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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2006年9月

日本語 / English / Français
最終更新: 2006年9月18日
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■帰国して受け取った訃報 (2006/09/18)
■ナイジェリア日記2006 (23) テトリスとの攻防 (2006/09/14)
■ナイジェリア日記2006 (22) ナイジェリア特殊教育の父 (2006/09/13)
■ナイジェリア日記2006 (21) 空港でバナナを食べる (2006/09/12)
■ナイジェリア日記2006 (20) 送別会 (2006/09/11)
■ナイジェリア日記2006 (19) ラゴスの教会で講演 (2006/09/10)
■ナイジェリア日記2006 (18) 庭木のスケッチ (2006/09/09)
■ナイジェリア日記2006 (17) 写真をネタに長話 (2006/09/08)
■ナイジェリア日記2006 (16) 古文書の中の旅 (2006/09/07)
■ナイジェリア日記2006 (15) 358の瞳 (2006/09/06)
■ナイジェリア日記2006 (14) 初めての怒り (2006/09/05)
■ナイジェリア日記2006 (13) 講演での質問から (2006/09/04)
■ナイジェリア日記2006 (12) ミッションセンターで講演 (2006/09/03)
■ナイジェリア日記2006 (11) センターの広さを測る (2006/09/02)
■ナイジェリア日記2006 (10) いつもの停電 (2006/09/01)


2006年9月18日 (月)

■帰国して受け取った訃報

ナイジェリアから帰国してメールを開けた。お世話になった知人から届いていた最初のメールが、訃報だった。

「ナイジェリア特殊教育の父」ピーター・O・ンバ博士。先日の日記で紹介した、現実には会えずに夢でインタビューしたナイジェリアのろう者である。

ナイジェリアにろう教育がほとんどなかった1960年代、耳の聞こえない青年としてろう者のミッションに出会い、手話を覚え、アメリカ留学で博士号を取得した。ナイジェリアの最高学府イバダン大学教育学部の教官となり、半生をこの国の障害児教育の確立にささげた。手話を重視するろう教育政策を実現した最大の功労者の一人だ。米ギャローデット大学のキング・ジョーダン前学長の友人でもある。

享年82。長い闘い、おつかれさまでした。どうか手話にみちあふれた天国で安らかにお眠りください。

"アーメン"(ナイジェリア手話で=右手指文字Aの親指を上に向け、右手を左手のひらの上にとんと落とす)


2006年9月14日 (木)

■ナイジェリア日記2006 (23) テトリスとの攻防

調査の帰りの機中はノートの整理、と決めている。

毎日記録を付けているつもりでも、後で読み返すとかなり抜け落ちている。覚えている間に加筆しておかないと。十何時間も席を立てない飛行機は、自分を仕事に縛り付けるまたとない機会だ。

…のつもりだった。しかし、今回は何たること、エミレーツ航空のゲームの中に、テトリスがあることを見つけてしまったのだ。

私はゲームというものにほとんど興味がない人だが、唯一の例外がテトリス。高校の頃から入れこんで、「ブロックを縦に積むとなぜ効率がよいのか」という論文を書こうと思ったくらい。

しまったなあ、テトリスの誘惑。最高レベルに設定して負けたら仕事に戻る、などとしながら、適当に仕事を片付け、適当に息抜きをしながら帰ってきました。

ナイジェリアのみなさん、どうもありがとう。さて、これから日本社会へのリハビリが始まります。

[付記]今回の調査の結果は、龍谷大学国際社会文化研究所叢書の一章として出版される予定です。

→ [ナイジェリア日記2006・終わり]


2006年9月13日 (水)

■ナイジェリア日記2006 (22) ナイジェリア特殊教育の父

「その人物」に会った。

私「あなた、ンバ博士ですね」
M「うむ」
私「『ナイジェリア特殊教育の父』と呼ばれている」
M「そう」
私「"Father, of, special, education, in, Nigeria"」(とメモする)
M「うん」
私「じゃあ写真を撮りましょうか」
M「OK」

