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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2009年5月

日本語 / English / Français
最終更新: 2009年5月31日
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■文化人類学会2009雑感 (2009/05/31)
■集団お見合いとしての学会 (2009/05/30)
■書評者の自由、著者の自由 (2009/05/29)
■対戦型哲学史 (2009/05/27)
■フィールドワークは一期一会 (2009/05/26)
■主観的幸福感のこと、多言語のこと (2009/05/24)
■学会で大根をいただく (2009/05/23)
■Ask what you can do for your volume (2009/05/22)
■1か月ぶりのサイト更新 (2009/05/21)
■世に問いたいことは早くやろう (2009/05/17)
■キャンキャンとノンノ (2009/05/13)
■本は書くものではなく、売るもの (2009/05/12)
■アウトリーチをしよう! (2009/05/09)
■オバマ大統領の手話名 (2009/05/04)
■翼をください (2009/05/03)


2009年5月31日 (日)

■文化人類学会2009雑感

今年の文化人類学会(大阪)は、直前までインフルエンザ騒ぎに振り回された。結局、「研究発表や総会は予定通り実施、ただし懇親会は中止」という措置となった。懇親会という学会大会の「ヘソ」がなくなり、それゆえかどうかは知らないが、参加者数が予想を下回って、百万のオーダーの赤字になったとか。

私は口頭発表で、「文化人類学は、人間の身体の多様性にもっときちんと向き合おう」という趣旨の話をした。「聞こえる人たちは聞こえない人たちのことをどう理解したらいいものか」という新書を書き上げたばっかりですから。これはお題目ではなく、他者理解のための差し迫った課題なのです。

文化人類学は、これまで「私が調査している○○民族のなかにも、そういえば障害をもつ人がいました」というふうに、身体的マイノリティを異文化社会のなかの「お客様」として描いていた。その本人にとって世界はどう見えているの?というところまで分け入って理解しなければ、フィールドワークに基づいた相対主義としては半端でしょう。「当事者の視点」という点で言えば、開発研究の方がはるかに先を行っているね。障害を持つ人たち自身が開発研究者や調査員になって、すでに現地調査を進めているのだから(このネタは、来週の国際開発学会で発表する予定です)。

もとよりフットワークの軽い私たちなんですから、どうせやるならそこまで分け入りましょうよ、と提唱した。現実の必要性から生まれたこの着想、何年間かかけて理屈としてねりあげ、いずれ本にしようと思います(と明言して自分を仕事に縛り付ける)。

文化人類学は、一時期、挫折と無力感にさいなまされていた。しかし、最近はまた勢いを盛り返しているみたい。今大会でも、同世代の研究者たちが、新しいことにいろいろと挑戦していた。ビジネスシーンで民族誌がいま熱い視線を浴びているとか、ネット上のツールを駆使して情報の蓄積と共有をしようとか。学校での教え方、博物館の作り方などで、フィールドワーカーのセンスが活用できそうだという話もあった。一面では、みんな組織の中の「雇われ人類学者」。でも、そこでちゃんとネタを見つけてくるというのも、また人類学者たちの得意技なのである。

「実践がすべて」とは思わない。ただ、「どんなフィールドにも潜入してネタを拾ってくる」という、文化人類学の本来のおもしろさと勢いは、私も含められていた実践系のセッションに多く見られたように思う。10年後には、文化人類学の教科書も、ずいぶんと変わっているかもしれません。


2009年5月30日 (土)

■集団お見合いとしての学会

研究者+編集者=本。

研究者は、ひとりでは本を作れない。企画案を受け入れて刊行まできちんと担当してくださる、出版社の編集者との出会いが必要である。それがなければ、どんな斬新な成果も形にならず、ただの妄想で終わってしまう。

文化人類学会の大会(大阪)に出かけた。ほかの研究者の発表を聞き、研究者どうしの社交をすることも大切だが、おせわになった/なっている/なりたい出版社の編集者のみなさまへのごあいさつは欠かせない。ずらりと並ぶ出版社のブースを訪ね、お声をかける。

「先日の刊行では、たいへんお世話になりました。ありがとうございました」(過去=刊行済み)
「あ、〆切の件、もちろん承知しております。帰ったら必ずやりますので」(現在=目下編集中)
「いずれ、御社でお世話になりたく存じますので、いちおう名刺を」(未来=さりげない打診)

