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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2017年4月

日本語 / English / Français
最終更新: 2017年5月9日

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■2017年4月のまとめ日記 (2017/04/30)
■アビジャン日記 (4): 来てみて分かる学術的な資源と人脈/腹立たしい話:フランス手話をめぐって (2017/04/29)
■アビジャン日記 (3): 客員教授始動/ついに引っ越し (2017/04/22)
■アビジャン日記 (2): 手話啓発冊子編集のワークショップ/いきなりの入居拒否 (2017/04/15)
■アビジャン日記 (1): 長期学外研究開始/アビジャンに到着 (2017/04/08)
■教授昇任の機会に (2017/04/03)


2017年4月30日 (日)

■2017年4月のまとめ日記

4/1、新年度始まる。初めて取得した長期学外研究の1年が開始。
4/3、月曜日、教授昇任の辞令式、ゼミ生としばしおいとまの花見会。
4/5、出国。あまりに早い出発。そんなに日本がイヤなんか、と自分につっこみみたいほど。
4/6、アビジャンに到着。
以後、いろいろ。おもに家探し、大学あいさつ、日本大使館などへのあいさつ、ビザの延長手続き、人脈の取り戻しと新規開拓、滞在中の研究計画の構想などでこの3週間を過ごす。
オタワでのIUAES発表準備なども。
4/29-30、アビジャンからオタワへ移動。


2017年4月29日 (土)

■アビジャン日記 (4): 来てみて分かる学術的な資源と人脈/腹立たしい話:フランス手話をめぐって

今週も、ざっくり週末まとめ日記を書きます。

photo20170422_Jacqueville.JPG

「海に泳ぎに行こうぜ! ヤシのジュース飲んでご飯食べて騒ぐぞ!」とかいう友人たちのお誘いがあって、何も考えずにバスの日帰り旅行に参加してみたら、キリスト教会の大まじめな集会で、浜辺のヤシの木の下で敬虔なお祈りと人生と結婚について考える討論会でゲストトークまで頼まれちゃって、という不思議な週末を過ごした後、1週間が過ぎました。

■来てみて分かる学術的な資源と人脈
今週の大きな進展と言えば。居候している大学の応用言語学研究所の所長やスタッフと会って、いろいろな活動の仕込みをしたこと。

研究室や鍵や客員研究員の立場や、そうした実務的なこともありがたかったけれど、何と言っても、ここの大学の研究者たちがもっている資源と人脈を見つけ始めたことが励みになった。

ひとつは、西アフリカ言語学会という国際的な団体があって、会った所長がその会長を務めていると分かったこと。学術的なつながりを広げる機会になるし、予定されている国際会議の詳細も知ったし、これはよいつてになりそうだと期待が広がった。

もうひとつは、この研究所が刊行している学術雑誌の編集担当者とお会いして、投稿規定などの詳しい話を聞くことができたこと。西アフリカで出ている雑誌に、本格的なフランス語のペーパーを査読付きで出したい、という淡い夢を抱いていたものの、方法も媒体も内容も未定のままであった。

今回の打ち合わせでトントン拍子に話がまとまり、じゃあ思い切って投稿してみるか、ということになった。すでに英文で出ている論文を、滞在中に自分でフランス語訳して投稿するぞ、という目標が、流れと勢いで形になってしまった。

フランス語でフルペーパーなんて、そんな大それたことが本当にできるのか!? それは、できてから報告したいと思います。

今、毎日フランス語で話し考える暮らしをしていて、目の前に受理してくれそうな雑誌があり、困った時にフランス語の校正の面倒を見てくれそうな人たちがいる。夢がある以上は、ここに滞在している間に勢いで書いてしまわないことには。私は自分のズボラな性格をよく知っているので、日本に帰ってやりそうにないことは、こちらで滞在中にやってしまうに限る。

というわけで、まだ何も達成していませんが、いろいろと期待だけは膨らむ今週だったのでした。

■人類学?言語学?
今日は細かく書く気はありませんけど。こちらでの付き合いが、ほぼ言語学関係になっているということについて。

背景としては、ここのろう者たちが大学の言語学の研究者たちとコラボしてきているため、私もそのツテにお世話になり、今回もおじゃましているという流れなんですが。

…うん、当地のことに限らずなんですけど。手話とろう者のテーマについて、言語学は比較的寛大で受け入れに積極的で、人類学は受け入れの積極性に欠けている、という業界のムードがあるように感じられてならない。