…目が覚めた。そこは、帰路の乗り継ぎで降りたドバイのホテルの一室。ナイジェリアから遠く離れた地でうとうととまどろみ、私は夢の中で調査の続きをしていた。

ピーター・O・ンバ博士。ナイジェリア人、ろう者。政府の教育政策を左右するほどの力をもった大物である。現在重い病で床についており、ご自宅を訪れたがお目にかかることはできなかった。その博士に、夢で初めてお会いした。

どうか快癒されて、いつの日か本当にお目にかかれる日がありますよう。

[つづく]


2006年9月12日 (火)

■ナイジェリア日記2006 (21) 空港でバナナを食べる

空港でのお別れ。ミッションの方々が見送りにきてくれた。

A「はい、じゃあこれを持って」

別れ際に、バナナを一房手渡された。

私「ありがとう。でも荷物が多くて運べないから、1本だけいただきます」
A「昼ご飯食べてないでしょ。4本くらい食べなさい」
私「…」(苦笑)
A「食べ終わるまで待ってるから」
私「…じゃあ、2本食べます」(苦笑)

空港ロビーで、バナナを2本むしゃむしゃ食べてからお別れ。ふつう、じわりと感動が押し寄せる場面なのだけれど。今回はバナナが出てきちゃったしなあ。最後が笑えました。

[つづく]


2006年9月11日 (月)

■ナイジェリア日記2006 (20) 送別会

ラゴスでの講演会の翌日、ちょっと肩が痛い。広い会場で、いつもの2倍くらいの大きさの手話で2時間しゃべりまくったから。ひ弱だなあ。手話話者たるもの、筋トレでもして腕力を付けなければ。

帰国前の最終日。聞き残した質問、取り残した写真など、こまごまと用事を片付ける。今回ばかりは「Later」と言っていられない。

夕方ミーティングがあるよ、とミッションのスタッフに言われた。何だろうと思ったら、私の送別会。手話の賛美歌に始まり、牧師の言葉、記念品交換、お祈り、会食。きっちりとした式典だった。無為徒食の居候は、すっかりおそれいってしまった。

「来る前はどんな人かなあと思ったけれど、けっこう笑わしてもらいました」

はて、いったい何のことだろう(汗)。ともあれ、適当に楽しんでいただけたなら、おじゃま虫としては幸いだ。後は、きちんと調査の成果を世に出して、長い意味での恩返しをすることだろう。そう、人類学者は、いつも大きな借りをつくって帰るのです。

[つづく]


2006年9月10日 (日)

■ナイジェリア日記2006 (19) ラゴスの教会で講演

帰国前の最後の日曜日。ナイジェリア一の大都市ラゴスにあるろう者の教会から「ぜひうちでも講演を」と頼まれた。ついでの用事もあったため、お引き受けする。

大ホールに集まる約150人のろう者。さすが西アフリカ最大の都市。こんな巨大なろう者の教会を見るのは初めてだ。

盛況のうちに特別セミナーは終わる。教会を運営するろうの方から言われた。

A「あなた、ろう者に生まれればよかったわね」
私「ありがとう。神様が決めたんでしょうね」
A「そうね。神様があなたを『聞こえる世界(hearing world)』にもたらされたのね」

耳が聞こえ手話を話す者として、これほど重いろう者の言葉を見たことがない。慄然とした。

講演会を締めくくるにあたり、私の研究と無事の帰国のために、全員が一斉にお祈りをしてくれた。鳥肌が立つような感動を覚えた。

[つづく]


2006年9月9日 (土)

■ナイジェリア日記2006 (18) 庭木のスケッチ

デスクワークばかりだとくたびれる。気晴らしに、センターの庭に生えているパパイヤの木とヤシの木のスケッチをした。

「写真で撮ればいいじゃん」という話ではない。観察してしっかりと頭に叩き込むためには、自分の手で絵を描くのが一番。生物学出身の私は、じっくりとバカ丁寧な細かい絵を描くのが得意だ。

「すげえ。そっくりだ」
「見せて見せて」

描き終わったら、すぐ周りの人たちに見せる。一瞬だけ人気者になれる。こうやって単調な日常に変化を付けて笑ってもらうというのも、訪問者としてのサービスでしょう。

[つづく]


2006年9月8日 (金)

