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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2009年10月

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最終更新: 2009年10月31日
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■日本手話学会で研究倫理のシンポジウム開催 (2009/10/31)
■文体模倣で事典を書こう (2009/10/28)
■全略 (2009/10/27)
■明日の天気、雨後筍 (2009/10/24)
■大家と店子と持ち家と (2009/10/23)
■研究者は夢を語る仕事、のはずだけど (2009/10/21)
■研究者は夢を語る仕事 (2009/10/16)
■手話が次第に強まっていく一日 (2009/10/15)
■てふてふが一枚ねつとの海を渡つて行つた (2009/10/12)
■はたらけどはたらけど猶しめきりが (2009/10/08)
■頭がいいことはよいことか (2009/10/06)
■ウィキペディア承認制と人類の業 (2009/10/01)


2009年10月31日 (土)

■日本手話学会で研究倫理のシンポジウム開催

20091031, JASL meeting 日本手話学会大会(東大駒場キャンパス)で、「手話研究のあり方を考える」というシンポジウムが開催された。私は司会であり、仕掛人のひとりでもあった。

1975年に発足した日本手話学会は、手話言語の研究者やその関連領域の研究をする人たちによって作られた、歴史ある学会。ろう者と聴者がともに参加し、学会の会則第5条で「本会は、日本手話および日本語を公式言語とする」とはっきり規定している、日本では数少ない学術団体のひとつである。人文、社会、自然科学の分野の枠を越え、非専門家の参加者も歓迎する、懐の広い学会を目指してきた。

私は11年前に入会したものの、アフリカ現地調査にふけっていて、まじめに運営の手伝いもしてこなかった。去年の神戸大会に、カメルーンのろう者の共同研究者とともに講演に招いていただいたのがきっかけで、久しぶりに参加した。そして、ちょっと驚いた。なぜか、総会の雰囲気が非常に険悪で、暗いのである。

「聴者とろう者、専門家と非専門家の話が食い違って、かみあわない」
「手話通訳に協力する姿勢が見られない発表者がいる」
「手話を話すろう者の参加について、どれほど考えているのか」
「学会の役員のなり手もいない。解散するしかないのでは」…

か、解散? 自分はちっともまじめに関わってこなかったくせに、学会がなくなるとなれば、それはもったいないと思う。問題があるなら、むしろきちんとオープンに議論して、ろう者も聴者も、専門家も非専門家も、快適に参加できる学会に育てていった方がいいのでは? 総会を中座しての帰路、たまたま神戸市営地下鉄に乗り合わせたろう者の会員と意見交換、その思いを強めて「手話研究の倫理について議論しませんか?」と、一声あげた。その結果が、今年の大会でのこのシンポジウム。

ろう者2人、聴者2人の4人で、公開討論した。専門は、言語学、歴史研究、情報学・倫理学、文化人類学。ろう者と聴者がともにつくる、学際的な学会を象徴するような顔ぶれになった。そして、シンポジウムの大部分は、日本手話で進められた(音声日本語への通訳あり)。100名を超える多くの来場者が集まり、会場は熱気につつまれた。参加者からの質問も相次いで、時間が足りなくなるほど。

この開催で、学会全体がいい方向に舵を切れたかどうかは、まだ分からない。ただ、相互の非難や中傷などにもつながりかねない微妙な問題をあつかうこの企画にとって、意欲に満ちた参加者にめぐまれ、ポジティブで明るい雰囲気とともに開催できたのは、まことに幸いだった。そして、少なくとも、学術の使用言語として手話を尊重しよう、ろう者の学術界への参加をいっそう奨励していこうという流れは、強まりこそすれ、弱まることはないだろうと確信した。

学会存続の危機にあって火中の栗を拾い、盛大な大会の開催にこぎつけた、現理事のみなさん、実行委員会のみなさんに敬意を表しつつ。とりあえず、最初のステップをぶじにやりとげたことに、ほっと一安心している。

