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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2010年9月

日本語 / English / Français
最終更新: 2010年9月30日
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■玄米を噛みしめて (2010/09/30)
■チラシ拾いとドブさらい (2010/09/27)
■点字と手話はなぜまとめてあつかわれるのか (2010/09/20)
■ニッポンに英語を話すよろこびを? (2010/09/11)
■『森の小さな〈ハンター〉たち』の公開書評会 (2010/09/09)


2010年9月30日 (木)

■玄米を噛みしめて

ひょんな思いつきで、玄米を買った。

別に、特段の決意や好みがあったわけではない。同じ重量で、白米と同じ価格だったので、興味本位で買ってみた。「いつも通る道ではなく、別の道を通って帰ってみた」というのとよく似た、ほんの思いつきの行動である。

玄米ご飯を弁当箱に詰めて、職場に持っていく。さすがに白米のご飯よりは固いので、しっかりと噛みしめて食べることになる。しばらく噛んでいると、やがてじんわりとデンプンの甘みがにじみだす。そうか、米というのは殻をもった、文字通りの「穀物」だったのだ、ということを思い出す。白い米だと、ざざっとかっ込んで飲み込んで終わり、ということがよくあるので。

「玄米食べてるなんて、えらいねえ」とほめられた。別にえらくも何ともないと思うが、健康に配慮して意識的に生活しているということのシンボルに見えるのかもしれない。

副次的な効果として、食べ物を何でもよく噛んで食べる習慣が付いた。これはいいですよ。調味料でごまかさなくても、食べ物の素材をじっくりと味わえるので。

玄米食を貫く主義も、とくにないけれど。また時どき、思いつきで買って炊いてみようと思います。


2010年9月27日 (月)

■チラシ拾いとドブさらい

毎晩、欠かさず続けている、ささやかなボランティアがある。それは、チラシ拾い。

いま住んでいる集合住宅の郵便受けには、やたらとチラシが入る。不動産、飲食店、引越し屋、消費者金融、パチンコ屋に風俗関係…。郵便受けの周りには、読まれずに捨てられたチラシが散乱している。

帰宅したとき、床のチラシを拾ってゴミ箱に捨てる。毎日それをするのが日課になった。理由などない、汚いから拾い集めるだけのことである。そして、やると決めたら、ガンコに毎日やる。1分も拾えばきれいになり、快適になって階上の自室に帰る。完全に自己満足のための作業。

だれにもほめられない深夜の掃除をしながら、ふと、20年以上前のある風景を思い出した。

小6の時のこと。卒業前にみんなで奉仕活動をしよう!と、学校のドブさらい掃除を提案した。おもしろがって参加していた友人たちは、ひとりふたりと減っていき、最後は私だけになった。休日にスコップをもって、雨の中、ひとり学校のドブさらいをしていた。

当時12歳の私の心をとらえていたのは、何だったのだろう。がんこさ、完璧主義、人をアゴで使えない弱さ、機転の利かないぼんやりさん、何かを始めたらはまってしまう没頭癖。言い出しっぺの私は、だれに命じられるわけでもなく、ほめられたいでもなく、3月の卒業式まぎわまでひとりでドブさらいを続けていた。担任の先生がその様子を見ていたことを、後になって知った。

それから何十年。私の性格もたいして変わってないな、と苦笑まじりに振り返る。自分で何かの手仕事をすると決めたら、だれに何と言われても、がんこに続けたいと思ってしまう。研究を仕事にしているというのも、たぶんそういう性格の現れのひとつ。株価の動きを見通して瞬時に決断して相場を張るというような仕事は、苦手だし、やりたいとも思わない。何かを隅から隅まで調べ尽くしたり、全体を同じ形にきれいにそろえたりするような作業は好き。性に合っているというやつだと思う。

今日も、何の得にもならないチラシ拾いをしている。定年退職したら、公園の清掃ボランティアのおじさんになろうかな。たぶん30年くらいたったところで、私の性格はちっとも変わっていないだろう。これまでも、ぜんぜん変わらなかったのだから。


2010年9月20日 (月)

■点字と手話はなぜまとめてあつかわれるのか

図3 人類の言語における手話と点字の位置
(出典: 『万人のための点字力入門』の亀井分担章)
文字である点字と、言語である手話をまとめて
あつかうことには、論理的な根拠がない。
人類の言語における手話と点字の位置
生活書院から、『万人のための点字力入門: さわる文字から、さわる文化へ』(広瀬浩二郎編, 生活書院)が刊行された。国立民族学博物館で開かれた、国際シンポジウムの記録である。