■ナイジェリア日記2006 (17) 写真をネタに長話

写真を見せてもらったと言っても、見ただけでそれが何か分からないものも多い。そういうときは、お年寄りのろう者をつかまえて、見せてみる。

私「この建物は何ですか?」
A「おお。オレが通ってた学校だ」
B「どれ、見せてみ。こいつ△△じゃないか?」
A「ああ、アメリカに行ったあいつか」
B「そう、それで○○と結婚して、子どもが□人」
A「こっちの写真、卓球してるのはオレだよ」
B「おまえ、若いな」

質問者の私をそっちのけで、想い出話が長々と続く。私はうんうんとうなずきながら、話すにまかせる。こうやって記憶が解きほぐされていく中で、調査の重大なヒントが得られることもあるからおもしろい。

写真も文献も大事だが、それをネタに人と長話をするのが楽しくてやめられない。私はやはり、文献で勝負する歴史学ではなく、人としゃべって仕事する人類学が性に合っているのかな、と思った。

[つづく]


2006年9月7日 (木)

■ナイジェリア日記2006 (16) 古文書の中の旅

写真が済み、文献資料を閲覧させてもらった。

「はい、資料」

どさりと渡された文書、およそ1,500枚。やはり50年分、未整理のままファイルに挟み込まれていた。途方に暮れている場合ではない。新聞、機関誌、パンフレット、手紙…、頭を空っぽにして、黙々といくつかの山に分けていく。資料の分類にも丸一日かけた。

虫食い、金具のさび、ちぎれかけの書類。保存状態はよくない。それでも、湿気とほこりの熱帯アフリカで50年の歳月を耐えて残った文献は、文字通り貴重な資源である。

人類学の資源は「人との出会い」。ふつうは会って話してなんぼという商売である。しかし、会いに行きようがない過去の人たちと出会いたいときは、写真や文字に頼るしかない。

今回も紙の中で「へぇ、あんたこんなことやっとったんやー!」という出会いに数多く恵まれた。目を通し終えたときには、長旅を終えたような心持ちになった。

[つづく]


2006年9月6日 (水)

■ナイジェリア日記2006 (15) 358の瞳

ミッションで古い写真を見せてもらった。

「はい、写真」

どさりと渡された2,000枚。集合写真、スナップ、顔写真などが50年分、未整理のまま袋に詰め込まれている。さて、どうしよう。

丸一日かけて、顔写真の整理をした。

「えーとこの顔は、、、この顔と同じや! これとこれは、微妙に別人」

トランプの「神経衰弱」の要領で、何百枚もの顔写真と格闘。のべ179種類の顔に分類できることが分かった。カメルーンやガボンで今や「ろう教育界の重鎮」となっている御大たちの、若かりし日の写真もあった。

アフリカ諸国から、希望を抱いてこのセンターを訪ねてきた若者たち。そのほとんどはろう者だった。研修や労働を終えて故郷に帰った後の人生は、179通りそれぞれだったことだろう。今頃、この広い大陸のどこで、どうしているのだろうか。白黒写真の中の野心あふれる358の瞳が、じっと私を見つめている。

[つづく]


2006年9月5日 (火)

■ナイジェリア日記2006 (14) 初めての怒り

講演のとき、一つだけ客にピシッとしかったことがある。

質問コーナーのとき。難聴の人(手話ができる)が手を挙げて「えーとね、私が聞きたいのは…」と座ったまま声でぺらぺらとしゃべり始めた。これにはプチッときた。

「ここでは、手話で話しなさい」

観客は全員ろう者。私も手話だけで話している。他のろう者たちも手を挙げていて、一人ずつ演台に上がって質問する順番を待っている。手話での発言が全員に見えるようにするというマナーだ。その中で、私が聞こえるのをいいことに、一人だけ声を使ってぬけがけするとは。

その人もすぐに手話に戻った。何事もなかったように、質問コーナーが続いていった。

だいたいのことは「異文化だし。怒るほどでもないわな」と流してしまえる私なのだが。この国に来て12日目、初めて怒ったできごと。

[つづく]


2006年9月4日 (月)