いえね、たとえば、国際的な学術会議で言えば。「手話は言語である」と一度認めたからには、言語学の分野ではしつこく手話言語の分科会を設け続けたりするのですよね。

同様に、「ろう者の生活様式は文化である」と認めた以上、文化人類学の国際会議で、毎回ろう文化の分科会を設けたりしますか? しませんよね。

手話の存在を認知し、その認識を前提として共有し、研究を奨励する。という意味では、言語学の人たちの方が話が通りやすい。人類学は、むむ…という感じである。私は文化人類学者でありながらも、意気投合した言語学者たちとのコラボが広がっていく。そんな日々が続く。

■腹立たしい話:フランス手話をめぐって
またも、友人から腹立たしい話を聞いた。

フランスのろう者の女性が、コートジボワールの聴者の男性と結婚する運びとなり、婚姻届の手続きと結婚式のためにアビジャンにやってきた。

彼女は、フランス手話を話す人である。一方、コートジボワールで現在話されている手話は、アメリカ手話にフランス語の特徴が加わった独自の言語(フランス語圏アフリカ手話)であり、フランス手話とは異なる言語である。

アビジャンでの結婚式のために手伝いに駆けつけた、当地の手話通訳者に対して、彼女はこう言ったという。

「あなたがたも、フランス手話を使えばいいのに。なぜ使わないの?」

コートジボワールはかつての植民地支配の歴史も関連して、音声言語としてはフランス語を使っており、公用語にもなっている。一方で、手話はフランス手話の影響を受けることなく、むしろアメリカのろう者宣教師の活躍によってろう教育が成立したため、アメリカ手話に近縁の手話が普及している(参考文献)。ここのろう者たちが編集した辞書も教材もあり、学校で教育もし、教員研修も手話通訳もすべてそれで行っている、そういう完全に定着した歴史のある手話が当地にあるというのに。フランスのろう者は、「フランス手話に変えればいい」といったことを平気で言うのである。

当地の手話通訳者は、フランス手話をふだん使っていない。フランスからの遠来の客人のために、フランス手話の語彙を少し学び、通訳の中で活かそうと努力している。そういうアフリカ側のフランスへの歩み寄りに対する配慮もなく、相手の言語を否定し、自分の言語の使用と普及を期待し、あるいは要求し、それに対する疑いをもっていない。

なんという、自文化中心主義的な姿勢、傲慢さであろうか。

手話通訳者の友人は、私にこう語った。

「ここのろう者たちは、フランス手話の導入を拒否している。でも、もしかしたら、いずれフランスが資金援助付きで、フランス手話で教育するろう学校を、この国に作ってしまうかもしれないね」

フランスのろう者が、自分たちの話すフランス手話を大切に思い、それを自由に使用する権利を、私は尊重する。しかし、はっきりと言っておきたい。「それをアフリカに押し付けるな」と。フランスが時おり見せるこうしたアフリカへの傲慢な態度を、私は憎んでいる。

(注1)フランスのろう者がみなこのような思想をもっているとは限らないことに留意。あくまでも、ひとつの事例です。

(注2)フランスのろう者だけでなく、フランスの聴者たちの中にも、アフリカにおけるフランス手話の強引な導入と普及のために活動している人たちがいる。はっきり言って、自分たちの確立した手話言語をもっているアフリカのろう者にとって迷惑なので、止めるべきだと私は考えている。

■断水との闘い/手首のケガ
借家に引っ越して4日目、日曜日の朝。水が止まった。そもそも上水道の供給量に比して人口が多すぎると言われるアビジャンでは、計画的な断水がしばしばあると聞く。

さらには、アパートの3階(現地呼称では 2e étage)に暮らしていると、水圧が低いことが原因で、地上階では問題なく水が出る時でも、階上では水が出ないことがある。上層階の暮らしとは、断水の危機と常に隣り合わせにある。

日曜日、桶にためていた水で耐える。月曜日、断水2日目で、階下の大家に言って水を分けてもらう。火曜日、朝だけ一瞬水が復活し、慌てて桶にためにかかるも、また断水。この3日間は、とくに水不足でつらかった。

その火曜日の深夜、集中豪雨に襲われる。バケツをひっくり返したようなというたとえの通り、すさまじい勢いで雨が降った。まさに干天の慈雨。私たちは、大喜びでバケツと洗面器と鍋をベランダに出して、雨水をためた。小躍りしながらずぶぬれで雨水をくんでいて、ベランダで滑って転んで左手首を強打、ケガをした。

轟々と雨が降り、やがてピタリと止む。雨上がりの涼やかな風を窓から入れながら、左手に湿布を貼って痛みに耐える。熱帯の夜のできごとである。

さて、この週末でアビジャン暮らしを少し中断、カナダのオタワで開かれる国際人類学民族科学連合(IUAES)中間会議へと出発。つかの間の先進国生活、つかの間の英語圏、そして、つかの間の寒い国。

「きみ、花粉症が再燃するんじゃない?」などと友人たちにからかわれながら、アビジャンを後にする。来週は、オタワ日記になります。

日本はそろそろ連休のシーズンですね。みなさま、よい休暇を。Bonnes vacances!