編集者も、研究者をつかまえにかかっている。

「□□先生の発表を聞いてきましたよ。とても明晰なお話ですね」
「○○先生とはメールのやりとりしかしてないから、あいさつしとこうと思って」

刊行までの苦楽をともにした編集者と会うと、戦友のような懐かしさがある。

「仕事が進んでいるときは、著者との信頼関係が深まりますね。夫婦以上に思えることも」

そう言う編集者もいた。まあ、その人が独身だというのが、妙におかしいところですが(笑)。

「○○先生が、△△社の編集者と立ち話してたよ」
「本でも出すんちゃうか」

ほとんど、恋愛ゴシップのような世界である。

学会とは、多くの研究者と多くの編集者が、一堂に会して組み合わせを試す場所。幸運な出会いに恵まれたら、来年の学会大会のときには、ブースに新刊書が並んでいるかもしれない。そう、学会とは「集団お見合い」にほかならないのです。

今後とも、よい出会いに恵まれ続けますよう。


2009年5月29日 (金)

■書評者の自由、著者の自由

著者=本を書く人。書評者=刊行された本を批評する人。この二者は、どういう関係にあるのがいいのだろう。

いろんな見方があるようだが、基本的には「著者と書評者は、適度な緊張関係にあったほうがいい」という考え方が多い。つまり、仲間うちで気づかい合っておべんちゃらをしているような書評はおもしろくない、というものだ。まあ、それはそうでしょう。

極端な話、著者が権力を使ってべたぼめ書評をさせるようなケース(たとえば、指導教員が自分の教え子に書評をさせるとか)を想像したら、確かにそんなものは読む価値がないだろうと思う。事前に許可したり、内容の打ち合わせをしたりするのはひかえようということは、モラルとしてあっていいと思う。

ただ、逆に極端な分離の原則を課すのも、味気ないものだ。書評者は著者に読まれることを想定して書くべきではない、著者は自作についての書評の自由を守るため、書評を読んでいることを公言してはならない、とか。そこまで厳密に、著者が沈黙の義務を負う必要もないでしょう。入試の守秘義務じゃないんだから。

(1) 書評をする自由。だれがどの本の書評をするかは自由であり、著者の許諾を得る必要はない
(2) 書評内容に関する表現の自由。書評者がどんなことを書いても、著者はその内容自体には干渉できない

このふたつくらいの原則があれば、後はおたがいご勝手に、という話ではなかろうか。

「著者は読者を選べない」。これが、本を書く者のさだめである。本をいちど世に出してしまった著者は、まったく無力なのだ。だれに何を言われようが、どこを引用されようが、ひどい場合、正反対に誤読されることがあろうが、(いち個人として反論することがあっても)批評の言論を封じる権限などあろうはずがないのである。そのことさえ了解していれば、あたかも試験のように書評のルールを厳密化する必要もないのでは、と思っている。

万人に書評の自由を! そして、著者には、再反論を含む表現の自由を!


2009年5月27日 (水)

■対戦型哲学史

「対戦型哲学史」というサイトを見つけた。これは、楽しい拾いもの。

哲学なんて、結局、大昔から同じことを繰り返し言ってるだけじゃないんですか?

「目新しい思想」は、常に何ものかの繰り返しであり、コピーであり、焼き直しです。そのことはその思想の価値をいささかも減じるものではありません。むしろその思想に「存在理由」のようなものがあるとしたら、それは「再び出現した」ことにこそ、求められるでしょう。
おお。きっぱりと言っています。

「また同じこと言ってる」というのは、けなしことばではなくて、ほめことば。古い問題が新しいことばできちんと論じ直されるということは、その問題が、時を超えてみんなにとって大切だということの証拠である。

かくして、著名哲学者たちをリングに上げ、ガチンコ勝負の格闘技をさせてしまったわけです。

しまった、哲学史を専攻していればよかった、と思わされた瞬間。何年かに一度、そういうすごい魅力をもった作品に出会い、思わず「専攻をまちがえたかな…」と後悔させられることがあります。このページは、その一例。


2009年5月26日 (火)

■フィールドワークは一期一会

ある知人とお会いしたときのこと。時どきお目にかかる方だが、ふとこう言われた。

知「そういえば…お名刺をちょうだいしていませんでしたね」
私「あ…そうでしたか、すみません」(あわててポケットをごそごそ)

初めての方や、なかなか会えない人にはきちんとお渡しするけれど、よく会う人だと、かえってそういう基本的なことを忘れてしまうことがある。

これは、フィールドワークのなかでもよく起こる。

「今日しか会えない、今しか話せない」という人には、短時間できちんと聞くべきことを質問し、写真撮影もして、調査が進む。しかし、1か月も2か月もホームステイさせてもらっているうちの家族などの場合は、「まあ、いつでも聞けるかな」「今日でなくてもでいいや」などとやりすごしてしまう。そして、あんがい大事な質問をしそこねたり、写真が1枚もなかったりして、帰国後にあわてることになる。

