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発表要旨
最終更新: 2007年3月19日

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関学COEワークショップ「多文化と幸せ」
2004年11月8日

「『日課』に見る生きがい: 一人暮らし後期高齢者の事例から」
三宅 加奈子 (岡山大学)

キーワード:生きがい、一人暮らし高齢者、日課、畑仕事、実践


■発表の要旨
本発表の目的は、日々の生活を支える日常的な生きがいを提示することにある。既存の研究では、高齢者の何の変哲もない日常の生活に焦点が当てられることは少なかった。しかし、日常生活において毎日繰り返すことのできるような特別ではない活動こそ、日々を支える生きがいとなり得るのではないだろうか。

高齢者の生活をミクロレベルでとらえるにあたっては、「日課」という概念を使用する。「日課」とは、「毎日決めてすること」、「毎日決まった(決めた)しなくてはならないこと」と定義できるが、この「日課」によって、私たちの生活は規定され、秩序づけられている。例えば、多くの人にとっての「毎日しなくてはならないこと」とは生活のための仕事であり、会社での仕事は他者と場を共有することから、自分一人の都合で時間を変更するということができない。よって、仕事を中心として通勤、食事、起床時間が決まる。このような生活の中心となる「日課」の多くは、社会的役割と重なるだろう。また、「日課」のように他者と共有し自分の自由にならない一定の時間は、生活を共にする同居者がいることによっても発生する。

調査対象である一人暮らし後期高齢者は、年齢を重ねることによって、定年を迎え、母や祖母、父や祖父といった社会的役割からも離れた人々である。さらに、一人暮らしという生活を共にする他者のいない状況に置かれている。この一人暮らし後期高齢者のような、人生の中で唯一生活の中心となる活動を他者から与えられない状況にある人びとが、何を「日課」として選び取っているかを考察することは、日常的な生きがいを知る有効な手段であると考えられる。

調査地は、岡山県北部のN村である。本村は、若年人口の流出に伴う高齢化の進行する過疎地だ。地縁、血縁関係が強く、都市では見られない慣習や社会構造が存在する。私は約4ヶ月間村内で生活をしながら一人暮らし後期高齢者宅を訪問し、インタビューを主とした参与観察を行った。

N村において男性の一人暮らし後期高齢者が極端に少ないこともあり、主なインフォーマントは女性である。そして、「一日をどのように過ごしているか」についての聞き取りの結果、多くの人が畑仕事を「日課」としていることが明らかとなった。しかし、彼女たちの畑仕事によってできた野菜はほとんど出荷されることがなく、子どもをはじめとする周囲からは「もう(畑仕事は)しなくてもいい」と反対を受けている。さらに、本人も「畑をしても意味がない」などと、畑仕事を否定的に語る。彼女たちは、生活の糧として畑仕事をしているのではなく、また、単に趣味として畑仕事をしているわけでもなさそうである。本研究では、彼女たちの畑仕事に注目して調査を進めた。

まず、村内では、「畑仕事は年寄りの仕事だ」ということが言われる。この言葉には畑仕事が「若い人になんかさせられない」価値のない仕事であるという意味が含まれるが、畑仕事はまた、高齢者が一人でできる唯一の仕事でもある。しかしながら身体の衰えた高齢者にとっては、畑仕事は大きな負担となる作業である。そして、畑仕事とは高齢者にとって昔から当たり前にやってきたことであり、身体に染みついた身体化された活動だと言うことができる。

また、村内では働くことに価値が置かれ、高齢者が「よく働く人」と言うのは、畑仕事をする人のことを指す。野菜や米、味噌などは買ってくるものではなく自分たちで作る物であり、そうしないことは「横着」と映る。先祖から引き継いできた田畑を管理せねばならないと言うわけではないが、それらを潰してしまうことは「寂しい」ことである。

ここで視点を変え、畑仕事という作業自体に目を向けてみると、畑仕事は天候や植物の成長に大きく影響される、自分の都合だけでは進めていくことができない作業であると言うことができる。畑の雑草は抜いても次々と生えてくることから、草抜きには終わりがない。また、なぜ畑仕事をするのかという質問への答えが「草くらい抜かんと人に何言われるか分からん」、であることからも分かるように、畑での仕事には他者の目が注がれる。一方、彼女たちは近所の人の畑をよく見ている。畑は人を評価する場でもあるのだ。また、畑仕事のために屋外にいるというとは自然に他者と接する機会に恵まれる。

インフォーマントの活動は大きく分けると、この畑仕事と、週に何度かの福祉サービスによって占められていた。本研究では、主に行政が主催する高齢者対象の参加型の集まりを福祉サービスと呼ぶこととする。

福祉サービスは彼らにとって、「遊び」であり、「楽しい」活動であり、畑仕事とは反対に、周囲から勧められる活動であった。インフォーマントの半分以上がこの福祉サービスに定期的に参加していたが、ほとんど、もしくは全く参加しない人びともいる。そして、福祉サービスに参加しない人びとは、福祉サービスに参加する習慣を持つ人びとから「外に出ならん(出ない)人」と呼ばれている。しかし、彼女たちは文字通り屋外に出ないわけではなく、むしろその逆で一日中屋外で畑仕事をして過ごし、近所の人との関わりもある。つまり、「外に出ならん人」の「外」とは福祉サービスの行われる場のことを指していると考えられる。