2017年4月22日 (土)

■アビジャン日記 (3): 客員教授始動/ついに引っ越し

今週は、復活祭のお祭りでろう者の教会にお招き、から始まって、いろいろありました。最大のトピックは、ついに引っ越した!です。

photo20170418_UFHB.JPG

■客員教授始動
今回は、フェリックス・ウフェ=ボワニ大学の客員教授という資格で滞在している。ここの大学の応用言語学研究所というところと共同研究をするという形である。

昔から思っていたんですよ。アフリカの大学とかで客員として在籍して、バリバリ活躍する人などがいて、いったいどんなふうにしたらそんなところに潜り込めるんだろう、世の中にはすごい人たちもいるもんだ、などと思っていた。気付いたら自分がそういう立場になっていたのだが、何てことない、これまでの短期滞在でいつもよく訪ねてきた大学に、名実ともに世話になることになったという流れである。

始動といっても、今週はあいさつ回りでほとんど終わり。人脈をつなぎつつ、これからのいくつかの成果発信の仕込みができたかな、という感じである。

芝生の美しい、広大なキャンパス。客員=完全なる自由なので。授業も何もまったく課せられていない代わりに、ぼけっとしていたら何もしないまま終わってしまう。明快な目標、企画の提案、そして、用事がなくてもぶらぶらしに行くぞ、という三つの行動指針を念頭に、この大学を味わっていこうと思います。

■ついに引っ越し
今週の最大の課題は、何と言っても「本当に引っ越しができるのか」ということであった。

先週の木曜日の晩に、よさげな物件ありとの情報がまいこむ。金曜日に下見。土曜日に借家の契約ができる見込みであったものの、内装が終わっていない、水道も工事中、などなどと未整備のことがいくつかあって、延び延びになっていた。

水曜日。朝9時から本当に契約するぞという約束が、結果として17時頃にずれ込んだとは言え、本当に契約書を取り交わして借家を手に入れた。

木曜日。荷造りをしてホテルを退去。友人たちの車と手を借りて、荷物を移し、主要な家具類を買いそろえて、引っ越し完了。

備忘録として書いておくと。さまざまな交渉の結果、家賃4か月分を敷金、3か月分を前払い、1か月分が仲介業者謝礼。合計8か月分の家賃を現金で手渡しと相成った。金額や月数などは、交渉の範囲。物件や賃貸期間の長さにも依ることであろう。

セキュリティのため、詳しくは書きませんが。ヨプゴン地区の、まあまあ静かでまあまあ便利そうな一角の、アパートの3階(現地呼称では 2e étage)に転がり込んだ。

何と言っても、ろう学校が近く、手話で話すろう者の仲間たちも集まっていて、さらにベテラン手話通訳者である旧友の家のすぐ近所という、手話的には恵まれた環境である。ろう者のつれあいも、また、手話仲間と仕事をする私としても、いい環境を手に入れたと喜んでいる。

玉にきずと言えば、大学まで少し距離があるため、毎日通うとなると少し不便ではある。まあ、いいや。大学とろうコミュニティと、半々くらいで通えればいいと思っているからである。

■大都市で村のような調査:ゆっくりと情勢に耳を傾ける
今回は、いつにも増して滞在時間が長いので。あわてて調査、会議、インタビューというふうに予定を詰めず、家探しのかたわら、旧知の人たちと再会しつつ、ゆっくりと人間関係を温め直し、いろいろな大学・NGOの活動、それを取り巻く状況などの話に耳を傾ける日々をもっている。このペースが、何とも心地よい。

以前、「村の調査」と「町の調査」の違いということを考えたことがあった。[関連日記]

文化人類学者がフィールドワークをする時、いくつかの類型があるが、私は典型的な両極端の調査を経験してきた。

カメルーンの東部州の熱帯雨林で1年半の住み込み調査をしたときは、日々の暮らしの中に調査があって、あくせくとせずに、滞在すること自体が学びの日々となっていた。

一方、コートジボワールのアビジャンという大都会で短期訪問調査を繰り返すようになってからは、日々の暮らしではなく、毎日のアポと会議を重ねる中で、生活とは別の「業務としての」調査を行うことに励んできた。