私も、「少数言語としての手話、少数文字としての点字: 多数派との共存のための戦略」という小論を寄せる機会をたまわった。ありがとうございます。

私は、日本語点字を少し習ったことがあるだけで、その後、すっかりご縁がなくなってしまっている。点字については専門的なことを書けないので、私は「点字と手話はなぜいつもひっくるめてあつかわれてしまうのか」、そのようなマジョリティたちの認識のしかたについて書いた。

手話は「音声言語とは異なる自然言語」。点字は「音声言語を表記する文字」。このふたつは、図のように、全然違うところに位置している。しかし、多くの人は「手話と点字」と並べて違和感を感じていない。これは、実に奇妙な現象だとかねがね思っていた。

もちろん、手話と点字がどちらが優れている/劣っているとか、そういうことを言いたいのではない。手話にも、点字にも、それぞれ固有の特徴があるにもかかわらず、まとめて粗雑に理解されている現状はよろしくない、ということを述べたかった。それぞれを、言語として、文字として、丁寧に理解し、尊重していきましょうという、異文化理解のすすめである。

ぜひお手に取っていただきましたら幸いです。以上、分担執筆者拝。

[関連日記]
■毎日新聞に民博シンポでの講演が掲載 (2009/12/24)
■目に頼ると不便!? (2009/11/25)
■点字のシンポジウム@民博200911 (2009/11/23)


2010年9月11日 (土)

■ニッポンに英語を話すよろこびを?

「ニッポンに、英語を話すよろこびを。」

ある英会話学校の広告。電車に乗り込んでこれを見た私は、うわ、朝から嫌なものを見た、と思った。

これをひな形にして、類例をたくさん作れそうである。

「朝鮮半島に、日本語を話すよろこびを。」
「西アフリカに、フランス語を話すよろこびを。」
「沖縄に、標準語を話すよろこびを。」
「ろう者に、音声日本語を話すよろこびを。」
「東南アジアに、アメリカ手話を話すよろこびを。」
「○○に、△△語を話すよろこびを。」(自由に作ってみましょう)

まったく、何たる植民者根性だ!と腹を立てる前に、このことばがいったいだれによって発せられたのかを想像してみたい。

英語がよいと信じて疑わない善意の押しつけかもしれないけれど、もしかしたら、英語で苦労を重ねた日本の人自身による、苦渋に満ちた仲間へのアドバイスかもしれない。同じことを言っていても、「だれが言うか」によって、だいぶニュアンスが違って見えるからおもしろい。

それにしても。よろこびをもたらすなら、せめて「あなたに」「君に」と個人どうしで言い合いたいものだ。「ニッポンに」もたらされるのは、やはりちょっと遠慮したいと思うのである。


2010年9月9日 (木)

■『森の小さな〈ハンター〉たち』の公開書評会

NPOアフリカ日本協議会(AJF)が、私の本『森の小さな〈ハンター〉たち: 狩猟採集民の子どもの民族誌』の公開書評会を開いてくださった。本をネタに、著者を囲んで、みんなでわいわいと議論しようというものである。暑い中、多くの方が足を運んでくださった。

書評を書いていただいたことはあるけれど、自分の本を公開の場で議論してもらうのは、今回が初めて。

実際にやってみて、

・自分の長所と短所がよく分かる
・多方面に読まれていることを実感、さらに期待に応えたくなる

のふたつが、強い印象として残った。

もちろん、批判されるよりほめられた方がうれしいけれど、批判だって無関心よりはるかにありがたい(マザー・テレサの箴言「愛の反対は無関心」に通じるものがある)。いたらぬ点について指摘をもらうというのは、「専門家がわざわざ時間を割いて、私のためにただで貴重な情報を授けに来てくれている」ということである。むしろ、これを踏み台にして、学問が次のステップに進めるのであれば、よろこんでネタになろうではありませんか。

自分が想像もしていなかった側面に興味をもって読んでくださっていることが分かるし、「著者が言いたいこと」と「読者が読みたいこと」の一致とズレもよく分かる。文章でやりとりされる書評よりも、生の議論だと直接伝わってくるから、これは本当に意義深い。

本を囲んでわいわいやるというのは、それ自体が一種の知的遊戯として楽しいものだった。私は人とおしゃべりするのは大好きだし、本好きの仲間も大好き。公開書評会というのは、これほどおもしろいものかと、癖になりそうである。

「次もぜひやろう」

これをきっかけに、「アフリカ子ども学」という集まりを時どき開こう、という話になった。次はどの本をあつかおうか、話が始まった。

主催してくださったAJFのみなさま、ご来場くださいましたみなさま、ありがとうございました。また、ぜひやりましょう。



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