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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

読書日記・映画日記: 2003年

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最終更新: 2007年5月25日

■『サルとすし職人』(2003/03/31)


■人類学は「文化生物学」のパートナーたりうるか

ドゥ・ヴァール, フランス. 2002. 西田利貞・藤井留美訳.『サルとすし職人:<文化>と動物の行動学』東京: 原書房.

「動物の文化」と言うと、多くの人が「あぁ、イモを洗うおサルさんの話ね」などと言う。しかし、今やそんな「ほほえましい話」では済まされなくなってきた。自然界に暮らす動物たちの中に広範に文化が存在し、それが個体の生存を左右するほど重要な役割を担うこともあることが近年明らかになってきた。文化は人間の専有物であると暗に仮定してきた世界観が大幅な修正を迫られているのである。本書は、動物の文化にまつわる豊富な事例に基づいて従来の動物観と人間観を再検討し、「文化生物学」を展望するスケールの大きな書物である。

著者ドゥ・ヴァールは、オランダ生まれ、米国エモリー大学で教授を務める動物行動学者である。霊長類行動研究で世界的に知られる一方、その科学的な姿勢を崩さずに一般向けの親しみやすい書物を著すことでも知られている。『政治をするサル』(どうぶつ社、1984)では、チンパンジー社会における壮絶な権力闘争を小説家も顔負けの筆致で描ききり、ついには米下院議員のための推薦図書リストにも加えられた。今回この著者は、長らく我々の思考を支配してきた「動物=自然、人間=文化」の図式を打破することに挑んだ。

本書は三部から構成されている。第一部では、人間による動物観がテーマである。研究者も含めて、人々がいかに自分勝手なイメージを動物に投影してきたかが実例とともに描かれる。一方、動物行動研究の分野における二人の忘れられた「導師」たち、ローレンツと今西錦司に焦点を当てる。現在の生物学の立場から遡って批判されることの多い二人だが、当時の支配的風潮に抗しておのおの独自の動物観に基づいた学派を形成し、今の動物行動研究の基礎を築いた先人に対し、正当な評価をしている。

第二部は本書の中核をなす部分であろう。動物の文化に関する充実した記載と理論の部分である。金と時間に制約のある読者は「6章 最後のルビコン川」だけ立ち読みされてもよいと思う。動物の社会の中では、何の見返りも得られない行動が模倣されたり流行ったりしている。「学習にはアメとムチが必要である」とする従来の前提は否定され、「みんなのようになりたい」という社会的な願望が文化伝達を引き起こすとする新たなモデルを提唱する。

第三部は、ひるがえって人間による人間観を検証する。「動物では○○だから人間も同じ」のような安易な論調を戒める一方、「動物は○○、ただし人間だけは例外」のような場当たり的な二元論をも許さない。人間の功績をおとしめることなしに、両者の文化を同じ地平で論じ、そこに新たな人間のアイデンティティを構築することを展望して締めくくられる。三部全体を通読することで、過去の動物観、現在の認識、そして将来の構想という著者の思想の展開を、時系列的に眺めることができるように私には思われた。

本書の特徴を二点指摘したい。第一に、文化の定義に関わる姿勢である。従来、数え切れないほどの文化の定義が試みられてきた。著者は、それらが人間と他の動物を差異化して満足するための狭い基準であるとし、文化の最小限の特徴として「習慣および情報の遺伝によらない伝播」のみを抽出した。なぜ最小限にとどめるべきなのか。「ものごとは広く定義したほうが、現象を余すところなく見ることができる」からである。本書には、人間と他の動物を分けへだてるためのさまざまな基準が登場する。いわく「文化は生存に不可欠なものでなければならない」「文化は教育によって伝播されなければならない」「文化は進歩しなければならない」などなど。しかし、すべては動物と人間を対象とした実証的研究において打破されてしまった。いずれも両者を根源的に分かつことに失敗したのである。動物の道具使用の事実を今もなお認めたがらない哲学者に対し、「人間の自己イメージはそんなにもろいものなのか?」と著者は問いかける。むろん彼の「広い定義」も一つの立場に過ぎないが、科学的生産性に基づく主張と、それに抗する勢力の非力さが、この定義の妥当性を強く印象づけている。

