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ILCAA

『アクション別フィールドワーク入門』
関連エッセイ

武田 丈亀井伸孝
世界思想社
2008年3月
最終更新: 2008年11月10日

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■九州人類学研究会オータム・セミナーのセッション報告 (2008年11月10日掲載)

2008年10月25日、福岡県飯塚市サンビレッジ茜で、第7回九州人類学研究会オータム・セミナーが開催され、『アクション別フィールドワーク入門』の共著者らを中心とする、本書と関連の深いセッション「アクションを待つフィールド」が行われた。

□セッション「アクションを待つフィールド」の概要

コーディネーター:飯嶋秀治(九州大学大学院)
 「共生社会システム論の核」
内藤順子(日本学術振興会特別研究員)
 「生きる文脈の交錯する現場から:開発プロジェクトで<利用される>」
亀井伸孝(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
 「少数言語と研究者: 学ぶ、話す、暮らす」
辰己佳寿子(山口大学エクステンションセンター)
 「むら社会と出逢う:みえてきた様々な境界線」
コメンテーター:山室敦嗣(福岡工業大学)

※詳細はこちらをご覧ください

□自由討論の要旨(●質問やコメント/○登壇者からの回答)

【コメンテータより】
●学問を「答える学問/問う学問」に大別すると、いま前者が強い傾向がある。たとえば環境社会学(とくに原発研究)では、すぐに賛否や政策提言を求められてしまう。
●「問い-答える」という人間の根本的な営みが重要であり、かつ深く上手に問うことが必要である。その際、フィールドの人の方が切実な立場にあって自分よりもよく考えているということに気付き、それらを手がかりに自分の問いを鍛えていきたいと考えている。
●生き方としての学問である。学生の調査教育などで「問う」ことが欠落してしまうと、「畳の上の水練」同然となってしまう。問いを残し、積み重ねていかないといけない。

【自由質疑/討論】
●そこで、全員への質問になるが、現場の切実な問いを感じた例はあるか。また、現場の問いと研究の理論的テーマとのつながりは何か。

○少数言語をめぐる切実な課題はいつも感じているが、「異なるふたつの言語集団がある」というにとどまらない、非対称な関係がある。マジョリティ聴者はろう者のことを忘れてふるまうことができるが、マイノリティろう者は聴者のことを忘れてふるまうことができず、職場でも家庭でも常に「ことばの通じない多数派」のことを勘案しながら行動することを余儀なくされる。国民や市民、地域住民などの帰属よりもまず「手話を話すわれわれ」を立て、音声言語集団との距離の取り方を考えるという傾向を感じる。その距離の取り方は地域や集団によりさまざま。

よって、私の理論的関心としては、ろう者社会と聴者社会との距離の取り方の多様性がある。アフリカのように独立性が高いが干渉もないあり方、逆に日本のように聴者からの干渉の強いあり方など。広くデータを集めて比較してみたい。その理論的なテーマの追究が、ろう者たちが現場で切実に感じている多くの課題、ろう教育、通訳者育成、手話普及、一般啓発などの問題に対処するいとぐちとなることを期待したい。

○過疎化、少子高齢化と単純な問題設定をしたのは軽率だった。この裏にある様々な問題を紐解いていく作業が必要で、その方法のひとつがフィールドワークなのかなと思う。例えば、この「化」のスピードや条件は地域によって異なるのに、どこもこぞってグリーンツーリズムや人口増加対策等の一律的な傾向に陥っている現状。本当にそれでよいのか。そう思っていても、一生懸命、それらに取り組んでいる住民にはなかなか言えない…。そんなとき、ある人が、「過疎って悪いことですか?」という問いを発した。おそらく、その言葉が、集落をどう閉じていくのか、閉じ方を、住民だけでなくよそ者も、本気で考える契機になったように思う。

[理論的テーマとのつながりは、セッションでは、お答えできなかったので、人類学とはちょっとずれるかもしれないが、追加する]かつて、農村社会学において、戦後、むらを近代化の阻害要因「封建遺制」として捉えた共同体論の後、1970年代に、共同体的機能を集落自治の基盤として見直す「むら再評価論」が登場し、そして、理念型的二項対立のなかの円環運動から抜け出ていないといわれていた。これらは過去の議論であり、今は下火になってしまったような感があるが、私は、この過程を踏まえたうえで、現在のむらをどう位置づけるのか、どう捉えるのか、ということを検討していきたいと思っている。さらに、「共同体論」として理論的に確立しているが、「むら再評価論」は現場重視で、イデオロギー的な運動論で終わっているともいわれているので、ここにも、アクションと研究の狭間における研究者の格闘が存在しているような気がしている。