今回は、どうやら、過度にあくせくしない、住みながらじんわりと分かってくるのを待つという、村の調査のタイプの学びができそうな予感がしている。

■啓発パンフレット作成のお手伝い
とはいえ、こちらの人たちにもいろいろと成果公開のスケジュールがあって、〆切なども存在している。

先週紹介した、手話啓発パンフレットの作成に追われるみなさんにたまたま巻き込まれた私としては、流れで編集メンバーに名を連ねることになった以上、事実関係に間違いがあってはいけないと、乗りかかった船にまじめに乗っかって、原稿に記載された事実の裏を取るような調査を買って出た。

むろん無報酬だが、研究成果になるし、社会啓発のお役に立てるし、それでろう者や手話に対する誤解や偏見が少しでも緩和するならいいことではないか。かつて岩波ジュニア新書『手話の世界を訪ねよう』を書いたときの気持ちを回想しながら、軽めの編集作業の手伝いをしつつ、調査のウォーミングアップをしている。

あ、そろそろ、国際人類学民族科学連合(IUAES)オタワ会議の日程が迫ってきました。アビジャン生活を少し中断して、4月末から北米への旅に出ます。やっと借家に落ち着いたなか、またもや旅支度が始まります。

では、また来週。Bon week-end !


2017年4月15日 (土)

■アビジャン日記 (2): 手話啓発冊子編集のワークショップ/いきなりの入居拒否

アビジャンに来て10日です。とりあえずの達成は「やっと大家さんに会えた」。

■「脱走兵」のキモチ
カレンダーでは、今週から絶賛授業開始の週です。教務関係の業務連絡メールが、教員間で猛然と飛び交っている。

もちろん、私は公的にそれらの仕事を免除されているのだけれど。そういう同僚たちの多忙さを横目に、「ひとりアフリカで春休みの続きをずっとしていること」に、少しだけ罪悪感がなくもない。たとえて言えば、ひとり安全圏に抜け出して仲間を置き去りにしてしまった、脱走兵のようなキモチであろうか。

#以前、施設を出て自立生活を営んでいる重度障害の人が、「仲間を置き去りにしてきた脱走兵の気持ちだ」という内容のことを書いている記事があって、それを念頭に置いた表現です。

■足が痛い!
実は、アビジャンに着いて、足を引きずって暮らしている。2年前に患った右足の捻挫。すっかり完治したはずだったが、来がけの長期フライトと重量の大荷物を背負っての移動で、相当に足に負荷がかかってしまい、到着時には足首に痛みが走っていた。

しばらく経っても痛みが引かないので、湿布を貼り、杖を買って、おそるおそる歩いて暮らしている。何たることだ。長期フィールドワークであちこち歩き回りたい初日から、杖を使って安静生活。それでも、タクシーを乗り継いで、あちこち駆け回っている。

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■「聴者のあるある質問に答えます」冊子編集のワークショップ
今週の大仕事は、当地のNGOが準備している、手話啓発パンフレットの編集会議にゲストコメンテータとして参加したこと。うちのつれあいともども、当地の手話関係の要人たちとまとめて会える最初の会合となった。

よくあるでしょ。聞こえる人たちからろう者に寄せられる「あるある質問」。

「手話って、世界共通なんですか?」
「手話に文法なんかあるの?」
「身ぶりと同じ?」
「ろう者は文章がうまくならないの?」
「手話で難しいこと話せるんですか?」

などなど。世界中のろう者たちがこういう質問(愚問)攻めにあっていて、説明して誤解を解くために、法外な時間のムダが生じている。

ここ、コートジボワールでも、聞こえる人たちの誤解や無知が、手話普及活動の阻害要因になっている。だったら、まとめて答えるパンフレットを作って無料で配布すればいいじゃん。そう考えたろう者たちが、52項目の一問一答の原稿を作った。みんなでそれを読み合わせて、原稿のバージョンアップをする。

こんな項目もあります。

「Q: ろう者の手話は、サルのまねですか?」
「A: いいえ。それは、かつてアフリカが植民地支配されていた時代に、植民者たちがアフリカの諸言語を動物の鳴き声のように見なしたのと同じです」