「いつかそのうち」と思っていた相手が、急逝したこともあった。そうなってから後悔しても、もう遅いのだ。

フィールドワークは一期一会。幸運にも出会えたその瞬間こそが、チャンスのすべてなのでしょう。先送りしないで、今をたいせつに。


2009年5月24日 (日)

■主観的幸福感のこと、多言語のこと

アフリカ学会での興味深い論点を二つ、備忘録として。

(1) 主観的幸福感について、人類学者とNGOスタッフの会話。

人「現地のマイノリティって、けっこう明るいんだよね」
N「うん、でもそれって『自分は幸せだ』と思い込んでるだけかもよ」
人「たださ、『あんたは実は不幸なんです』って、周りが決めつけるのもどうかねえ」
N「微妙なとこだね」
(発言は編集しています)

現地の人の笑顔を、額面通りに受け取るか、それとも、世の中を知らされていないがゆえの偽りの満足と見るか。異文化理解と開発的介入が、笑顔の前で火花を散らしています。いやあ、緊迫感ありますね。

(2) 多言語について、言語・文学研究者と開発研究者の対話。

言「あんたたち、多言語のことちゃんと考えてる?」
開「考えてるってば!」
言「どんなふうにさ?」
開「こんなふうにだよ!」
(発言は、もちろん編集しています)

いいですね。「手話言語も含めた多言語と開発」というのが私のいまの本業ですから。ぜひ、この続きをゆっくり話したいものです。

いずれも、私はどちらかの陣営に肩入れしているのではありません。この発話すべてが、いわば私の考えていることの一部を少しずつ代弁しているのです。どちらも、私のなかで響き合い続ける、息の長いテーマ。


2009年5月23日 (土)

■学会で大根をいただく

農大の大根 学会に参加して、大根をいただいた。

今年のアフリカ学会の開催担当校は、東京農業大学(世田谷区)。この大学は、「蝦夷共和国」を作りかけたかの榎本武揚が創立したのだそうだ。分離独立は果たせなかったが、その代わりにこの国の食を掌握しようという気概だったのかな。

学会の懇親会で、農大応援団が「大根踊り」を披露した。箱根駅伝でも見られる、あの有名な演技である。それが終わったあと、応援団員が学会の参加者に大根を配り始めた。

「押忍(オス)、農大で採れた大根っす!」

演技をねぎらい、丁重にお礼を言って、ちょうだいした。

そのほか、懇親会では、農大特製の大薯焼酎、カムカムという果実のジュース、OBが作った地酒などがふるまわれる。へー、食べ物を生み出す学問って、いいですねえ。概念と文章ばかり生み出すことをなりわいとしている私は、人生やりなおすなら農学部?と想像した。

手に手に大根をもった学会参加者たちが、夜の混み合う小田急線で帰路についた。

これまで学会には30回くらい参加したけれど、大根をいただいた学会というのはもちろん初めて。農大の教職員、学生のみなさま、応援団のみなさま、歓待をありがとうございました。


2009年5月22日 (金)

■Ask what you can do for your volume

リーダーシップ論というのがある。書店に行けば、初めて上司になった人たちのためのガイドブックみたいなものが、たくさんあるでしょう。

それほど大げさなものではないけれど、私もちょっとした研究組織をまとめたり、本の編者として原稿を集めたりする仕事を、いくつか手がけている。そういうとき、私が時どき思い出すのは、かの有名なジョン・F・ケネディ米大統領の就任演説の一節である。

Ask not what your country can do for you, ask what you can do for your country. (January 20th 1961 by John F. Kennedy)
(国があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが国のために何ができるかを問おう)[演説全文]
なかなか、うまいことを言ったもんです。

本の編者とは、孤独な仕事。思想も経験も異なる多くの書き手を束ね、ひとつの作品にまとめ上げるために、ひたすら調整に骨を折る。

Ask not what your volume can do for you, ask what you can do for your volume.
(本があなたのために何をしてくれるかではなく、あなたが本のために何ができるかを問おう)
うん、これだ! 本は書き手のためでなく、つねに読者のためにあるのだから。このことばを、もっと広めよう。

私が編者でなくいち寄稿者となったときも、このことばを忘れまいと思います。


2009年5月21日 (木)

■1か月ぶりのサイト更新

4/17に最後の更新をしてから、実に1か月ぶりのサイト更新です。

「ちっとも日記を書いていない」
「いったいどういうことだ(怒)」

各方面から、期待まじりのおしかりを多数いただきました。ありがたいことです+ごめんなさい。

愛機 iBook G4 が、4/23(草彅君逮捕の日)に天に召されてしまい、その後、新たな更新態勢を用意するための、わずかなすきま時間も得られない日々が続きました。ようやく、代替機での更新態勢が整って、日記の再開です。