○「動くべきだ」というのではなく、「動けた方がいいだろう」というのが私の認識で、他の場所でもそうした理解をされたのだが、「動きながら考える」の「考える」には、理解が含まれている。ところが、臨床の場合、問題を抱えている当事者がある種の情報を意図的に隠していたり、話されなかったりする事があるので、「動く」ことでけしかけることもある。けれどもそう考えれば、人類学のフィールドワークでも同じようなものがあり、何年かフィールドに通って初めて分かることもある。なので、両者の距離は想定されがちなものよりも、実際には近いと考えている。

文化人類学会ではコメンテータから、アクションから学問への還流の重要性(「研究に資するアクション」)についての指摘があった。けれども逆に、学問からアクションへの還流(「動きに資する研究」)はないのですか?と問うてもいいと思う。

●今日の発表は、(辰己さんの発表はちょっと違ったが)みな従来型の native's point of view の話ではないか。それを超えようとするセッションの全体趣旨は反映されているのか。また、現地調査において native の言語を用いるべきだという議論は、以前からなされているはずである。

○from the native's point of view を否定したつもりはない。ただ、それはホームで論文を書く際の役割分担のあり方であって、フィールドでは全人格的に巻き込まれることがある。そんなときに、あれこれのアクションを迫られることがあり(e.g.ピナトゥボ火山の噴火の時に清水展さんは「調査」はしなかった)、ホームに戻ってきてからの「理論人類学」とか「実践人類学」とかの両極での立ち位置を意識する前に、フィールドでの状況と、そのアクションの知恵を集めようというのが趣旨。なので、from the native's point of view はあっていい。ただ「それだけ」でやろうとしなくてもいいだろうということ。そうすれば人類学はもっと豊かな学問になれると思っている。

○手話をめぐる研究の取り組みについては、まずもって研究者らが native's point of view の認識のレベルに達することが必要であるという現状がある。また、音声言語マイノリティの場合は、マジョリティ言語(英語など)を用いて声をあげることもできるが、ろう者の場合は身体的に大言語への同化が困難な人びとであり、たとえばマイノリティとマジョリティのそれぞれのあり方について対話しようにも、まず手話通訳が必要であり、手話が共通言語とならざるを得ない。そのふたつの意味で、手話の使用をとくに強調する必要がある。

●理解から実践へと振れた70-80年代の議論があった。それは重要だし、あってよい。ただ、それぞれの課題の速度や緊急度が違うので、それぞれなりの戦略が必要。一緒くたに語るのはまずいのではないか。

●媒介者としてのフィールドワーカーであるならば、そこをアクションと呼ぶという理解でよいか。理解するだけでなく一緒に行動するという意味か。

○[質疑の際には上手く理解し得なかったので、ここでは応答を補う]最高峰の人と最底辺の両方に渡りをつけられるのは人類学者である。一種のリソースである。「行動」にもいろいろあるので、Aさんに「Bさんがこんなこと言ってましたよ」と伝えて関係を良くするのもアクションになるだろうから、この質問で想定されているであろう、「行動」に当てはまらないような世間話も「アクション」には入ると思う。

●自分のたずさわる呪術研究と、ここで論じられているアクションは、どうもそぐわない。呪術の前においてフィールドワーカーは圧倒的に無力である。アクション論は、自己決定・自己責任に代表されるようなネオリベ的な主体とどう違うのか。

○ネオリベなどの問題設定以前に「すでに動いている私たちがいる」という認識に立って本を編んだ。

○新しいアクションを一個ずつ付け加えていこう、というよりも、「すでに手を染めているのだからそれを直視しましょう」という視角の提案。こうすべきだ、というよりも、これまでどんなことをしてきましたか?という問いを発し続け、アクションの収集をしていきたい。

●アクションとは能動的なものか受動的なものか。

○状況にまきこまれながら行われることもあるため、二分できない。なお、フィールドワーカーが超越的な主体としてアクションの自己決定権を独占しているのではないことだけは確かである。

