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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

読書日記・映画日記: 2005年

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最終更新: 2007年5月25日

■『牢屋でやせるダイエット』(2005/12/29)
■『半落ち』(2005/12/25)
■『キング・コング』 (2005/12/23)
■『ヒトラー 最期の12日間』 (2005/08/27)
■『アウシュビッツ』シリーズ (2005/08/25)
■『靖国問題』(2005/08/17)
■『大切なことは60字で書ける』(2005/07/01)
■『政治の数字』(2005/06/27)
■『評伝マルコムX』(2005/04/06)
■『東大教授の通信簿』(2005/04/02)
■『スーパーサイズ・ミー』(2005/01/12)


■拘置所を中から見てみると

中島らも. 2003=2005.『牢屋でやせるダイエット』東京: 青春出版社.

作家中島らもによる拘置所体験記。大麻取締法違反で逮捕されたときの22日間の独房生活を、当時のメモに基づいて回想する。とくに、看守や調査官らをターゲットとした人間観察にもとづいて、拘置所という場の実態を暴く。

つらい日々だったとはいえ、筆致はけっして告発調ではない。不思議の国に迷い込んだ一見さんとでもいうような視点から、特有のギャグセンスでこの世界の住人たちを描いていく。なお、実際には獄中でダイエットはしておらず、むしろ体重を増やして出てきた。酒とタバコとクスリを断った生活が、彼に新しい思索をもたらしたというから、思想上のダイエット、または彼の人生そのもののダイエットだったのかもしれない。

彼は、どんなひどい目にあっても、メモにしていくことですべてを笑える話に置換してしまうという。そう、同じことを私もよくやるが、彼は一級のフィールドワーカーであり、エンターテイナーだった。保釈の翌年の2004年、酩酊状態で階段から転落、死去。惜しい人をなくした。(2005年12月29日) 


■調査というお仕事のガイドブック

横山秀夫. 2002=2005.『半落ち』東京: 講談社.

2002年にベストセラーとなり、映画化もされたミステリーの文庫版。殺人を犯した後の二日間の行動について口を閉ざす一人の容疑者(=被告=受刑者)を前に、刑事、検察官、新聞記者、弁護士、判事、刑務官の6人が代わる代わる語り手として登場し、調査・観察する立場から彼の沈黙に向かい合う。

「調べること」を本務とする人々の共通点や違いが克明に描かれていて、さながら「調査というお仕事のガイドブック」のようだ。事実を明らかにすることへのプロとしての気負いと自信、組織の中での迷いや妥協など、調査を仕事とする者の端くれである私も共感をもって読んだ。また、業種によって、何を「完落ち」(すべて明らかになった状態)とするかが食い違うようにも見えてくるのが面白い。さて、人類学は何をもって「完落ち」とするのかなあ。(2005年12月25日)


■グローバル化時代のキング・コング

『キング・コング』
監督: ピーター・ジャクソン, 2005年, ニュージーランド/アメリカ, (C) 2005 Universal Studios.

72年ぶりにリメイクされた『キング・コング』。最新の映像技術を用いてアナクロなストーリーを展開する、何とも奇妙な映画である。

奇抜な作品で一山当てたい映画監督が、女優やスタッフを引きつれて未探検の島「ドクロ島 Skull Island」へ撮影に行く。そこで島民の襲撃にあい、女優は誘拐されて巨大なゴリラ(コング)の生けにえとされるが、かえって監督らは彼女を救出しつつ、コングを生け捕りすることに成功。見せ物にされたコングがニューヨークで脱走し、街は大騒ぎになる。摩天楼の頂上で銃弾を浴びながら、コングが女優と二人きりの時間を過ごすという、世にもめずらしい純愛映画でもある。

基本的に、これは植民地主義の映画である。植民地主義的な探検をあつかうだけでなく、この映画の作り手自身があいかわらず植民地主義的で、「奇妙な衣装をまとう褐色の人々が踊り、意味不明の言語を叫びながら弓矢で人を殺す」という描き方をする。1世紀もの間、ハリウッドは何も変わっていないのである。せっかくリメイクするなら、異文化表象もちょっとはリメイクしてくださいよ、というのが私の注文だ。

