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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

読書日記・映画日記: 2007年

日本語 / English / Français
最終更新: 2007年11月8日

■『シッコ』(2007/11/08)
■『情報のさばき方』(2007/06/27)
■『新聞社』(2007/05/21)
■『ブラッド・ダイヤモンド』 (2007/05/05)
■『「社会調査」のウソ』(2007/02/02)
■『環境問題の杞憂』(2007/01/28)
■『私家版・ユダヤ文化論』(2007/01/04)


■むしろ国家をきちんとやろう、という映画
『シッコ』("SICKO," 監督: マイケル・ムーア, 2007年, 123分, アメリカ)

マイケル・ムーアの新作。アメリカの医療制度の問題を取り上げたドキュメンタリーである。

国民皆保険制度がなく、医療保険が民間企業のビジネスにゆだねられているアメリカ。保険の非加入者ばかりか、保険会社の営利優先の経営方針によって、加入者の健康までもが危うい状態に置かれているという現状に警鐘を鳴らす。

治療費が払えない入院患者を病院がタクシーに乗せ、路上に捨ててしまう瞬間の映像を公開するなど、インパクトのある手法は健在だ。取り上げている事例はやや極端なものかもしれないが、世界一金持ちであるはずの国で起きている現実の一こまを強烈に見せつける。

『華氏911』で、はじけるような笑いと挑発的な大統領落選キャンペーンを巻き起こしたムーアだが、今回の作品にはどことなく沈鬱な空気がただよっている。巨悪を退治する痛快なドラマではなく、「なぜ自分たちはこんな国しかもてないのだろう」と、アメリカ人の無力さを悲しんでいるようにも見えた。

国家の幻想が崩れ落ちていくこの時代にあって、アメリカはまず国家をきちんとやろうではないかというこの映画のメッセージは、今だからこそ注目に値するのかもしれない。(2007/11/08)


■蔵書を失った愛書家の心境
外岡秀俊. 2006.『情報のさばき方: 新聞記者の実戦ヒント』東京: 朝日新聞社.

朝日新聞東京本社編集局長による、仕事術指南の書。新聞記者30年の経験に基づいて、取材のテクニックや紙面作りのコツ、著者の失敗談などもまじえながら、氾濫する情報への対処法を説き、あわせてジャーナリストとしての姿勢を論じる。そして「情報力」を高める要点を、簡潔な五カ条の基本原則にまとめる。

この本の特色をよく示す原則を、一つ紹介したい。
「基本原則1: 情報力の基本はインデックス情報である」

新聞記者は、なにも社会の森羅万象に通じている必要もなければ、膨大な資料や蔵書を抱え込む必要もない。「どこに行けば、誰に聞けば確かな情報を得られるのか」(さくいん)さえ把握していれば、必要な時に必要なだけの知見を得られると言う。それゆえ、本は読み終えたらすぐに処分してしまうと。

著者がこの境地に達するきっかけとなった、衝撃的な逸話が本書で紹介される。かつて著者は無類の本好きだったが、転居の時の事故により、数十箱の蔵書を一度に失ってしまった。直後は落胆のきわみにあったが、数日で立ち直り、むしろ本をもたないことの爽快さを味わったと言う。以後、物としての本への執着はなくなり、必要な情報だけを必要に応じて入手する「インデックス」原則をとるようになったそうだ。

私たちは、研究の資源たる知識への執着を強くもつ。それは当然の姿勢でありながら、ときとして「知識資源」と「物としての本」を混同し、不要に後者ばかりをためこんでは機能不全に陥ることがある。

本当に必要なのは本というモノではなく、有益な情報であり、それをもつ有益な知人たちである。そういうさばけた情報術を学ぶことができる。若手新聞記者向けの指南書という性質が強いものの、読み方次第では研究者にも有用なメッセージとなるだろう。(2007/06/27)


■新聞産業を通して見た戦後社会史
河内孝. 2007.『新聞社: 破綻したビジネスモデル』東京: 新潮社.