■ナイジェリア日記2006 (13) 講演での質問から

[質問1]「ナイジェリアのろう者が教育分野で権利を獲得するにはどうしたらいいと思うか」

ちょっとびっくり。ろう者が学校を設立してよく、それが政府の認可を受けていて、ろう学校で手話を使うことが政策になっていて、教員養成大学にろう者の教官がいて、ろう教育の教員志望者は手話が必修科目である、そういう国にいて、あとどんな権利がほしいの?と、日本から訪れる私は思う。

まさに「幸福の青い鳥」。本人たちにとっては当たり前のことで、幸せを享受していることに気づいていないのだ。

[質問2]「研究だけで終わっていいと思うか。支援にはつながらないのか」

ええ、核心部分です。「研究だけしたって、読み捨てる人が多いでしょ」とのご指摘、深く心にしみました。

でも、支援の前に正しく理解してもらうことが先ですよ。だって、もし「手話をやめさせるためのろう教育を」とか言うかんちがいな人たちが、どやどやと支援にやって来たら困るでしょう?

そう答えたら、「そりゃあそうだよな!」という納得の空気が流れた。ああ、よかった。

[つづく]


2006年9月3日 (日)

■ナイジェリア日記2006 (12) ミッションセンターで講演

ミッションのセンターで「特別セミナー」と称して、2時間ほどの講演をした。

ナイジェリア手話による初めての講演。しかも、アフリカろう教育の最大拠点だった「聖地」での晴れ舞台。緊張しましたよ。この世界にかけては生き字引のような、ナイジェリアの高齢ろう者たちがいる前で話すのだから。

「そうだったかな」
「その数字はちょっと違うんでは」

客席でちらりほらりとかわされる手話の会話が、演台の上の私の目にも入ってくる。ええと、ちょっと訂正(汗)。ゼミで論文指導を受ける学生のような気分になった。

「2時間ありがとう」
「君の手話、分かりやすかったわ」
「ちょっと他の国の手話がまざったけど(笑)」

日曜の午後に集まってくださった50人ほどのみなさん、ありがとう。いい勉強になりました。

[つづく]


2006年9月2日 (土)

■ナイジェリア日記2006 (11) センターの広さを測る

ミッションセンターの広さを測った。どうしてかって?

ほんの小さなセンターから、アフリカ大陸中にろう教育が広まっていったのです」

と人に語る時、そのセンターが実際どのくらいの広さだったのか知りたくなる。こうやって「概念ではなく物でネタを押さえる」というのは、私の出身である京大の人類学に伝わるお家芸だ。昔よく焼畑や村の広さを測ったなあ、などと思い出しながら、うろうろと敷地を歩き回った。

結局、縦60m、横40mくらいの広さだと分かった。それだけの場所が、ろう者たちの潜在的な能力を爆発的に引き出し、アフリカ約20ヶ国のろう教育を支える人材を輩出した。すごいよね。

「そうか、そんなにあったか」(笑)

測ったことがなかったミッションの人に喜ばれた。

[つづく]


2006年9月1日 (金)

■ナイジェリア日記2006 (10) いつもの停電

ここでは、毎日停電がある。朝10時くらいから夕方6時くらいまで。つまり明るい時間帯は電気が灯らない。このミッションセンターだけでなく、町中がそうであるようだ。

毎日停電だなんてどんなに不便なことか…と思うかもしれないが、そうでもない。時間が決まっているから、予定が立てられる。電気を使う用事(デジカメの充電など)は夜に済ませておけばよいだけのことである。

それに、町では停電中も仕事ができるように、発電機をそなえている会社やお店が多い。公が頼れないときは自力で。それも織り込み済みである。

日沈すぎても電気が来ない…となると、少しあわただしい。室内は暗くなって手話で話せなくなるから、ろう者は表に出て話したりする。さらにとっぷりと暗くなると、ローソクを、懐中電灯を、ということになる。

でも、やがて電気はやってくる。「やったー!」とふだんの暮らしに戻る。「これがナイジェリア」みんなそうつぶやいて、これをくり返す。とくに苦労とも思っていない人たちに合わせて、私も平気になった。

[つづく]


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