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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2010年10月

日本語 / English / Français
最終更新: 2010年10月31日
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■カメルーンの知人が受賞した「日本賞」 (2010/10/31)
■『手話学研究』「特集・手話言語学の50年」刊行! (2010/10/30)
■早稲田大学のゲスト授業 (2010/10/29)
■「通訳者×文化人類学者」連載終了 (2010/10/25)
■授業中の電話着信音 (2010/10/19)
■南アフリカ駐日大使の講演会 (2010/10/18)
■「ウィキペディアがまちがっています!」という指摘 (2010/10/16)
■人類学者は死してノートを残す (2010/10/10)
■片山大臣と岡本事務次官 (2010/10/09)
■わき出す調査法 (2010/10/07)
■日本人類学会2010@北海道 (2010/10/03)


2010年10月31日 (日)

■カメルーンの知人が受賞した「日本賞」

朗報がまいこんだ。カメルーン・ラジオ・テレビ局(Cameroon Radio and Television (CRTV))に勤めていた、知人のジョゼフ・ダンジ(Joseph Danjie)さんが、NHKの第37回「日本賞」教育コンテンツ国際コンクールで、みごと入賞した。

【企画部門】放送文化基金賞〈最優秀賞〉
「乳房の告発」
カメルーン, アフリカ・ジャパン・ハウス・センター (AJH)
[くわしくはこちら] (PDF)

世界の優れた教育番組を表彰するコンクールだが、すでに完成した作品に賞を授与するほかの部門と違い、「企画部門」は、これから優れた教育番組を作ろうとする企画を助成するという性格の賞である。すばらしい。どんな作品ができ上がるのかな、楽しみ。

ダンジさんは、私がカメルーンを訪れたときに、「手話に興味があるの? 首都にろう学校があるよ」と最初に教えてくれた人である。ジャーナリストとしての人脈を活かして、ろう学校の校長に話をつないでくれた恩人だ。カメルーンを訪れる日本人研究者たちとも親しく、「アフリカ・ジャパン・ハウス・センター」を設立、親日家の彼に現地でお世話になっている日本人は多い。

最近の私は、コートジボワールに調査に行くことが多く、ちょっとごぶさたしていたけれど。授賞を機に、久しぶりのやりとりができて、うれしい限り。

来年は、完成した映像作品を携えて、再び来日するとか。楽しみに待つことにしましょう。


2010年10月30日 (土)

■『手話学研究』「特集・手話言語学の50年」刊行!

手話学研究19 日本手話学会の雑誌『手話学研究』第19巻「特集・手話言語学の50年」が刊行されました。昨年の「特集・手話研究の倫理」に続き、今年もこの学会の編集委員として、特集企画を担当しました。

自分で文章を書くのも好きですが、人に書いてもらってまとめる仕事も、おもしろくてやめられない。きっと、生涯、こんなふうに、文章を書いたり書いてもらったりする仕事を続けていくのだろうなと思う。

1960年、アメリカのろう者の大学ギャローデット大学で教鞭をとっていた言語学者ウィリアム・C・ストーキー・Jr. が、「手話の構造」という論考を発表した。手話に言語としての構造があることを世界で初めて指摘した論文だった。

ストーキーが最初の石を投じてから半世紀。まだまだとは言いながらも、手話が「音声言語よりも劣ったジェスチャーだ」というような誤解は少しずつ払拭され、次第に言語としての認知を受けるようにもなってきた。

今年は、手話言語学が誕生して50年の記念年。小さな学会の機関誌で、その偉業の一端を記憶にとどめ、これからの50年を見わたすための大切な事業ができたことをうれしく思います。

みなさま、どうかお手に取っていただきましたら幸いです。以上、特集担当編集委員拝。

[関連日記]
■『手話学研究』「特集・手話研究の倫理」刊行! (2009/11/01)


2010年10月29日 (金)

■早稲田大学のゲスト授業

早稲田大学所沢キャンパスの1日ゲストとして、児童福祉や障害者福祉を学ぶ学部生や院生のみなさんと議論する機会があった。みんな、多かれ少なかれ、フィールドワークという方法に興味をもって参加してくれた。

「本を読んでいて、コテコテの関西出身の人かと思いましたよー^^」

などと、はしゃぐみなさん。拙著を読んでくださってありがとう。私は神奈川県出身ですが、人生の半分は関西暮らしです。大阪出身の妻の影響も大きいでしょう。でも、私の本には、そんなに関西テイストがにじみだしているのかなあ。

さて、記憶にとどまる議論の断片を、以下、備忘録として。話者、いずれも不特定。ガヤガヤのおしゃべりです。

・事例を記録してみたけれど、なかなか論文にしづらい。どうしたらよいものだろう

・たった一事例でも、「確かにそれを見た」ということであれば、問題発見型の優れた論文になることがある。仮説を慎重に検証するタイプの論文には向かないかもしれない

・事例研究は、それ単体でどういう知的貢献になるか、分かりにくいこともある。どんなことであれお蔵入りにはしないで、紀要でも、あるいはウェブ公開でもいいから、人の目に触れるところに置いておくとよいのでは。ほかの人が、意外な活用法を見つけてくれることもある。ピースの後に、ジグソーパズルがやってくる感じ

・当初の調査計画に固執するフィールドワーカーとは、「仁和寺にある法師」(『徒然草』第52段)。状況が見えないまま、自己満足して帰る可能性が高いから

・方法的に、まきこまれてみるのも悪くない。たとえば、現地の人からの頼まれごとを引き受けて、調査以外のことに手を染めるのも、また、関わりと学びを増やすきっかけのひとつとなる

・「フィールドワーク=現場で見てきました」というのが強力な武器となって、ほかの人を黙り込ませる効果をもってしまったり、政治利用されたりするおそれがあるのでは

・いやいや、民族誌が政治利用されるならまだマシかも。見向きもされず、積み上げられてほこりをかぶっていることが多いのでは。存在感の薄い状況は脱して、もう少し社会へのコミットがあってよい?