おー、それいいから入れよう!などと会議で盛り上がっていた。アフリカの歴史観がにじみ出る、すてきな手話啓発読本です。

アメリカの有名なシリーズ本、For Hearing People Only によく似た試みだなと思った。今年の5月頃に刊行だそうで、楽しみです。

■はじめての入居拒否
私生活面を書きます。今週の最大の驚き。借家の入居を、「外国人だから」という理由で断られたこと。

さすがに何か月ものホテル暮らしは高く付くので、いい家はないかなと、先週の金曜日、到着の翌日から友人たちに相談して、借家探しをしてきた。

まず少し驚いたのは、家の内覧が有料であること。つまり、よさげな物件があったとき、鍵を開けて中を見せてもらうために、いち業者5,000フラン(約1,000円)を払う必要がある。同じ業者に何軒もまとめて見せてもらうときは、5,000だけで済むけれど、紹介業者が異なる場合は、そのつど5,000ずつ払わなければならない。家を探し続けるだけで、内覧謝金がかさんでいくのである。

早く決めてしまいたいと思った私らは、アパート2階(現地呼称では 1e étage)の手頃な部屋でまあよさそうだと思い、大家への紹介を頼んだ。数日後。大家から業者を介して電話で返事。「イヴォアリアン(コートジボワール人)にしか貸しません」。え!?

当地の長い付き合いの友人たちは、みな一様に憤り、この家主はおかしい、と私たちに共感してくれた。

でも、いったい何で断るんだ? 特段に日本人に対する侮蔑や嫌悪を聞かないので、ちょっと不思議にも感じられた。友人たちの間にも、いくつもの説明があった。

「民族差別と同様」説。当地では、外国人だけでなく、出自の民族が違うだけで貸し渋るケースがある。外国人だけを狙い撃ちしたわけじゃないんだよ、という説明。

「ろう者差別」説。当地の聞こえない友人も、借家契約直前で理由も言わずに拒否されたことがあるという。うちのつれあいがろう者だからかも?という可能性。

「フェティシズム」説。文化人類学の素養のある大学院生の説明。家主が呪物信仰をもっていて、外国人が入居することで何か家に災いがもたらされると考えたのではないか。

「植民地支配の歴史認識」説。外国人居住の少ないエリアであるため、(日本人も含めた非アフリカ人という広い意味での)「白人」の入居に警戒心があるのかもしれない。植民地時代の悪しき記憶であると。

背景説明については諸説飛びかったが、ともあれ拒まれたのは事実であるし、交渉で説得したって入居できる可能性は高くないし、そもそもこっちだって気分も悪いし、時間のムダでもあるし。縁がなかったと思って諦めて、次の物件を見に行くことにした(内覧の謝金くらい返せとか言いたいけどね)。

まあそれでも、今週の達成は、手話通訳を専業とする友人の近所に新築アパートがあり、その3階(現地呼称では 2e étage)の完成間近の空室に早々とつばをつけて、とりあえず大家に会えたこと。まあどうなるかまだ分からないが、賃貸の口約束まではこぎ着けた。

外国人を受け入れないような意地悪な大家ばかりではないよ、という友人たちのことばに励まされて、家探しは続く。

■WOCAL9
今週の発見。次の世界アフリカ言語学会議(WOCAL)の概要が公開されていることを知った。

第9回世界アフリカ言語学会議 (WOCAL9)
「グローバル世界におけるアフリカの諸言語」
[サブテーマ「アフリカの手話言語」を含む]
2018年8月23-26日
モロッコ, ラバト, ムハンマド5世大学ラバト・アグダル校人文学部
http://nimarrabat.nl/en/news/conference/

研究の生産性が高いわけではない私ですが。こういう晴れ舞台の目標があると、ちょっとがんばろうかなという気になってくる。

モロッコと言えば、アラビア語の世界ですよ。初めての北アフリカ。やっぱり、ちょっとこういう会議でちゃんと発表し、交流もしてくるぞという目標を決めて、今からアラビア語の勉強を始めようと、あらためて決意した。アフリカ滞在の大目標として、今年はフランス語とアラビア語の年にする。

では、また来週。Bon week-end !