●人類学者は非常に非力な存在である。現地でのアクションや実践を叫ぶのは自意識過剰ではないか。

○確かに、開発プロジェクトなどの方が、現実を大きく変える力を持っている。しかし、人類学者はさまざまな立場の人に直接アプローチする(行き来する)能力を持っており、それが寄与する面は大きいはずである。

●アクションというのは、ことさらに言わなくても、誰もがやっていることではないのか。

○それが酒場の会話や裏話になっていて、その知恵を集めてみることで学びあおうというのが本来の趣旨(論文ではその部分は現れてこないので)。

●あれでは運動家と変わりがなくなってしまうのではないか。学問は現地に寄り添う点では運動家のようにはできないのだから、むしろそこから引いて相対化するのが学問的な真摯さではないか。

○まずは「そうしなければならない」と言っている訳ではない。その上で、「運動家と変わりがなくなってしまう」という場合、「運動」と「学問」が別のものとして想定されているようではあるけれども、臨床心理学や社会工学などは、働きかけることの論文化が学問になるので、運動と学問が別にならない領域がある。また、「運動」家のようにやれなければ「学問」的になると設定すると、いかにも相互排他的な考えになってしまうけれど、その間に立つ存在がいることによって、フィールドで、運動家には支援できない領域に、そうしたアクションが相手の選択肢を多数・多様化する余地があると考えているので、AでなければB(のはず)だ、と考えることはないと思っているし、それは独自の意味をもつ領域だと思っている。

●今回の発表は研究者にむかってのものであり、論文というのはまずもって研究者内での評価を求めるものだろう。その人たちに向かってアクションを呼びかけるのは、いったいどういう意味があるのか。

○臨床心理学や社会工学などのような学問領域の場合、学会内での論文の評価は、そこが最終目的になるわけではなく、学会の査読等は社会に働きかけるそのやり方のチェック機構としての意味を持つ。その場合、論文化を通じて、そのアクションが社会に戻ってゆくので、そこでの働きかけが目的となる。そうした領域を開いてもよかろうというのが趣旨で、その場合、「こういうアクションがある」というのを共有しておくと、フィールドワーカーの現場での動きも豊かになると思っている。

□セッションを終えて(コーディネータ: 飯嶋秀治
まず私自身の趣旨を皆さんに提出するのが遅れてしまったため、コ―ディネイターの発表の曖昧さやコ―ディネイターと発表者との間のギャップを問うていただいた皆様に感謝いたします。毎回この系統の発表をしてくるたびに、会場からの質問が、発表の何が足りなかったのか、次は何に気をつければいいのかを教えてくれるので、助かります。

私自身の発表としては、「native's point of view ではダメな領域がある」と受けとられたようなので、「native's point of view を含んだ上で、それだけでは解決しない状況でアクションをした結果、開かれ得たことを提示する」、と言えばギャップ感が緩められたかなぁ、と思いました。

また全体としてはやはり「研究」と「実践」、「理解」と「アクション」とを二律背反のようにして捉えられてしまうことが多いんだなぁ、と思いました。一見、自分はそんな風に考えていないと認識していたとしても、やはり学会のディシプリン内でやりとりをしていると、常に一定方向での言説の流れにしか身を浸していないので、いつの間にかそういう志向性になるんだろうなぁ、と。私自身は、「理解」と「アクション」は往環するものだと思っているので、フィールドでの状況を無視して優劣や前後を問題にしても、意味がないと感じており、そこで議論するよりは、フィールドで困って立ちすくんでいる人たちに「こんなやり方もありますよ」と声をかけていきたい気がします。また、学問も、社会の一部として養われつつ役割を期待されているようなところがあるので、その内部に幾つかの可能性を担っておくと、ふだん役に立たないと思っていた研究が、ある時代的な状況下で役に立つ、といった関係にあると思っています。それがお互いの「生の可能性を共有する」ということだと思うのです。


■現代人類学研究会の発表報告 (2008年9月28日掲載)

2008年9月27日、東京大学駒場キャンパスで、第56回現代人類学研究会が開催され、『アクション別フィールドワーク入門』の共著者らによる、本書と関連の深い特集企画「実践の人類学 パートII: アクションから見える調査の未来」が行われた。