第二に、徹底して個々の動物種に接近した立場から発言する姿勢である。本書には二つの「悪役」が登場する。一つは行動主義心理学であり、もう一つは安楽椅子研究者だ。行動主義心理学は、サルもネズミもハトもみな同じ「アメとムチによる学習」モデルで理解できると信じ、動物種それぞれにそなわった固有の性質に関心を払わなかった。当然、動物行動学が主張する種固有の文化の存在も否定し、人間だけは言語を持つから例外だとするダブル・スタンダードを採用した。一方、動物の文化が一定認知されてくると、今度は一度も野外で動物観察をしたことのない研究者たちが、方法や定義、人為的バイアスなどの要因を責め、文化の存在に疑問を呈する論文を書き始めた。ここでもやはり、人間だけは文化を持つ別格の存在であるということが前提されていた。著者はこれら論敵を登場させつつも、常に自分は現場で動物を見てきたという経験に裏打ちされた確信とともに、余裕を持って論駁している。この徹底した現場での実証研究とそれらから概念と法則を導こうとする姿勢は、正当な科学者のそれであると言えるだろう。

総じて本書はきわめてバランスの取れた読み物であると私は考える。「文化がすべてを決定する」という通念は注意深く退ける。しかしその対極の「人間の性質は遺伝子によってすべて決められている」というずさんな生得的決定論にも与しない。一時の社会生物学の流行は、「利己的な遺伝子」というキャッチコピーとともに、ある種の人間性悪説を振りまいた。しかしその当の論客たちは、人間の性善的側面に対する一貫した説明を放棄し、「ただし人間だけは文化を持ち、道徳を持つことができる」などの言い逃れを始めた。性悪説論者が、最後になってこのようなダブル・スタンダードに逃げ込んだことを、著者は厳しく批判する。そして、人間も動物も自然の中でそなえるようになった「善性」を、自然観察を通して理解していくことを展望する。しばしば論者の思いこみが実際の現象を凌駕してしまうこの分野で、このような慎重な姿勢を心がけながら探求を続けるならば、「文化生物学」はきっと新たな人間観の創出に貢献することだろう。

最後に、私の個人的関心に引き付けて二点ほど述べることをお許し願いたい。一点目は、本書が「日本の霊長類学を評価した本だ」というふれこみで売られていることについて。著者は、動物の文化を発見した非二元論的な日本人の発想を好意的に評価している。しかしこれは買いかぶりすぎの面があるように思われる。今西学派が大胆にも動物に社会を見ようとしたとき、多くの日本人生物学者はその仮説を一笑に付したのである。文化が人間と動物を越境しようとする現在も、日本人がすぐれてその新パラダイムに理解があるとの証拠はない。「世界に誇る日本のサル学」のような安っぽいナショナリズムに酔いしれている場合ではないだろう。本書の本当の価値は、そのような所にはないからである。

二点目に、文化人類学の位置付けについてである。本書は文化を主題とした本であるにも関わらず、ほとんど文化人類学に言及していない。著者はわずか2パラグラフのみ、この分野についてコメントしている。そこには、「文化は人間だけの領域だ」と初期に明言したままその枠を越えず、やがて「激烈な内部抗争のために」「文化概念を(…)政治的色彩を帯びた、相対主義的なよくわからないもの」にしてしまった、一つの学問分野の末路が描かれていた。かつて文化人類学が世界中の人類文化のデータを収集し、そこに何らかの法則を見いだそうとした時代も存在したはずだ。もう一度科学に戻り、「文化生物学」の問いかけにきちんと応答できる分野として再生を果たそうとするのか。それとも、本文のわずか0.2%しかページを割かれず、「悪役」にすらなれない分野であることに甘んじ続けるのか。読者諸氏にこの問いを投げかけることで、この短評を終えることとしたい。(2003年3月31日)

※この文章は『京都人類学研究会ニューズレター』4 (2003. 4): 11-13. に掲載されたものです。ウェブサイトへの転載に当たり、同研究会事務局のご快諾をいただきました。

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