都会に連れてこられたコングが大暴れする(=未開の資源を強奪してしっぺ返しをくらう)というのは、いちおう植民地主義への軽やかな自己批判でもあるのだろう。しかし、それは収奪する側の勝手な論理である。銃口を向けられて領土を侵犯され、コングを奪われた島民たちの存在と主張はどこにあるか。それを多少なりとも代弁する人類学者やNGOはいないのか。植民地主義が他者の存在によって根源的に批判されない限り、21世紀に『キング・コング』をリメイクする意味はないのである。

人、モノ、カネ、情報が行き交い続けるグローバル化時代の『キング・コング』は、さぞかし忙しい映画になることだろう。島に固有の生態系が見つかれば、資本と政治が放っておくはずがない。野生生物保護区に指定したいNGO、島民排除に動く政府、先住民の権利を擁護する活動家、観光開発をもくろむ企業。ODAによる空港建設計画が持ち上がり、反対運動が盛り上がって、コングは次第に「自然保護運動のシンボル」に祭り上げられていくだろう。

一方、文化と歴史をめぐる闘争も激化する。もちろん「ドクロ島」は、植民地主義批判の中で現地語の島名に改められる。住民はコングの返還と損害賠償を求めて提訴。かつての供犠の儀礼は人権侵害だと批判され、人権に配慮した観光儀礼として復活するが、人類学者は「つくられた伝統である」と暴露。世界中の人類学者と報道関係者が島に押し寄せ、調査地被害の問題も浮上。

そうこうするうちに、遺伝子資源をめぐる諸問題が明らかになる。外来種の霊長類がこの島で野生化。固有種コングとの混血を防ぐための根絶計画は、動物の福祉の観点から非難される。多国籍企業が遺伝子資源の特許を独占しようとして叩かれる。ニューヨークでコングに引っ掻かれた傷が元と考えられるウィルス感染が報告され、アメリカの大都市は全面封鎖。全世界は新しい感染症の予感におびえることになる…。

今の時代に『キング・コング』を撮り直すなら、このくらいはやってもらわないとね。そうすれば、植民地主義批判と文化の多様性を念頭に置きつつ、人間と自然の共存をしっかり考えることのできる映画ができると思います。(2005年12月23日)


■この小柄な老人がなぜ

『ヒトラー 最期の12日間』
監督: オリヴァー・ヒルシュビーゲル, 2004年, ドイツ, 配給: ギャガ・コミュニケーションズ.

1945年4月末、ソ連軍が包囲するベルリン。敗北間近のナチス中枢の人々が、総統官邸の地下室で繰り広げる日常を描く。ヒトラーの秘書を務めた女性の回想録などを元にした、史実に忠実な(と思われる)歴史ドラマである。

ベルリン陥落を前に、非現実的な指令を下し続けるヒトラー、離反して和平を画策する幹部らの動き、そして総統と側近らの自殺など、戦争末期の緊迫した状況を追う。あわせて、子どもたちや職員、愛犬などに接する時のヒトラーの優しげなふるまいや、彼を敬愛してやまない人たちの様子など、人々の情緒的な面を多く描いている。作品の2時間半のほとんどは、官邸地下室に視点を固定しており、観客は滅びの時が迫る密室の中に身を置いて、人々が織りなす濃いドラマを見続けることになる。

私の印象は、「この小柄な老人が、なぜあんな恐ろしいことを引き起こせたのか?」というものだ。ヒトラーは、合理的な戦略よりも、ある種の美意識で動く(かつ人を動かす)人物であったらしい。ただ、この程度のかんしゃく持ちのじいさんだったら、世界中に何千万人といることだろう。どうして彼の場合にかぎって、世界史に名を残すほどの悪行を実行できてしまったのか。映画ではヒトラーという人物があまりに等身大に描かれているため、かえってその落差が不思議に感じられた。おそらくは、彼の思いつきを忠実に実行に移していった周囲(政治家、官僚、軍人、科学者、実業家など)の体制の問題でもあったのだろう。