□分科会発表の概要

「特集の趣旨」(亀井伸孝)および「カメルーンで森と人の共存の道をさぐる」(服部志帆)については、当日使用したパワーポイントの資料をダウンロードし、閲覧していただけます。
「特集の趣旨」 (PPT)
「カメルーンで森と人の共存の道をさぐる」 (PDF)

3件の発表要旨はこちらをご覧ください

□本特集企画者の感想(亀井伸孝)

学会とは異なり、1人あたり40分もの長い時間を使って、セッションが組まれた。3人の発表者の調査経験とそれにまつわるアクションの数かずを、豊かな具体例とともに聞くことができたのは、本特集企画者としてのみならず、いち参加者としてもたいへん有益な時間であった。

個別事例の詳細は要旨をご参照いただくとして、「石につまづいて、起き上がる」「同化するという武器」「転んでもなにかをつかむ」「活動を限定しない」「専門家になりに行く」「積み重ねる」「関与観察する」「動きながら考える」など、フィールドワーカーの様態や姿勢を示す豊かなキーワード(動詞)の数かずに出会えたことが、個人的にはいちばんの収穫であった。『アクション』の次の展開を検討するための、よい示唆をいただけたと思う。

会場で販売された『アクション別フィールドワーク入門』をご購入くださったみなさま、ありがとうございました。あわせて、本企画があることを知って本書をあらかじめ手に入れ、会場に持参して議論に参加くださった多くのみなさまにお会いできたことも、たいへんうれしいことでした。厚くお礼を申し上げます。

□おもな質問やコメント(自由討論の発言抜粋)

●実践には、責任が伴うのではないか。

○いくつかの責任がありうる。自分が勤務する組織・プロジェクトに対する責任もあれば、調査対象者に対する責任もある。

○「することの責任」だけでなく、「しないことの責任」も考えられる。たとえば何かの事件の現場にいながら観察だけしていて関与/介入しないと、かえって別のメッセージとともに受け取られるおそれがあるだろう。不幸や暴力の再生産につながってしまうかもしれない。

○実際には「非責任」と「全責任」の間で、その範囲があらかじめ決められるものではない。「責任論」は現代の私たちの文化の災因(化)論である。なので、「責任」の語彙の豊饒化を含めて、議論のアリーナに乗せるのが研究者の責任だろう。

●専門性の文化の違いについて。

○見込まれる成果が定められた開発プロジェクト、工期が決まっている建設計画など、事前のリサーチや関係構築がないままに進められる計画に人類学者が参加したりまきこまれたりすると、ひじょうに違和感を覚える。

○人類学者とは「現場に入ってからすべてが始まり」「専門家になりに行く」業種なので、その立場を他(多)分野の人に理解してもらうのにたいへん骨が折れる。

●プロジェクト前の準備や事後評価に、人類学者のまなざしを活かせないか。

○民博が関わるかたちで、人類学者が開発評価ミッションに参加する事例などがある。

○人類学者が事前準備に関わると、「このプロジェクトはやめよう」というような全否定の結論にいたることもあるだろうが(「ちゃぶ台ひっくり返し」)、それも含めて人類学のまなざしをいかすことが重要だ。

○事前の関係構築という場面に、人類学者の特技をいかせるのではないか。

○プロジェクトに事前に関わっていなくとも、プロジェクトをよりダメージの少ないものとし、より良いものにするのは、関係者の務めであろう。これは責任論が「ある」か「ない」かいう貧しい議論になりがちなのと同じく、プロジェクト論が「始まる段階で何かをする」のでなければ、「何も(大したことは)できない」といった議論になりがちなので、注意を要する。

○同様に、研究者でなければ何もしなくていいとか、研究者なら何もしなくていいという二分法もある。いずれも、この種の議論をすること自体に慣れていないため、議論が貧困化しているものと思われる。

●「実践」は専門家集団が担うのがいいか、それともあらゆるフィールドワーカーがそなえておくべき素養なのか。

○実践性は、すべてのフィールドワーカーがそなえるべき基礎的リテラシーの一種と考える。専門領域ができると、「実践みたいなめんどうくさいことは、その人たちにまかせればいい」というふうに、実践を直視しない研究者層を生んでしまうので。