元毎日新聞記者で同社常務取締役を務めた著者による、新聞業界の再生に向けた提言の書。

冒頭、読売新聞の渡邉恒雄主筆が朝日新聞社『論座』誌上で、「読売新聞と朝日新聞は生き残らなきゃいかん」と述べたというエピソードが紹介される。「勝ち組」二大紙が主導する新聞業界再編のきざしを、不気味な形で予言しているのだろうか。このことばを「ほかはつぶれてもいいのか」と受け取った著者は、当時毎日新聞の経営陣の一角にあった。

本書は、紙面には載らない新聞社経営の実態に光を当てる。補助金漬けの販売拡張競争、不明瞭な部数調査、テレビ局との癒着、新聞紙大量廃棄に伴う環境への負荷、そして後をたたない強引な勧誘。インターネットや携帯電話の普及におされて読者の新聞離れを招きながらも、抜本的改革にふみこめない新聞社の現状を明らかにし、来たるべき新聞の役割と改革の道筋を提言する。新聞の今日とその背景を学ぶ中で、テレビを含む戦後日本のマスメディア史を概観することもできる。

本書の魅力は、大胆な提言にあるだろう。新聞業界再生の策として、著者は毎日と産経が組むことを提言する。コストダウンを図るとともに、地方紙とも共闘することで、読売、朝日に対抗する第三極を確保しようという。二大紙による言論の寡占状態を防ぎ、多様な言論活動を保障する可能性にかけようという著者の気概を買いたい。

新聞の盛衰には、日本社会が映りこんでいる。新聞の興隆は都市化と核家族化の進行とともにあり、新聞の退潮は中流幻想の崩壊とも重なった。ネットが自分だけのための情報を手際よく集めてくれる今日、「やっと一戸建てに入れたのだから、これからは朝日を取る」と真顔で話していたような新聞と人びとの絆は、確かに薄れつつあるのかもしれない。新聞産業というレンズを通して見た一つの戦後社会史という角度からも、興味深く読むことができた。(2007年5月21日)


■二つの資源──ダイヤモンドと子どもたち

『ブラッド・ダイヤモンド』
(Blood Diamond, エドワード・ズウィック監督, 2006年, アメリカ)

西アフリカ、シエラレオネ共和国の内戦とダイヤモンド密輸をテーマとした映画。フィクションだが、史実をふまえてつくられた作品である。

反政府勢力に村を襲撃され、一家離散の目にあった漁師の男性。彼が強制労働に従事させられていたときに発見した巨大なダイヤモンドをめぐって、反政府勢力、旧ローデシア出身の白人密売人、アメリカのジャーナリスト、南アフリカの傭兵部隊、ロンドンのダイヤモンド企業などが加わった、争奪と告発のドラマが繰り広げられる。このストーリーを中心に、凄惨な内戦、虐殺と暴行、児童の拉致、少年兵、難民などの諸問題が映し出される。

この映画は、二つの「資源」に関心を寄せている。一つはダイヤモンド、もう一つは子どもたちだ。

この国はダイヤモンドを産出するが、それゆえに反政府勢力が勢力圏で採掘・密輸し、武器を手に入れる。また、隣国の協力者やヨーロッパの企業が密輸に便宜をはかり、側面支援する。傭兵会社は、内戦が続くことをビジネスチャンスととらえている。地下資源の豊かさが、かえって住民の悲劇と困窮とを招いているという図式が明らかにされる。

一方、この社会の人的資源となるはずの子どもたちは、武装勢力に拉致され、銃を持たされ、薬物を使わされ、殺戮部隊の最前列に並ばされる。少年たちがカラシニコフを振り上げて、表向きは意気揚々と、しかし時におびえた目をして戦列に並んでいるさまは、この国が将来にわたって背負うことになる重い課題を示している。

「資源は人びとに幸福をもたらす」。グローバルにはそうかもしれないが、局所的には成り立たない。ダイヤモンドさえなければ、この国にこれほど大量の銃が出回ることはなかっただろうからだ。「この国に石油がなくてよかった」ということばを古老につぶやかせるこの映画は、徹底して「資源の呪い」を視聴者に訴える。それはあわせて、実態を学ばずに宝石に群がる経済大国の消費者への警告でもある。

ただし、この作品はもう一つの資源を確かに見据えているにちがいない。漁師の男性は、自らが秘匿したダイヤモンドを探し出す旅の中で、拉致されて反政府勢力の少年兵とされた息子の姿を追い続ける。同行する白人密売人も、使命がダイヤモンドの奪取だけではないことを言動で示し始める。いささかキザな演出を伴ってはいるものの、「二つ目の資源=子どもたち」への希望を示す物語として受け止めることもできるだろう。

アフリカ大陸に生まれ育った白人の苦悩、南アによるアンゴラへの軍事介入、ベルギーによる過酷な植民地支配など、アフリカ近現代史のさまざまな要素を刻み込んだ作品としても鑑賞したい。(2007/05/05)


■社会調査はネット投票に勝つことができるか

谷岡一郎. 2000.『「社会調査」のウソ: リサーチ・リテラシーのすすめ』東京: 文藝春秋.