2017年4月8日 (土)

■アビジャン日記 (1): 長期学外研究開始/アビジャンに到着

アビジャンで、ぼつぼつ日記を再開しようと思います。気分屋なので、いつまで続くかな。基本、土曜日記(週末まとめ日記)にする予定です。

■長期学外研究
勤務先の大学の「長期学外研究」制度を使って、2017年度の1年間、すべての講義、ゼミ、論文指導、院生指導、大学運営業務をお休みにし、海外での研究に専念するという期間をいただいた。世に言う「サバティカル」に似た制度である(少し違うけれど)。

研究に専念するために、学長裁量予算からいくばくかの研究費が支給される。もちろんそれもありがたいのだが、私がこれを申請した最大の理由は「在外滞在時間の確保」。お金もさることながら、とにかく調査とそのとりまとめのための時間が欲しい!ということを、申請書で強調した。

在外期間の長さは、自分で決めることができる。何人かの同僚は、あんまり迷惑をかけてもいけないからね、と、遠慮して6か月にするなどしていた。私もいろいろと考えた。ただし、帰ってきた同僚たちが「やっぱり半年だと短いなー」「1年で出しときゃよかった」などと事後にこぼしているのも聞いた。

「何度も取れる機会ではないんだから。1年行きたいなら、権利として、堂々と1年を申請しなさい」と背中を押してくれる同僚のことばに励まされた。それで、思い切って4月から3月までの約12か月、ということにした。

6年勤続してきた大学のキャンパスを1年間留守にするには、それなりの勇気と決断が必要であった。特に、卒業論文を控えた学生たちへの影響、ゼミや授業、その他課外活動などで、次年度のことを期待してくれていた学生たちも多かった。顔を思い浮かべ始めると、(やっぱりやめとこうかな…)という弱気の虫がわいてくる。でも、それを言っていたら、定年退職するまで抜け出せないことになる。

最後の自分への説得のことばは、これだった。「学生たちだって、1年間留学休学して、いろいろなことを中断し、後回しにしている。私だって、1回くらいそうすることがあっていい」。

影響の及んだ人たちや部局、とくに論文指導に関わる学生たちとは、丁寧に引き継ぎや埋め合わせ、アフターケアの準備をしたつもり。引き継げることは引き継ぎ、代わりがいないものは中止し、学内外の共同研究などもすべて「多重債務者が自己破産して借金の整理をするような思いで」できるできないを決断し、ようやく空き時間を作り上げた。むりやり1年をこじ開けた感じであった。

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■鶴舞公園での最後のお花見
4/3月、新年度最初の平日である。桜のつぼみが開きかけたキャンパスで、辞令式。法人理事長から教授任命の辞令をもらい、最後の学生たちの訪問を受け、研究室の片付けと荷造りをして、スーツケースを引きずりながら出発。次にここに来るのは、今年度が終わる卒業式の頃である。

名古屋駅へ向かう途中に、ちょっと寄り道をした。「出発前にお花見をしよう」と約束していたゼミの学生たちと、桜真っ盛りの鶴舞公園で落ち合った。

灯火に照らされて、妖艶な輝きを見せる夜桜。寒空の下で、しばらく会えなくなる学生たちと乾杯した。みなさん就職とフィールドワーク、そして論文作成がんばってね、いい成果が出ますように。卒業式の日に会いましょう。来年の春は、みなさんの門出を祝う花見をしよう。わいわいと話して、別れを告げる。よい集いだった。

■羽田からパリ、そしてアビジャンへ
出発は羽田。パリ直行のANAで旅は始まった。

離陸したときの感情が忘れられない。心が押しつぶされそうな日本のさまざまなしがらみというしがらみから、自分の身体をべりべりと引きはがすような痛みがあった。そして、それらすべてが眼下の風景とともに遠くに去っていく時の、心のやすらぎ、解放感といったら。

1年間、この島国からさようなら。パリまで、よく眠った。

パリで1泊。重い荷物を引きずっての道中、右足首の痛みが再発してしまった。足も痛いことから、あまり動くことはしなかった。

翌日、エールフランスのアビジャン便。表示文字も周囲の会話も、じんわりと言語環境がフランス語に移ろっていくことに、少し心がほっとする(そんなにできるわけじゃないけど)。

アビジャンに着いたのは夜更けであった。肌寒いパリから、じっとりと湿度の高い雨上がりの熱帯のアビジャンへ。機外へ出たときのねっとりとした空気を吸って、熱帯アフリカでの生活が始まったことを実感した。

■心境の変化
アフリカに着くと、いつも思うことがある。

日本にいると、ヨーロッパへの憧れも多少は感じることがある。しかし、アフリカに着くと、なぜかヨーロッパへの憧憬がすーっと霧のように消えてしまうのである。

私にとって、ヨーロッパとは「アフリカ行きの途中の通過点」。よく、ヨーロッパまで観光や留学で来て、そのまま日本に帰ってしまう人たちがいる。それも結構だけれど、私には、せっかくヨーロッパまで来て、アフリカに行かずに帰ってしまうという「中途半端な旅」に見えてしまうのだ。