この映画はヒトラーの人間的な側面を描いた作品として、地元ドイツでも評判を呼んだらしい。元凶をタブーにせずありていに描き出そうとする試みを、私は支持したい。現実を直視した上で「なぜこの人が」「だれがさせてしまったのか」「暴走を止める手だてはなかったのか」などの議論が起これば、何らかの教訓ともなるだろうからである。今後のドイツでの議論にも注目したいところだ。

なお、映画のヒトラーは、実写映像で見たことのある本物にそっくりだった。演技力に敬服するとともに、この大役に挑んだ俳優に変なイメージがはり付けられないか、ちょっと心配である。(2005年8月27日)


■極限的な場所から考える

『アウシュビッツ』(全5回シリーズ)
Auschwitz: the Nazis & the "Final Solution," BBC.
2005年8月16-19日, NHK総合テレビ.
(1) 大量虐殺への道 (2) 死の工場 (3) 収容所の番人たち (4) 加速する殺戮 (5) 解放と復讐

BBC制作のドキュメンタリー。強制収容所の成立から、ドイツ敗戦後の責任追及のくだりまで、アウシュビッツの歴史を丹念に追う。

ポーランドに設置された政治犯のための小さな収容所が、対ソ戦の深まりにつれてソ連兵捕虜の収容所へ、やがてナチス支配下のヨーロッパ諸国から移送されるユダヤ人の大量殺害を引き受ける場所へと性格を変えていく様子を、時代順に紹介する。また、戦後のソ連による元囚人の再収容、生還したが財産権を回復できなかったユダヤ人の苦しみなど、アウシュビッツの後遺症までを伝えている。元囚人や元親衛隊員の証言を中心に、各種資料や写真、実写映像を活用し、またCGや再現映像(ドラマ)をまじえた効果的な演出をしている。

この作品の特色は、徹底してアウシュビッツという一つの場所にとどまったことである。ユダヤ人虐殺については、「なぜ起こったのか」という関心のもと、ナチスの人種思想やドイツの国民感情など、虐殺を指示した側に焦点が当てられがちだが、この作品では、虐殺が「いかに起こったのか」を、指示された側の視点で見ることができる。

3人の親衛隊員と100人の囚人がチームを作り、殺害に関わる特別任務についていた。その囚人たちが反乱を起こして親衛隊員を殺したが、全員が報復で殺された。ポーランド人とユダヤ人とで処遇が異なっていた。若い女性たちは比較的待遇のよい労働につく一方、性暴力にもさらされた。優良男性囚人のための慰安施設があった。ロマの人たちが一斉に殺害されたとき、その声が聞こえた。あたかも、この極限的な場所を丹念にフィールドワークして歩くような構成である。ナチス上部の政策決定プロセスがあまり描かれないため、かえって「なぜこんなことをさせられたのか」を、擬似的に現場から考えることができるようだ。

最終回では、かつて親衛隊員としてここに勤務した高齢男性が、重い口を開く。自分は自由のないあの時代の中で最善の道を選んだだけだ、と責任を逃れようとする口ぶりからは、彼はこの番組では悪役の側に置かれているように見える。しかし、その彼がなぜインタビューに応じ、収容所の実態を語ったのか。それは、虐殺をなかったものとする昨今の主張に抗するためだ、と言う。

番組のねらいは、元関係者の責任を追及することよりも、歴史を忘れたり歪めたりしかねない今の私たちの責務を確かめることにあるようだ。元親衛隊員の保身的な言い方を許し、歴史に対する責任の取り方をそのまま視聴者に示すという番組の作りに、その大きな意図を感じることができる。(2005年8月25日)


■靖国問題の隠された公理

高橋哲哉. 2005.『靖国問題』東京: 筑摩書房.

