわることを禁止してきたため、適切な「さわり方のマナー」ができていないのだ。企画展では、手洗い励行や「さわるマナーのかきくけこ(軽く、気をつけて、繰り返し、懸命に、壊さないで)」のキャンペーンなどをして、さわることへの心構えを持ってもらう効果を期待している。海外の博物館では、来館者全員に薄い手袋を配布する所もある。

●障害を持つ当事者が展示企画に関わることについてはどう考えるか。

○当事者はそのテーマについてよく知っているし、愛着もある。熱意を持って企画に関われるため、当事者が担当するのは好ましいことだ。一方「当事者にとっては当たり前のこと」についての説明をおろそかにしてしまうなど、非当事者にとって不親切な展示となる恐れもある。その世界についてあまりよく知らない同僚のチェックを受けつつ、共同作業で進めることが重要だ。

多文化と幸せ20060710広瀬 <五感と近代>
●日本の博物館は「触れてはいけません」とする所が多いが、信仰の中では、仏像をさわったり、なでたりして拝むことが珍しくない。日本はいつからそうなってしまったのか。

○日本でも、かつては患部に手を当てて治す治療「手当て」などもあり、新宗教などの重要な要素として引き継がれてきたが、一般的には近代化の中で接触を避けるようになった。いつからかということについては、今後の課題として考えていきたい。

●興味深い話だった。一般に「近代化=普遍性を志向すること」だと信じられてきたが、その実、人類史においては、きわめて特殊な現象にすぎない。文字、視覚、印刷、メディアなどをめぐる近代化論の中で、視覚を使わない人々のことがまったく扱われてこなかった。今日の発表の切り口自体が、反近代の議論に関わることだろう。

<マイノリティとしての触文化>
●ブライユが線文字をやめて点字をめざしたのは、マジョリティの文化からの分離独立を選んだ歴史の分岐点でもあった。マジョリティとの距離の取り方(同化か分離か)をめぐる議論や葛藤はあったか。

○歴史的に、盲人の運動は分離より統合を望む傾向が強い。ブライユが点字を発明した時も、マジョリティが読めない文字を採用することについて葛藤があったが、当時は「盲人にとっての使いやすさ」と「マジョリティの文字との互換性」が両立できなかった。やがてITの進展が影響をもたらす。私が高校生の時代に、初めてPCにつないだ音声装置が喋った。盲人の長年の夢だった「墨字を書く」ということが、キーボードを通して実現し、この20年くらいで盲人の文字環境は大きく変わった。PCさえあれば、とくに盲人は困らないという状況の中、若い年齢層では「点字離れ」も起こっている。しかし、私の仕事術としては、あくまでアイディアは点字でメモをとり、後でPCで清書するという方法にこだわっている。

●視覚障害者として、博物館で働くことや、古文書読解が重視される歴史学を専攻したことは、どのような経験だったか。

○大学入試では受験拒否されたこともあった。高校の時に歴史が好きになり、日本史を専攻したが、文献を読む方法については大学の指導教授とずいぶん検討した。古文書を立体コピー(黒い色の部分が立体的に浮き上がる複写方法)して読もうとしたが、触覚では簡単な文字しかわからなかった。けっきょく「史料を読まない」という研究スタイルを選び、フォークロアの手法でフィールドワークに入っていくことになった。

●多文化共生のための課題は?

○ときにはマジョリティがマイノリティに歩み寄ること、関心を持ってもらうことがあっていいだろう。人間の表現方法にはいろいろあるのだということに思いを巡らせてほしい。

※討論における主な論点をコーディネータ(亀井)が要約しました。


■発表者の感想
厚かましくも企画展の宣伝をしてしまいました。この展示を企画、運営する中で、論文を書くのとは違う楽しさ、やりがいを感じています。私の企画展は9月の閉幕に向けて、もう一頑張り。関学でのワークショップ・シリーズは今回から再スタート。ラストスパートはスタートダッシュに通ず!? 今後も触文化、多文化共生などの意味について、みなさんといっしょに考えていければ幸いです。(広瀬)

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