まあ、アップロードはできなくても、ネタは常に生まれ続けていましたので。こまごまと書きためていた日記を1か月分、まとめて掲載することにします。

今後とも、こりずに書きますので、どうぞよろしくお願いいたします。


2009年5月17日 (日)

■世に問いたいことは早くやろう

今日も今日とて、締め切り前の夜半の仕事中。

「仕事が早い」と言われることがある。本当はそんなことはなく、のんびり生きるのが性分だけれど。ただ、「早く世に紹介したい」という思いが関わる作業については、自分をむりに追いつめてでも急いでやってしまおうという癖がある。

もとより、「異文化のなかでまったりと暮らしながら、日常をぼちぼち学ぶこと=参与観察」をなりわいとする文化人類学者は、概して「他者理解には年月がかかる」と主張する。

ところが、ある国際開発研究者から、一喝された。

「時間をかけて理解するのもいいけれど、そうしているこの瞬間にも、途上国のマイノリティは人権侵害にさらされているんですよ! とりあえず結論を出し、提言し、解決しなければ!」

すさまじいハッパのかけ方。この勢いで原稿を取り立てにきたら、反論の余地などあったものではありません(汗)。

そうは言ってもなあ…などとぶつくさ言いながら、国際開発研究とのお付き合いが深まって、はや数年。その精神は、少しずつ文化人類学者たる私のなかに浸透した。かくして、早く世に問うて議論をしたいアピール性の高い本や論文ほど、急いでしあげて人様に見ていただこうという、あせりにも似た性癖が身に付いた。

時どき、研究者業界で、情報を小耳にはさむ。あんな本やこんな企画が進んでいるらしい、という話である。で、いつになったら本になるのかな。5年、10年待っても刊行されないことがある。残念でしかたない。社会的に意義がある企画こそ、早く出した方がいいでしょう。1日先延ばしにすることは、その分だけ、1日不正義が続くことになるのだから。

フィールドワークの「のんびりモード」は大好きだが、仕事を故意に遅らせるのは、アクティブな調査者=実践者には似つかわしくない。いわゆるビジネス系の「スピード仕事術」とは別の意味で、社会への素早い応答とは、研究者に課せられた大切な役割だと思っている。自戒をこめて。


2009年5月13日 (水)

■キャンキャンとノンノ

非常勤の授業をしに通っている大学には、キャンパスが二つある。都内の歴史あるキャンパスと、埼玉県内の新設のキャンパス。ある日、学生たちと雑談をしていた。

私「ふたつのキャンパスって、雰囲気は違う?」
A「違いますよー」
私「どう違うの?」
A「都内の方が『キャンキャン』って感じで」
B「埼玉の方は『ノンノ』だよね」
A「そうそうー!」
私「…」

白状しましょう。私は、このふたつの雑誌名を使ったたとえが、まったく理解できなかった。

うちに帰って、つれあいに聞きました。

私「『キャンキャン』と『ノンノ』って、どう違うの?」
妻「ギャルとお嬢さまの違いかな。読者が違うよ」

むむ…、分かったような、分からんような。どちらも同じに見えてしまうのだけれど。

まあ、私の方も、『思想』と『現代思想』の違いとかだったら語れるだろうけれど、はたから見たら同じに見えるかもしれませんね。

「分かる人には分かる」という世界。実におもしろいことだと思います。


2009年5月12日 (火)

■本は書くものではなく、売るもの

最近、原稿ばかり書いている。書くと書くの間に、すき間がない。

徹夜して、未明に「ひとつ仕上がった!」と解放感にひたりつつメールを開けたら、次の仕事がずらりと並んでいる。ああ、いったい解放の日は、いつ訪れるのでしょうか。

長い目で見たら、これは2008年にあらゆる書き物を保留にして、アフリカの手話の集中講義にすべての時間を振り向けていたことのツケである。もちろん、それはそれでやりがいがあって楽しかったけれども、今年はその反動がきているみたいだ。時間調整は自己責任、文句は言わずに黙々と書き進める。

出版社、編集者の方がたにもうしわけないと思うことは、「書くことに追われていて、売る努力がちっともできていないこと」。

ふつう、本ができたら、一連の営業の作業が続く。まとめ買いし、献本し、書評を頼んだりメルマガやウェブに載せてもらったり。自分でもウェブページを作り、講演会や研究会で新刊書を紹介することも大切な仕事。それが、書く機会をいただいた著者のつとめだし、出版社へのささやかな恩返し、読者のみなさまへの礼儀だと思うのだ。