東大教授で哲学を専門とする著者が、靖国神社をめぐる諸問題を論理的に解きほぐし、感情論になりがちなこの問題を整理する。

主な5つの章は、それぞれ「感情」「歴史認識」「宗教」「文化」「国立追悼施設」をテーマとし、それぞれの角度から靖国に分析を加えていく。靖国問題とは歴史・外交問題にとどまらず、自衛隊と日本国をどうするつもりなのかという近未来の問題でもあることを明らかにし、論理的に導かれる結論として、最終章で4項目の明快な提言を行う。

印象に残るのは、論理を丹念に検証しつつ、じわじわと原因を包囲していく手法である。たとえば著者は、日本国憲法に基づくとされる新しい追悼施設の案がすでに「第二の靖国」となる論理を含んでいることを発見し、この問題の究極的な原因をあぶり出す。理詰めで将棋を指し進め、最後に王手をかけるような展開には、ミステリーにも似た面白さを感じた。もっとも、それがフィクションでなく現実の問題だと気づき、戦慄を覚えるのだが。

ところで、この「将棋」には、いくつかの隠された公理があるように思われる。著者が普遍的なものとして前提している価値が、行間にいくつも埋め込まれているのだ。たとえば、人命尊重、自己決定重視、反植民地主義など。それらを本書であえて明示していないのは、著者の巧みさでもあるのだろう。この本を素材に「公理探し」をしてみるのも、また面白い読み方かもしれない。(2005年8月17日)


■身もふたもないまとめ方を学ぶ

高橋昭男. 2005.『大切なことは60字で書ける』東京: 新潮社.

翻訳家で、テクニカルライティングの専門家による、「使える文章」術の本。全28のテーマ別講義で構成されており、文章は「やさしいことば」で「短く書く」ことが基本であると明解に主張する。

例として、ジョン・レノン「イマジン」の全歌詞を60字に要約してみせる。はっきり言って、身もふたもないまとめ方だ。しかし、人に伝える上では、このくらい思い切ってスリム化することが何よりも重要なのだと気づかされる。著者自らが、本書で簡潔な文体を実行しており、説得力がある。

中には「起承転結」「序破急」など、論文にはあまり推奨できないひな型も混ざっているが、読者の目的次第で読み流すこともできるだろう。全編を通して「分かりやすさ」への情熱が心地よく感じられる本である。(2005年7月1日)


■永田町の生態人類学

伊藤惇夫. 2005.『政治の数字: 日本一腹が立つデータブック』東京: 新潮社.

政党職員を勤めた経験のある政治アナリストによる、政官界の暴露本。

全5章で、官僚の世界、議員の日常生活、政党と政治家、選挙、権力闘争の話題を集めている。47篇のエッセイはどれも「754億円」「36分の4」というような数字をタイトルとし、その謎解きをしながら裏話を明かす。「この世界は一般社会と一桁違う感覚で動いている」という主張が、データで明解に示されていく。

本書の第一の論点は、常識はずれの金銭感覚の告発である。パンフ1ページあたり3万円以上の校正料を受け取っている人たちがいる、なんていう話を読むと、確かにわが身をふり返りつつ憤らざるをえないではないか。次に、情報公開。議員1人の報酬と経費の合計は年間6300万円と明かし、これは高いか安いかと問う。また、有権者への意見もこめられている。投票を棄権したら、選挙のために使われる1人当たり754円の税金がまったくのムダ金になるという。白票でもいいから入れに行けという意見は、なるほど説得力がある。

腹を立てるかどうかは別として、数字にすればこそ明らかになる事実があり、説得力が増す意見がある。それらを短い文章で分かりやすく読ませるというスタイルからも、学ぶところがあった。

著者は民主党に勤めた人であるがゆえに、やや民主党びいきの筆致になっているが、それもご愛嬌か。なお、本書はまとめを置かずにいかにも唐突に終わるが、これぞというデータを最後に置いて、全体的な提言とする手もあったのではないか。(2005年6月27日)


■教科書に描かれないパン・アフリカニズム

長田衛. 1993.『評伝マルコムX: 黒人は叛逆する』東京: 第三書館.