■開催概要
日本手話学会第35回大会
全体企画「わかり合える学会のために」午後の部
シンポジウム「手話研究のあり方を考える」

2009年10月31日(土)13:30-15:00
東京大学駒場キャンパス 12号館 1225教室

【企画・司会】亀井伸孝(東京外国語大学)
【パネリスト】田中紗織(MID)
       桜井 強(日本聾史学会)
       小薗江聡(国立障害者リハビリテーションセンター学院)

※写真は登壇者。左から、亀井および小薗江、田中、桜井の各氏。

[関連ページ]
『手話学研究』第18巻 (特集・手話研究の倫理)

[20100106付記]
このシンポジウムの報告書が、日本手話学会のホームページに掲載されました。ぜひごらんください。[こちら]


2009年10月28日 (水)

■文体模倣で事典を書こう

ものまねのノリで、事典を書こう。という話です。

百科事典で有名なある出版社から、分担執筆のご依頼をいただいた。事典を書くなら、やはりカンペキに「それっぽい文体」で書き上げたいよね、というこだわりがある。そこで、文体模倣。先人たちが書いた事典のページをめくりながら、文末などの言い回しをお借りする。

事典のお家芸は、やはり「主語がない断言口調」ですね。書いているワタシは、表に出てきてはいけません。

「…であるとされる。」
「広く…が見られる。」
「…ということが知られている。」
「…では見られない。」

(ほんまかいな)というツッコミが内心わき上がりそうだが、文体にはけっして迷いを見せないよう心がける。その項目を引く読者に、不安を与えてはいけないからね。ちなみに、そういうまなざしで見ると、だれでも書き込める Wikipedia には、まだ甘い文体の記述が多いようだ。やるなら、徹底して事典書きになりきるべし。

こうして、研究者たちが先人の例を見ながら、パスティーシュ(文体模倣)でいかにも事典っぽい文章を書く。すると、それがまた次の改訂のときに模倣される。そう、事典とは「壮大な文体模倣の蓄積と伝承」にほかならないのだと気付く。

「それっぽい文体」があちこちで伝承されているというのは、お茶やお花の流儀がいろいろあるのと同様、とても楽しいことだと思う。事典の仕事が終わったら、次は論文風? エッセイ風? それとも教科書風かな。次の模倣ネタを探して、楽しむことにしましょう。


2009年10月27日 (火)

■全略

手紙を書き始めようとして発見した、すさまじい誤変換。

「全略」

う…。後は、もう続けることばがありません。白紙のまま、投函しました。(んなこたない)


2009年10月24日 (土)

■明日の天気、雨後筍

新幹線の車内で、うつらうつらまどろみながら、電光掲示板のニュースをぼんやり眺めていた。

「25日の天気 東京=雨後筍」

ふうん、明日の東京は、雨後のタケノコかいな。…て、いったいなんですか、それは。

2回目に流れた同じニュース。

「25日の天気 東京=雨後曇」

よく見たら、「雨のちくもり」かいな。なんや、ふつうすぎておもろないなあ。

たった一文字で、世の中ぶっ飛ぶこともできるのに。あんがい、ふつうでまじめなことが多いんですな。


2009年10月23日 (金)

■大家と店子と持ち家と

本を作るとき、いろんな役割での関わり方があります。家にたとえてみると、分かりやすい。

【大家】=本の編者。企画を立案して、何人かに執筆を呼びかけ、原稿をまとめて整え、刊行する。全部ひとりで書き上げる必要はないけれど、全体の構成を考えたり、原稿を出してこない人に催促をしたり、用語や表記の統一をしたり、執筆チームをうまくコーディネートする能力が必要になる。

ええ、アパートを建てて借家人を入れ、家賃を取り立てて、修繕と庭の掃除をする。まさしく「大家さんの仕事」ですね。ときには、借家人(寄稿者)どうしがケンカし始めたりしてね。間に入って鎮めるのも、大家の役目です。気苦労はありますが、おもしろい。