「本は書くものではなく、売るもの」と言い切っている研究者もいる(関満博. 2002.『現場主義の知的生産法』東京: 筑摩書房)。社会から浮いた研究者であってはならない、書いただけで自己満足するような者になってはいけないという戒めは、私の研究者倫理の骨子のひとつになっている。

まとめ買いはしたけれど、発送する時間がないとか。そんなのは言い訳にすぎませんよね。最後の広報と営業まで、きちんとやりとげたいと思います(少しだけ、時間をくださいまし)。


2009年5月9日 (土)

■アウトリーチをしよう!

「研究成果を社会に還元しよう!」

スローガンのようによく言われるけれど、その実、(あんまりよけいなことに時間を使うもんじゃないよね)という本音も、研究者コミュニティから聞こえてくることがある。

そんなもんかなあと思っていたところ、日本学術振興会(学振)が若手研究者養成事業の中で、そういうことをちゃんとやりなさいよと公的に奨励していることを知った。これにはびっくりした。

『日本学術振興会特別研究員遵守事項および諸手続の手引』(PDF): p.3
2090509 日本学術振興会サイトよりダウンロード

7.特別研究員のアウトリーチ活動の奨励
特別研究員事業は、国民の税金によってまかなわれています。よって、研究活動の成果を国民へ還元すること、国民や社会に向けてわかりやすく発信することが、特別研究員に求められています。

(アウトリーチ活動とは)
アウトリーチ活動とは、単なる情報発信という考え方を超え、人々に対してわかりやすい言葉で研究内容や成果を伝え、科学技術を振興する側と享受する側が親和的・双方向的に向き合い対話していく活動である。「アウトリーチ」は「手を差し伸べる」という意味。

例:一般の人々や子ども、教員を対象とした公開シンポジウム、オープンキャンパス、研究室公開、出前講義、実験教室、サイエンスカフェ等

子ども向けの行事に、出前講義ですって。いいですねえ、実に具体的です。

私がとりわけこだわりたいのは、「分かりやすいことばで伝える」というところ。聴者には音声で、ろう者には手話で。好奇心おう盛な中学生にも、教養がお好みのシニア層にも、それぞれなりのお話をしてみせましょう。かみくだいて語ることこそ、プロの仕事だと思うのです。

お客様あっての、科学です。私もがんばって、みなさまのかゆいところに手が届く(=アウトリーチ)文章とお話の数かずを、これからも作っていきたいと思います。


2009年5月4日 (月)

■オバマ大統領の手話名

手話話者のみなさま。アメリカの「オバマ大統領」の名前を、手話でどう表現していますか。

アメリカのろう者たちが、さっそく「オバマ」という手話名(name sign)を作り、ユーチューブに投稿しています(アメリカ手話による解説、英語字幕付き)。

an Open Letter for President Obama (ASL and Subtitled)

オバマ氏のロゴマークから着想を得てできた新しい手話。前半は説明が続くので、忙しい人は[2:20]あたりから見たらいいと思います。

地球の裏側のろう者たちが使っている手話を、クリックひとつで手軽に見ることができる。なんとも便利な時代です。


2009年5月3日 (日)

■翼をください

いま 私の 願いごとが
かなうならば ○○○がほしい♪
みなさん、何がほしいですか。「かなで3文字」というルールで、好きなことばを入れて遊びましょう。

おかね、へいわ、じゆう、しごと、くるま、おさけ、ぎせき、ぽすと。たった3文字なのに、人間の欲望にはキリがありません。

今の私なら? 「じかんがほしい」かなあ。でも、もし時間を2倍授かったとしても、全部仕事に使ってしまいそうなので、あまり救われない気がする。「ゆとりがほしい」にしておこう。

「翼をください」は、小学校の音楽の時間によく歌わされた。あまり実感はなく、おとなとはこういうことを望むものか、とひとごとのように受け止めていた。

おとなになってみても、やっぱりこの歌はしっくりこないのである。

悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ ゆきたい♪
悲しく不自由な現実のうっぷんを、自分にはない能力や他者に託して語る、一種の「オリエンタリズム」、別名「隣の芝は青い」。翼をもらっていざ空に飛び出してみたら、捕食者である猛禽類にねらわれるし、食べ物を探すのもひと苦労、ああ、こんなはずじゃなかった…。などと、ひねくれた「後日談」を考えてみたりする。

美しい曲だとは思うけれど、心の底からは感動しない。だから、好きな3文字を代入して遊ぶくらいがちょうどいいのではと思っている。



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