1965年、ニューヨークでの暗殺現場にも居合わせた著者による、マルコムXの評伝。彼の生い立ち、思想と運動の軌跡、衝撃的な暗殺、その遺産としての90年代のアメリカ黒人運動までを描いたルポルタージュ。1960年代のアフリカ諸国独立の息吹にも呼応しつつ興隆したアメリカの黒人運動、その時代の空気を追体験できる迫真のリポートだ。キング牧師に代表される公民権運動指導者への激しい批判が、時として感情的で読みづらいくだりもあるが、それも含めて同時代の息づかいを伝える記録だ。世界史の教科書には描かれない "第二、第三のパン・アフリカニズム" のうねりを感じることができる。(2005/04/06)


■今の二倍働けますか

石浦章一. 2005.『東大教授の通信簿: 「授業評価」で見えてきた東京大学』東京: 平凡社.

東大教養学部で行われるようになった授業評価の実態について、現役教授が内側からレポート。東大の教育システムから、授業評価導入のいきさつ、結果、教員の反応、大学の将来像までを新書にコンパクトにまとめ、授業の質の向上を通じた大学教育の改革を訴える。興味深かったのは「研究を一生懸命やっている教員は、教育にも熱心」という傾向を指摘していること。教育に時間を取られる人は研究ができない、というような通説をデータで反証し、大学教員に「今の二倍働こう」と呼びかける。競争が激化する日本の大学業界における、痛快なメッセージだ。ただ、本書は学内の抵抗勢力を戯画的に描きすぎて、どこか内輪受けの雰囲気がつきまとう。余裕をもって持論を世に問えば、もっとスケールの大きな大学論になっただろう。(2005/04/02)


■ビッグマックの前の自己決定

『スーパーサイズ・ミー』
監督: モーガン・スパーロック, 2004, アメリカ, ドキュメンタリー.

「30日間、毎日3食マクドナルドの商品だけを食べ続けたら、体はどうなるか」。この人体実験に自ら挑んだ映画監督のドキュメンタリー。健康へのあからさまな悪影響を映像とデータで示し、営利主義のファストフード企業、外食に依存する市民の価値観、黙認・利用する学校教育に対して、文字通り「体を張った批判」を展開する。

最大の特徴は、その分かりやすさ。体重をはじめ多くの検査値が急激に変化する。何より、被験者である監督の表情がだんだんと曇り、言動が次第に物憂くなっていく。実験の後遺症から回復するために何倍もの年月を要したという後日談も印象的だ。栄養教育のために、学校で巡回上映したらどうだろう。

私は、アメリカの大学に滞在したとき、学食のランチの分量と塩分と油の多さに辟易してしまった経験を思い出した。あれを毎日食べていたら…うん、確かに映画のとおりになるだろうなと思う。

アメリカは不思議な国である。公正さと選択肢の用意に至上の価値を置く社会。たとえば、さっきの同じ学食でコーヒーを飲もうと思えば、「普通 Regular」と「カフェイン抜き Decaf」の二つのボトルがいつも置いてあった。カフェインを望まない客のための選択肢を必ず用意する国でもある。

公正に選択権を手にしているはずのこの国の人々が、いま「食べさせられ過ぎて」肥満に苦しんでいる。そこに、アメリカ人が、言うほど選択肢を自分の幸せのために使えていない実態を見てしまったように思う。

映画は、給食会社が「子どもに選択することを学ばせるために」と、学校でお菓子や甘いジュースをふんだんに出し、子どもたちがそれらに飛びついていく様を映し出す。自己決定にきわめて敏感な社会が、きちんと選べないこともある人間の弱さにどう向き合っていくか。「ビッグマック食べ過ぎて、オェーゲロゲロ…」というようなギャグめいたシーンが続く中に、アメリカ社会に対する根源的な洞察と問題提起が埋め込まれているように思われた。(2005年1月12日)

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