【店子】=寄稿者。さっきの逆で、編者の呼びかけに応じて原稿を出す。全体の構想や細部の調整は、ぜんぶ編者におまかせ。自分の分担章だけきっちり仕上げて、後は細かい指示に従うだけでよい。

これは、ほんとに「借家人の気楽な身の上」だ。修繕も庭掃除もしなくていい、ぜんぶ大家にまかせればいいのだから。ただひとつ、家賃の納入(原稿の提出)だけは、守らないとね。滞納をしていたら、キツイ取り立てにあうことはまちがいないでしょう。さもなければ、追い立てにあってしまうよ。

【持ち家】=単著。一冊すべてを、ひとりで書き上げる。企画立案から、執筆、校正まで自分だけで進めるので、すべてを意のままに書けるけれども、助っ人はいない。

家賃(原稿)を取り立てにくるうるさい大家もいなければ、逆に家賃(原稿)を持ってきてくれる店子もいない。不具合が生じたら自分で修理しなければならないし、それを怠れば自分が不便な思いをするだけのこと。「自由がゆえの孤独」との闘いである。

ちなみに、研究者の業績の価値としては、(1) 持ち家 (2) 大家 (3) 店子 の順です。人に頼らず、ひとりで書き上げることができるというのは、立派なことだとされています。

作業の進み方が早いのは、(1) 大家 (2) 店子 (3) 持ち家 の順でしょうか。他人の負託を受けている大家は、とにかくがんばらざるをえません。また、大家から取り立てを受ける店子は、無理してでも原稿を書くでしょう。その点、ひたすら自律を求められる持ち家=単著は、早くても遅くても自己責任。これは、けっこうたいへんなのです。

今、私の3冊目の単著が、完成に向かいつつあります。はぁ…。「自らを律することの難しさ」を、痛感する毎日です。


2009年10月21日 (水)

■研究者は夢を語る仕事、のはずだけど

さすがにこれには大笑い、正確には「大苦笑」。こんな偶然はなかなかないので、記念に日記に書きとめましょう。

研究者の世界をちょっとでも景気付けましょうかと思い、先日の日記に「■研究者は夢を語る仕事」を書いた。ところが、ちょうど同じ日、民主党政権下の文部科学省は、なんと科研費の削減を打ち出していた。すでに募集が始まっているものを、途中でやっぱりやめましたというのである(下欄)。

このことで、今の私の研究生活にすぐに影響がおよぶわけではない。でも、これの獲得のために、時間と労力を注ぎ、夢を見てきた人たちは、それなりにいるでしょう。

明日ありと思ふ心の仇桜。皮算用は、いつ花と散ってしまうともかぎりません。「一期一会」と、日々の出会いに感謝しながら、研究に精進しましょうか。

なお、ブロガーの科学者たちが、この一週間、いろんなことを書いていますよ。この機会に、見解を見て回るのもいいかもしれません。

◎平成22年度科学研究費補助金の新規募集課題の公募停止について

事務連絡
平成21年10月16日

関係各研究機関
 科学研究費補助金担当課 御中

文部科学省研究振興局学術研究助成課
日本学術振興会研究事業部

平成22年度科学研究費補助金の新規募集課題の公募停止について

平成22年度科学研究費補助金については、一部研究種目を除き本年9月から公募を開始しておりますが、平成22年度「概算要求の見直し」に伴い、下記研究種目については平成22年度の新規募集課題の公募を停止することとなりました。

1.平成22年度新規募集課題の公募を停止する研究種目

(1)「新学術領域研究(研究課題提案型)」(文部科学省より公募)
(2)「若手研究(S)」(日本学術振興会より公募)


2009年10月16日 (金)

■研究者は夢を語る仕事

唐突ですけれど。研究者とは、「夢を語る仕事」なのだと思います。
あんなこといいな できたらいいな♪
と、ドラえもんの懐かしい歌が響いてくるようです。そういうふうに、「こういう知識や物や本やコンテンツがあったらいいなあ」という夢をたえず語り続けることが、研究のエネルギーの源泉だと思っています。