○すべてのフィールドワーカーに必須とするのではなく、必要と考える人がアクセスできるような機会を設けるのがよい。たとえば、フィールドワークの実践性に関わる科目をつくって、選択できるようにするのはどうか。

○自分自身は個別の活動領域でアクションをしているが、専門領域ができることに対してはエールを送りたい。

○心理学などにおける「臨床」は、後から似たような現場に続いてやってくる研究者のことを考えて経験が積み重ねられている。人類学は、この姿勢に学ぶべきだ。これまでのフィールドでの各人の経験が、次の世代に引き継がれていかないことが問題である。

○今日の議論では、「積み重ねる」が重要なキーワードだと思う。


■国際開発学会の発表報告 (2008年6月8日掲載) お買い上げ御礼!

2008年6月7日、東京工業大学で開催された国際開発学会第9回春季大会で、『アクション別フィールドワーク入門』の著者のひとりである吉野太郎氏が、本書と関連の深い「大学と連携した途上国地方公教育環境におけるデジタルデバイド解消: モンゴルへの中古PC寄贈とオープンソースソフトウェア (OSS) 活用の効果について」と題したポスター発表を行った。

先週の文化人類学会に引き続き、本大会の会場にも世界思想社がブースを設けてくださった。今回も『アクション別フィールドワーク入門』がひじょうに目立つ形で並べられ、来場者の目を引いていた。

□エッセイ「はじめての国際開発学会」 …………… 吉野太郎(関西学院大学)

どきどきの、初の「国際開発学会」参加でしかも同時に初発表です。

ポスターセッション時には、おもに本を作った仲間とブータンのゾンカ語のIMEを作っているという亀井さんの友人など、亀井さんをはじめとする5人の仲間のありがたい来訪がありました。さらに、関西大学の方2名、東工大の方1名、文化人類学会で座長をしてくださった鈴木先生にも来ていただき、千客万来の有意義な時間をポスターの前で過ごすことができました。

ポスター発表-1
さらに、学会の懇親会時に、発表内容のSAKURAプロジェクトに関わりのある東工大の方2名、JICAの方1名、「理事会のためポスターが見られなくて残念だった」と言ってくださった学会長などなど、多くの方と交流を深めることができました。

総じて、今回、国際開発学会初参加・初発表の吉野にとって、「人のつながりのありがたさの再確認と人脈拡大」を楽しむことができました。来訪くださった方に改めてお礼申し上げます。さまざまな注目と励ましを受けて、本の内容を論文・著書等により深めていかなければと改めて決意した所存です。

また、本の原稿で紹介している国連学生ボランティアプロジェクト (UNITeS) を一緒にさせていただいていた、関西学院大学教授・国連開発開発計画駐日代表の村田先生とも旧交を温める機会があり、またすばらしい講演を聴くことができ、「お得感」あふれる一日でした。

最後に。一番大切な本の販売実績はというと…。自己紹介のたびに名刺とセットで本のチラシを配り続けました。亀井さんの知人に1冊ご購入いただきました。またチラシをお渡しした東工大の方1名が「必ず買います」とおっしゃってくださいました。合計2冊の販売には貢献できたようです。

□ポスター発表詳細 ポスター発表-2

吉野太郎(関西学院大学)
「大学と連携した途上国地方公教育環境におけるデジタルデバイド解消:
 モンゴルへの中古PC寄贈とオープンソースソフトウェア (OSS) 活用の効果について」

国際開発学会第9回春季大会
2008年6月7日(土)12:00-13:10
東京工業大学大岡山キャンパス西9号館

[キーワード] モンゴル; リユースPC; 地方公教育; オープンソースソフトウェア (OSS)

★詳細は『国際開発学会第9回春季大会報告論文集』pp.251-254 を参照ください。


■文化人類学会の分科会報告 (2008年6月4日掲載) 世界思想社ブース

2008年6月1日、京都で開催された日本文化人類学会の大会で、『アクション別フィールドワーク入門』の著者たちによって構成される分科会「アクションというフィールド (Field of Actions)」が開催された。のべ50人ほどの参加を得て、実りある発表、コメント、質疑が行われた。

また、大会の会場に設けられた世界思想社のブースでは、本書がもっとも目立つ看板として掲げられ、来場者の目を釘付けにしていた。本書を担当くださった編集者のご尽力で、売り上げ冊数も上々の結果であったと聞いている。