さらに、アフリカにいると、フランスやイギリス、ベルギーはどうしても「旧宗主国」のイメージとともに映る。今もなお政治経済の側面で権力を行使し、特権階級としてアフリカに接している、そういうヨーロッパに対する複雑な感情にも共感する。

日本目線から、アフリカ目線へ。世界が違って見えてくるのである。

もうひとつの変化。アフリカに来ると、日本でのいくつかの持病がすっと消える。その最たるものは、花粉症。スギのない地域に暮らす幸せをかみしめる。

■アビジャン生活、起動中
アビジャンに着いて3日。なじみのホテルに投宿し、「おー、カメイ!また来たか」と歓迎される。いつもお世話になっているろう学校の人脈との出会いが始まる。今回は長期滞在なので、借家探しから始めるというふうに、住み方自体もこれまでとは違う。

SIMカードを買って携帯電話をセッティングし、不動産めぐりをし、などという生活基盤の準備で今週は終わる。

来週から、また、借家の契約、そのための換金、水光熱契約、掃除、買い物などを進めつつ、少しずつ、到着後の大学関係のあいさつや、行事、会議などが入ってくる。熱帯なので、ムリして働いて倒れてもしかたない。のんびりとやります。

【付記】
今回は、全日程、私のつれあい(ろう者)が在外研究に同行して海外に滞在する予定です。家族同行休職を認めてくださった勤務先のご配慮に感謝。

これまで、海外での調査や学会出張で、短期で旅行を一緒にしたことは何度もあるが、長期で何か月も住むというのは、2003年の滞米2か月以来のことである。そして、長期で夫婦でアフリカに住むのは、今回が初めて。

彼女は彼女の視点で、この在外生活をブログに書いています。私が書いていないこと、気付いていないこと、アフリカ生活に慣れすぎてしまって今さら書こうと思わないことなども多いと思うので。このさい、旅の恥はかき捨てです。どうぞ見てやってください。

「Deaf Journal: ろう者の風景」
ろう者として『見る』文化の視点から徒然なるまゝに。
http://deafjournal.blog.fc2.com/

では、また来週。Bon week-end !


2017年4月3日 (月)

■教授昇任の機会に

2017年度が始まるにあたり。勤務先の愛知県公立大学法人から、教授昇任の辞令を受けた。人生においてこういう節目はそうそうないので、少し振り返って思いなどを書いてみたい。

■40歳で教授になるという無謀な目標
大学の研究教育職を目指そう、と決めた頃、たしか大学院生のいつかだったと思うが、「40歳で教授になってやろう」という目標を立てた。そもそも定職に就けるかどうかすら決まっていなかったので、こんな厚かましい目標はだれにも話したことがない。

結果として、45歳と6か月で達成したので、数年遅れの目標達成となった。しいて言えば、教授昇任の推薦の打診を受け、審査のための膨大な書類をすべて用意し、提出し終えたのが、44歳11か月と何日かくらいのことだったから、「四捨五入すれば、ぎりぎり40歳に近い側で準備を終えた」と言えなくもない。まあ、長い人生の中では誤差のような年月かもしれない。

アフリカ・カメルーンの熱帯雨林での長期フィールドワークを終えて博士論文を仕上げたのが、ちょうど30歳。それから、任期付きの職を転々とする月日が始まった。

教授という語彙を含む職を初めていただいたのが、34歳。関西学院大学の「COE特任助教授」という任期付きのポストだった。その後「COE特任准教授」になり、東京外国語大学でいちど「研究員」に逆戻りし、大阪国際大学で「准教授(ただし任期付き)」になり。愛知県立大学で任期のない准教授になったのが、39歳であった。

この時点で、満40歳で教授になることは、現実的な目標ではなくなった。着任して1年で教授に上がることなど、まずできないからである。四捨五入でいいか、くらいに自ずとトーンは下がっていた。

■愛知県立大学でのがむしゃらな働き
私にとって、この大学への着任は、教授という肩書きを得ることよりも重要な意味をもっていた。それまで任期のない職に就いたことがなかったため、長期にわたっていろいろじっくりと取り組めるまたとないチャンスになると受け止めたのだ。