大阪商業大学教授で社会調査論を専門とする著者による、社会調査のガイド。もっとも、その手法は本人も「少々過激」と述べているように、多くの調査事例を実名で批判しながら注意点を解説するという「悪い事例集」の性格をもつ。

本書は多くの社会調査が「ゴミ」であるとし、それを生み出す主なグループとしてマスコミと研究者をやり玉に挙げる。また、社会調査のどの段階で誤りが生じるのかを調査実施手順に沿って解説し、最後に調査が本物であるかどうかを見きわめる能力(リサーチ・リテラシー)の必要性を説く。

本書の最大の特長は、分かりやすさである。新聞や論文で公表された社会調査の例を挙げ、クイズ形式で「どこが誤っているか」と問うなど、読み進めるごとにそのポイントが明快に理解できる。調査法を学ぶという立場で読めば、痛快な指摘を楽しめるし、調査を行ってきた研究者という立場で読めば、ヒヤリとさせられる場面もある。辛口のコメントに愉快さとスリルとの両面を感じつつ、科学的な手続きをふまえた社会調査の方法と姿勢を学ぶことができる。

本書が刊行されて7年がたった。ITの普及にともない、社会調査の環境は激変している。検索サイトが情報を序列化し、ネット投票の結果が社会事象を映したものと理解される。こういう科学的な手続きを経ていない情報の氾濫は、著者によれば「またゴミが増えた」ということになるのだろう。

科学的厳密さを追求する社会調査は、ネット投票の「現実らしさ」を超える認識に迫ることができるだろうか。一言居士の苦言は、この時代だからこそいっそうその重要さを増しているように思われる。(2007年2月2日)


■環境をめぐる二つの市民社会像

藤倉良. 2006.『環境問題の杞憂』東京: 新潮社.

元環境庁技官で法政大学教授の著者による、環境を科学することのすすめ。環境問題をイメージではなく、自然科学の知識により正しく理解することを説く。

本書では、せっけんと合成洗剤で環境に負荷をかけるのはどちらか、ドイツが日本より環境先進国であるというのは本当か、江戸が循環型の大都市であったというのは事実か、など、一般にイメージで理解されがちな問題を例示し、データ、知識、リスクの分析に基づきつつ、私たちの思い込みに再検討を迫る。

世の中に100%安全な食品はない。ある種の物質の排出をゼロにすることもできない。結局は手持ちのデータからリスクを予測し、最後は「えいっ」と気合いで基準を決めるしかない。そして規制を厳しくすればするほどコストは上がっていく。こうした指摘は、実際に環境政策を立案する側にいた科学者の言として説得力がある。環境をめぐる基準も規制も、結局は人の手によってつくられているのだという事実を学びながら、読者は科学者の環境観を疑似体験できるかのようである。

本書が想定する市民社会には、二つの像が奇妙に同居している。一つは、科学的知識にもとづいてリスクを予見し、合理的に判断する啓発された科学者としての市民たち。もう一つは、環境税という強力な政策によって特定の方向に導かれるのを待っている民の群れ。著者はどちらかの極論を述べるわけでないが、読み進めるごとにこの二つの姿が代わる代わる行間ににじみ出る。

「健康と安心の物語」を求め、いささか頼りない知識とともに判断したり思考停止したりすることをやめられない現実の私たちは、「環境問題」という鏡の前においてどちらに自画像を見いだすのだろうか。(2007年1月28日)


■構築主義を揺るがすドン・キホーテ

内田樹. 2006.『私家版・ユダヤ文化論』東京: 文藝春秋.

神戸女学院大学教授であり、フランス現代思想を専門とする著者による、30年来のユダヤ人問題研究の総集編。◆ユダヤ人問題を語ることの困難さを伝えることが全編をつらぬくメッセージでありつつ、近代日本における各種ユダヤ論者や、フランスの反ユダヤ主義の系譜など、多士済々の論者を登壇させるうんちくに富んだ書物。◆「ユダヤ人」について、著者は限りなく状況説に近い実体説をとっているようだ。「ユダヤ人は他の人たちによってつくられた」という思想(サルトルなど)を最大限引っ張りつつ、それでもなお「ユダヤ人にしか見られない特性がある」という見解(レヴィナスなど)を擁護している。「ユダヤ人はつくられたものにすぎない」と100回述べたところで、「ユダヤ人」が実体として立ち現れてしまう現実に、氏は愚直に斬り込んでいく。そのドン・キホーテのようなふるまいは、実は構築主義にとっての脅威でもある。◆「民族とは何か」というのは人類学の永遠のテーマだし、それをどう学生に平易に教えるかは人類学の授業をする大学教師の最大の試練である。ユダヤ人問題を奇貨とし、民族一般をどう引き受けて発信するのか。賽はおそらく人類学者の側に投げられたのである。(2007年1月4日)

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