□プログラム詳細

関連ニュース欄をご覧ください。

□分科会発表の概要

「趣旨説明」(分科会代表者: 亀井伸孝)については、こちらからパワーポイントをダウンロードし、閲覧していただけます。
[趣旨説明] (PPT)

5人の発表者の要旨は、こちらのサイトで公開されています。発表者氏名で検索を行えば、PDFの形式でダウンロードして閲覧していただけます。
日本文化人類学会研究大会発表要旨集

□分科会討論の概要 …………… 亀井伸孝(東京外国語大学) 分科会発表

「フィールドワークにおける調査者の個人的アクションをあつかう」という視点は新しく、また発表者らが繰り出すさまざまなフィールドでの挙動の紹介(しばしば実演付き)には、会場から笑いもこぼれていた。

コメンテータが指摘した通り、これまで「飲み会の場で語られるにふさわしい武勇伝」と見なされがちであったさまざまなことが、フィールドでの調査法のひとつとして脚光を浴びるきっかけをつくった、意義深い企画であったと思われる。

一方、今後とも検討が必要と思われるおもな論点として、以下の指摘が寄せられた。

(1) 個人のアクションと「研究」「実践」は、どのような関わりがあるか。アクションは、研究や実践にどのような寄与をするか。

(2) 調査者のアクションが向かう相手のことを知り、かつ考える必要があるのではないか。

(1) については、援助プロジェクトへの参加など、実践にかぎりなく近いアクションもあれば、護身術のごとく調査者個人の生存のために不可欠な、実践と遠いアクションもあるであろう。また、研究との距離においても、通常は論文に反映されないアクションが多いとはいえ、調査法や調査倫理の論文には多くのアクションが紹介されてきたという事実もある。アクションと「研究」「実践」との距離感を正しく把握し、かつ積極的に提言することは、今後の議論に資する有益な作業となるにちがいない。

分科会討論
(2) については、「調査者自身がアクターとなるアクション」を322項目抽出しえた今回の刊行の達成を敷衍しつつ、一方で現場には多様なアクターが存在していること、調査者はアクターであると同時に多様なリアクションを受ける者でもあることなどを視野に入れた「アクション/アクターの多極化」の視座において取り組むことができるであろう。

このほか、「調査者である自分が非白人だったから、暴力の仲裁に入れた」という指摘など、自身で選びようのない調査者の属性が、現場のアクションの可能態の幅を左右しうることが示唆された。また、「調査者が『現地の代弁者』として前面に出すぎてよいのか」というコメントにあるように、「文化を書き」「実践し」「アクションを行う」フィールドワーカーの立ち位置に関する、古くて新しい問題を再認識する機会ともなった。このような論点は、これからのフィールドワーク論に一石を投じることになる重要な問題群をはらんでいると言えるだろう。

個人が現地に身をさらして行う調査法であるフィールドワークの分析と技法改良というテーマは、かぎりない課題を私たちにもたらしている。この調査法を生み出した本家である文化人類学の学会大会で、このような展望が得られたことは、文化人類学界のみならず、フィールドワークを用いようとする多くの隣接諸科学への効果も期待でき、今後の議論の展開が楽しみである。

□おもな質問やコメント(コメンテータおよびフロアの発言抜粋) 分科会コメント

●アクションをどう定義するか。

●アクションを通して実践的に問題解決を図るためには、アクションの相手を研究する姿勢が重要ではないか。

●「研究/実践」のいずれにも回収されないアクションに注目するという趣旨であるが、報告内容を見るかぎりでは、これらのアクションはきわめて実践に近いものでないか。

●アクションは「研究/実践」のいずれにも回収されていないという位置付けだが、記述にも実践にも貢献するから意味があるのではないか。アクションは、どのように記述/実践に貢献したのか。

●アクションから研究への還流も必要ではないか。

●成果還元として現地でアクションを行うのはよいが、フィールドワーカーが前面に出すぎてはいないか。

●教室人類学(classroom anthropology)には、理論と実践の両面でどんな展望があるか。

●調査者がフィールドにのめりこむだけでなく、身を引いて状況を捉えることも必要ではないか。

●言語学者が言語政策に対して行える具体的な寄与とは何か。



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