もちろん、夢を夢だけで終えてはいけません。それを、□年間の期間と、△万円の予算とに落とし込み、場合によっては☆人のスタッフを配置して、実際にその夢の○○を形にする必要があります。そのためには、研究計画書を上手に書いて研究費を獲得し、スケジュール管理をうまくやって時間をやりくりする技が要ります。

でも、そういうふうに、夢に時間とお金を付けたら、それはもはや夢ではなく、現実になるのです。

政権交代だの、予算削減だの、大学の交付金がどうの、外部評価がどうの、なんのかんのとせちがらい話が飛びかいます。でも、日々の些末な雑事に目を奪われて、夢を忘れていませんか。

秋は、科研費などの申請〆切の季節。「今後、どうする?」みたいな話題が、研究者たちの間でもっとも頻繁にとびかう時期です。ちまちまと堅実な作業工程を書き付けるのもいいけれど。こういうときこそ、たまにはでっかい夢でも見てみませんか。

あんな夢こんな夢 いっぱいあるけど♪
真っ白の研究計画書を前に、いろんな夢が去来しています。それは、ドラえもんのポケットのように未来に開かれた、「大いなる空欄」なのです。


2009年10月15日 (木)

■手話が次第に強まっていく一日

今日、都内でたまたま、三つの会合をかけもちすることがあった。「えーと、次のアポは○時だから…」。時間を念頭におきながら、ばたばたと移動する一日。

会議ごとに、使用言語の状況がずれていった。

一つ目の会合は、聞こえる人ばかり。音声の日本語で打ち合わせをする。

二つ目の会合は、ろう者と、手話が話せない聴者のどちらもが参加。手話通訳者同席で、日本語と日本手話が混在する会議。

三つ目の会合で会ったのは、ろう者のみ。日本手話であれこれと話す。

図に描いてみましょう。(■=音声日本語/□=日本手話)

1) ■■■■■■■■■■
2) ■□■□■□■□■□(通訳あり)
3) □□□□□□□□□□

なんだか、日が暮れるにつれて、だんだん手話が強まるなあ、という感じの一日でした。なお、単一言語の会議では通訳が要らないという(当たり前の)ことも、図で明らかになりますね。

その後、自宅に帰ります。もちろん、うちは手話の世界です。

4) □□□□□□□□□□

明日は? また聞こえる人たちとの仕事に戻ります。

明日) ■■■■■■■■■■


2009年10月12日 (月)

■てふてふが一枚ねつとの海を渡つて行つた

入稿の瞬間、
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。(安西冬衛「春」)
という一行詩が、頭をよぎった。

TeX(テフ)の形式を使った原稿を、初めて作成した。 TeX とは、テキストベースの組版システムである。自然科学系の論文作成ではよく使うらしいが、私がいまおつきあいのある人文社会科学系の分野では、あまり見たことがない。今回、編集代表者の方針で、初めて TeX をあつかってみる。

手引きを見ながら、章タイトルにはこれ、注にはこれ、文献リストはこうで、イタリックはこう、などと、自分の文章の各所に TeX 独自の文字列を付けていく。なるほど、いたって機能的にできています。

もとより私は、こういうちまちまとした手作業をおもしろいと感じる人である。ブログ全盛の今日でも、いまだにこの日記を手入力の html で書いているし、仕事上、wiki のタグをいじったりすることもある。だから、こういう新しいタグに出会うと、ふーん、こんなお作法もあるのかあと、まるで書道や茶道の流派のように眺めておもしろがっている。

原稿の中身はお粗末でも、TeX の形式だけは完璧にしあげるぞ!みたいなこだわりで、タグ付けをちょっと楽しんでしまったひととき。

さてと。完成原稿をメールに添付して、ぽち。送信。脱稿。

てふてふは、メールにくっついて、インターネットの大海のかなたへひらひらと飛んでいつてしまひましたとさ。をはり。


2009年10月8日 (水)