さらに、「外に出ならん」人びとも、同じ外という言葉を使って「一人(暮らし)は外のこと(畑仕事)ばー(ばっかり)じゃ、中のこと(家事)はひとつもできん」と自分たちの生活を表す。福祉サービスも家から「外」へ出る活動であるが、福祉サービスに参加することのない「外に出ならん」人びとも、一人暮らしとなり、畑仕事という活動によって、畑のある隣近所という場である「外」に出ていると考えられる。

考察では、「外に出ならん」人びとの活動を「実践コミュニティ」の観点から眺めることを試みた。「実践コミュニティ」とは、制度という与えられた枠組みではなく、人びとの行為と相互作用に注目して対象をとらえようとする概念である。このような、ある行為が周囲の人びととの関係の中で行われることを強調する「実践」という概念に畑仕事をあてはめてみると、畑仕事が他者によって支えられている活動であるという側面が浮かび上がってくる。一人暮らしとなり、家庭という社会を失った人びとが、畑仕事によって新たに他者のとの関係を作り出している。畑仕事は、一見一人で行う作業のように見えるが、他者との関係の中にある活動なのである。また、アイデンティティというものを、固定した安定的なものではなく、他者との関係によって形成され続けているものだと考えると、日々の畑仕事によって得られる他者との関係によって、彼らは自己というものを得ていると考えることができる。このように、畑仕事という「日課」は、決して意味のない活動ではなく、彼女たちが生きていく上で欠かせないものなのである。

畑仕事は「日課」であり、畑仕事を中心として他の活動が組まれていた。これは、畑仕事が天候や植物の成長といった、広い意味での他者の影響を強く受ける活動であり、自分の都合だけでは作業を進めていくことができないことによる。生活の中心となる「日課」は、他者から規定されることの少ない、一人暮らし後期高齢者の生活に秩序を与えるものであると言えるだろう。

  このように、畑仕事は、直接的に他者を求める活動ではないが、他者との関係を作っていくことができる活動である。そして、他者から規定される活動によって秩序づけられた生活は、リズムを持ち、日々の生活を送ること、つまり生きていくことをスムーズにする。畑仕事という「日課」によってもたらされるのは、生きがい以外のなにものでもないのではないだろうか。

「日課」のように毎日繰り返し行うことのできる活動にこそ、日々を生きていく生きがいがある。今後、行政によって推進される社会参加活動から得られる「生きがい」だけではなく、高齢者の何の変哲もない普段の生活にも目を向けていく必要がある。それが高齢者自身の立場から生きがいについて考察することであり、それはまた私たちが地に足を着けて自分の老いについて考える機会ともなるだろう。

■参考文献
田辺繁治. 2003.『生き方の人類学 実践とはなにか』講談社.


■討論の要旨(●参加者/○発表者)
<なぜ耕すのか>
●利益が上がらず、周りから反対されても、なぜ耕し続けるのか。

○できた物は知人に配るが、余らせて傷んでしまったりすることもある。どうせ食べないのに、と家族に反対されることもある。しかし、経済的に合わなくても日課となっており、毎年決まったように作物を植えている。

●ある農村の調査では、一人が田を放棄したら虫が増えて隣が迷惑するという見方があった。耕すことを「やめるにやめられない」という相互監視の側面もあるのでは。

○確かに、畑には人の目がそそがれていて、畑に出ている人をとらえて「あの人はもう弱っている」などと言われることがある。また、畑仕事をする理由として「草くらい抜かんと何言われるか分からん」とも言っている。

<畑作業は楽しいのか>
●畑仕事は彼女たちにとって楽しいことなのか。楽しむというよりも、当たり前のことなのか。畑をしなければ恥と思う世代もあるだろう。

○調査対象の一人は「楽しいからかなぁ。性分かなあ」と語っていた。ただしこの人は大都市生活も経験し、見方が他の人と異なる可能性がある。「楽しい」と明らかに語る人は少なく、むしろ「遊んでいると思われたくない」という感覚がある。

●チクセントミハイの言う「没入」のように、身の丈に合った課題に「はまっている」という見方はできないか。

○今回は取り入れなかったが、そのモデルを使うことを検討したことがある。

<高齢者のエスノグラフィー>
●調査対象に女性が多いのは?

○男性の高齢者が少ない村だった。

●福祉サービス(老人大学など)に集まる動機は何か。

○皆勤を目的として講演会に来る人も多い。講演内容よりは、集まることに意義がある。その意味では、すでに日課の一種かもしれない。

●後期高齢者どうしで集まるコミュニティはあるか。畑仕事は彼女らの文化という側面はあるか。

○地域にもよるが、外で出会うとよく話している。会わない距離にいてもお互い意識しているし、うわさ話にはよくのぼる。

<幸せのありか>
●結局、この事例から見えてくる幸せとは?

○幸せは、特別な活動ではなく、変哲もない繰り返される日課の中にある。特に、日課を通して得られる他者との関わりが重要だと思う。

<その他コメント>
●土と作物を育てることに、子育てに近い感覚を持っている可能性がある。

●日課がないと人間は不幸なのか。ある民族の調査では、年寄りが日がな一日腰掛けて家の中にいるのが当たり前だった。「年寄りに何か生きがいのようなものを持たせないといけない」と考えるのは、近代社会特有の現象ではないか。

●私たちは日々リズムを求める社会にいるが、それは社会によってさまざまだ。リズムが無くても幸せを実現できるのかもしれないし、また、それぞれの社会特有のリズムがあるとも言えるかもしれない。

●人間社会の時間感覚を「時計時間」と「出来事時間」と二つに分類して論じた人がいる。毎日の日課を義務的に求めようとする社会は、前者の典型だろう。


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