その後、学内におけるあらゆる教育上の資格を、最短の年数で獲得していった。

まず、「大学院博士前期課程の副指導」。それを2年間まっとうしたら、次のステップに行ける。

それをコンプリートして、「博士前期課程の主指導」と「博士後期課程の副指導」の資格を得た。それで、さらに2年間。

着任後4年で、「博士後期課程の主指導」の資格を獲得した。それをこなしてさらに2年。着任6年で、教授職にたどりついた。

これらは、教授職にたどり着くための必要条件ということではないけれども。「できることは最大限やる」の原則で、なるべく早く、多めに、引き受けてきた。

こうした貪欲な指導資格への渇望は、肩書きが欲しいがための方便ということではない。これまで任期付きばかりで、したくてもできなかった院生指導という仕事を、自分が励めば励むほど、早く手に入れることができる。そうであれば、先延ばしする意味もないではないか。

そんなことしていたら時間が奪われるとか、仕事が増えないようにあえて手を上げないでおこうとか、そういう価値観が存在することは承知である。しかし、私はそう考えなかった。好んで大学院生を受け入れ、その実績を活かして、その次の資格を、というふうに、前のめりの職歴獲得を繰り返した。

(もっとも、同僚の同分野のベテラン教員が想定外の早期退職をして、そういった役回りを前倒しで引き継ぐ必要性が降りかかってきたという要因もあったことは事実である)

幸い、学部生の方でも、ゼミや卒論指導を希望してくれる学生たちに恵まれて、来るものは拒まずで基本受け入れてきて、楽しくわいわいとやってきた。それらがすべて教育上の実績となって、教授昇任審査でもプラスの評価として見ていただけた。飽きずに相手をしてくれた学部生や院生のみなさんが、私をここまで押し上げてくれたとも言える。

■教授の何がいいのか
教授昇任ということについて、私の中にプラスの感情がふたつある。ひとつは、今書いたように、研究や教育、大学運営、社会貢献という各分野の業務にがむしゃらに取り組んできたことに対して、ひとつの評価をもらえたという達成感である。たかが名前にすぎないが、手を抜いていてはもらえない資格であることには変わりない。

(もちろん、その逆は真ではない。大変に努力して成果を上げていても、その立場にたまたま立てない人が多いことに留意が必要である)

もうひとつは、職階の権力と権威を公正さのために利用してやろうという野心である。たとえば、障害をもつ学生や教職員のためのバリアフリー施策。これまで学生だったころ、大学非公認のモグリの手話通訳者だったころ、任期付き研究員だったころ。どんなに主張しても、いずれはいなくなるやつだろうというくらいに軽くあしらわれ、組織のための根幹的な改善提言や行動ができないまま、歯がゆい思いとともに組織を去るということが繰り返されてきた(それでも、無力と分かっていながら、じたばたと主張し、また行動もしてきたけれど)。

組織になめられない力をもった構成員になったからには、そのささやかな権力を、マイノリティを包摂する公正さの実現のために振り向けて使いたいと思う。学内でも、学外でも。これが、二つ目。

なお、ネガティブな感情もふたつほど書いておく。ひとつは、肩書きを無心し自己保身を図るといった、権威権力の亡者みたいなのと何が違うのか、という自戒的な緊張感があること。もうひとつは、やはりこのご時世、定職を得ること自体に苦労を重ねている研究者たちが多くいる中で、抜け駆けをした脱走兵のようなやましさを禁じえないことである。

■1年後に本格始動します
年度始めの教授任命の式典に出席した。もっとも、式典に顔を出したその日のうちに、私は研究室の大掃除をし、スーツケースに荷物を詰めて、大学を後にした。1年間、アフリカなどでの長期調査に出かける年度が始まったからである。つまり、この1年間は、本当にただの紙切れに書かれた名前にすぎない。

本格始動は、1年後からということになるのだろう。よくあるのが、教授になると、なんとか委員長とかなんとか主任とかなんとかセンター長とか、学内業務の山が押し寄せてきて大変になるよ、というささやきである。まあ、そうかもしれない。

でも、それも、マイノリティも含めて、公正さを実現する開かれた大学作りにつながるのであれば、喜んでやりますよ。もともと、そういうことができずに口惜しい思いをしてきた年月をもっているだけに、できるようになってから、そうした働きを拒む理由はないからである。

これまで引き立ててくださった方がたには、感謝の一言に尽きる。また、論文指導を期待して志願してくれた学部生や院生たちにも、そのことで教育経験を積む機会をくれたことに恩義を感じている。

こうしたご厚意や恩義をむだにしないためにも。「○○に邁進する所存であります」などというお仕着せの決意表明はしないけれど。おもしろく開かれた自由な大学作りのために、与えられたその立場をこれからも最大限利用してやろうと、さっそくアホな余計なことを考え始めている。



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