■はたらけどはたらけど猶しめきりが

ちょっと過労ぎみの日々です。通勤時間も惜しんで、平日も土日も祝日も自宅にこもり、いくつかの原稿書きに明け暮れています。
はたらけどはたらけど猶(なほ)しめきりが
楽にならざりぢつと手を見る
気分転換と目と手の休憩のために、うちで洗濯と掃除と買い物と料理とゴミ出しと餌やり(※)をする。

(※)うちには、セキセイインコと金魚がいます。

これ、近所の人びとの目で見たら、完全なる「主夫」に見えるだろうね。あの人、昼間から家で何してるんだろ、みたいに。

ええ、どう見られようとけっこうです。洗濯物を干しながら、買い物に向かう自転車をこぎながら、頭の中はフル回転で執筆と推敲をしているのです。それで着想がまとまったら、えいやっと机に張り付いて、飲まず食わずで数時間。ああ、肩がこる。

煮詰まって「ぢつと手を見る」暇があったら、何でもいいから手を動かしてみましょう。米をといだりしていると、意外といいアイディアが浮かんだりするのです。


2009年10月6日 (月)

■頭がいいことはよいことか

喫茶店で、うーんうーんと頭をひねりながら、コーヒー片手に原稿を書いていたときのこと。学校帰りの女子中学生たちが、周りでわいわいとおしゃべりをしていた。

A「ねえ、このへんでさあ、頭いい高校ってどこ?」
B「たしか、A高校だよ」
A「ふうん。じゃあ、大学で頭いいとこは?」
B「うーん、どこかなあ」
A「やっぱりさあ、頭いい友だちがほしいよねえ」

「頭がいいことはよいことだ」。わかりやすいなあ。君たちの「いい/悪い」のものさしは、たった1本なんだよね。

でもね、高学歴がいいとかぎったものではないよ、と、いちおう博士号をもっている隣の席のおじさん(=私)は、よけいなことを考える。もちろん、口を出したりはしない。静かに苦笑いし、聞き流して、もういちど書きかけの論文の方に頭を戻す。

研究の資源と機会をめぐって、競争環境は激しくなるばかり。研究と高等教育の業界は、なんともせちがらい話でいっぱいだ。そんなさもしい動機も抱えあわせながら、日夜、骨身を削って論文を書いている私の耳に、

「ねえ、やっぱりさあ、『頭いい』っていいよね!」

という君たちのことばは、とても新鮮に響いたのです。


2009年10月1日 (木)

■ウィキペディア承認制と人類の業

ついにウィキペディアが、承認制にふみきるとかである。

「ウィキペディア、岐路に 英語版で書き込み承認制度」(2009年9月23日, 産経新聞)

ネット上に構築されている、だれでもが書き込める百科事典「ウィキペディア」。専門家が独占してきた「事典の編集権」を、あらゆるネットユーザーに開放するという画期的な発想で、驚異的な増殖を続けてきた。ところが、今後、英語版では、人物に関する記述を変更する際には、「管理者」の承認が必要となる制度へと移行することになったという。

誹謗中傷など、悪質な行為を取り締まる必要があるというのが、おもな理由だと言うけれど。こういうところで人間の性悪説がちらりと出てしまうのを見ると、人類史の中で「階級」と「国家権力」ができていくときの再現実験を見ているような、ふしぎな感覚におそわれる。

やっぱり、理想主義的なコミューンは滅び、階級の専制が始まるのかな。オーウェル『動物農場』を読んだときのトホホ感を思い出すような、人類の業を感じさせるニュース。

■関連文献
リー, アンドリュー. 2009. 千葉敏生訳『ウィキペディア・レボリューション: 世界最大の百科事典はいかにして生まれたか』(ハヤカワ新書juice) 東京: 早川書房.



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