・当事者が自らを研究し発信するのは当然のこと。でも、当事者にはかえって当たり前すぎて分かりにくいことがあるのも事実で、外部者の視点を借りたいと思うことがある

・研究者が、論文や発表の中で、自分の属性を明示するかどうか。隠していて読者/聴衆にはぐらかされ感を与えるのはよくないので、「当事者である/ない」などと自分から示した方がよい場面はある

・しかし、逆に、「当事者性を振りかざしている」と見なされたら不利益になることもあり、ケースに依るかも

うーん。そこらへんのフィールドワークの教科書には書かれていないつっこんだ議論、何ともおもしろいひとときでした。お招きくださった先生、深夜まで議論をふっかけてくださった学生のみなさんに、感謝。


2010年10月25日 (月)

■「通訳者×文化人類学者」連載終了

私も会員として加入している日本手話通訳士協会の月刊の機関誌『翼』に、連載エッセイを書いてきた。先ほど最終回を入稿、ついに終了した。計12回、ちょうど1年におよぶ長いお付き合いだった。やれやれ、という感慨とともに、全体を振り返ってみる。

連載「通訳者×文化人類学者」亀井伸孝

(1) フィールドワーク (『翼』215, 2009年12月)
(2) 参与観察 (『翼』216, 2010年1月)
(3) ラポール (『翼』217, 2010年2月)
(4) 普遍性 (『翼』218, 2010年3月)
(5) フィールドノーツ (『翼』219, 2010年4月)
(6) 民俗分類 (『翼』220, 2010年5月)
(7) エティック/エミック (『翼』221, 2010年6月)
(8) 機能主義/構造主義 (『翼』222, 2010年7月)
(9) 文化の定義 (『翼』223, 2010年8月)
(10) 実践 (『翼』224, 2010年9月)
(11) 文化を書く (『翼』225, 2010年10月)
(12) 文化相対主義 (『翼』226, 2010年11月)

毎回、文化人類学のことばをひとつ選んでテーマとし、それについて1カ月間じっくりと考える。そして、その概念に関連することを思い浮かべながら、通訳者と文化人類学者の似ているところや違うところを書き出していった。

「異なる言語・文化の間の橋渡しをする仕事」という点で、このふたつはよく似ている。でも、違いもいろいろとある。ある時は、通訳者が文化人類学者にとってのよきお手本になったり、逆に、通訳者が文化人類学者から学べるところがあったりした。両者がともに抱えている共通の課題が見つかったり、さらには、おたがいに協力ができそうな分野が見つかったり。軽い気持ちで比べ始めてみて、ものすごく多くの発見があった。このおもしろさには、書いている私が一番驚いた。

テーマのあいまあいまに、アフリカでの現地調査のネタを入れたり、日本手話学会での研究倫理の議論の話を入れたり、日本でのろう者や手話通訳者との出会いの思い出を入れたり、ちょっとだけ私の岩波ジュニア新書のご紹介をさせてもらったり。ネタの配分を考えるのは、毎週の授業を組み立てるのにも似ていて、おもしろかった。

専門性について、妥協はしていない。毎月、【今月のことば】というコーナーを設け、「ラポール」とは何か、「構造主義」とは何かといった解説を書いていった。これも、概念をやさしくかみくだいて説明するよい訓練になった。人名だって、タイラー、ボアズ、マリノフスキー、ベネディクト、クローバー、クラックホーン、パイク、サピア、ウォーフ、ソシュール、レヴィ=ストロース、さらには、サイード、クリフォード、マーカスにいたるまで。私が重要だと思う文化人類学史の有名人を、いろいろとちりばめてみた。すべてを通しで読めば、ミニチュアの文化人類学の入門書になっているかもしれない。実は、この連載をしながら、その中身を大学の授業の方で使うこともあった。

連載最終回のテーマは、やはりこの分野の決めぜりふ「文化相対主義」で締めたいと思った。最後の結論は、私自身も想定していなかったあらぬ方向へととんでいったけれども。私なりに1年間考えつめた結論としての「場外ホームラン」ならば、それはそれでおもしろいかなと思っている。

連載の途中で、勤め先が変わり、引越しもしました。また、2回もアフリカ調査に行き、時どき行方不明にもなりました。しかし、どんな状況にあっても、欠かさず連絡を入れ、たえず励ましてくださったご担当の各位には、頭が上がりません。『翼』ご担当の理事、編集ご担当各位、手話通訳士協会会員と読者のみなさまにあつくお礼申し上げます。

合計約3万字におよんだ連載、ここに終了宣言。やれやれ、肩の荷が下りるとともに、ちょっとさびしい気もしますね。(この原稿、どこかで再利用できないかなあ)

[付記] 『翼』購読については、日本手話通訳士協会のサイトをご参照ください。

[関連日記]
■連載「通訳者×文化人類学者」 (2010/04/24)


2010年10月19日 (火)

■授業中の電話着信音

「プルルルル…」
「こら! ケータイ切りなさい」
「…はい」

ときどき起こる、授業中の風景。学生の方に悪意はなく、音を消し忘れていただけというケースが多いけれど。

「割れ窓理論(Broken windows theory)」の教室版と言っていいのかな、私はこういうことについては徹底した「早期対策派」である。ちょっとしたおしゃべりやケータイの音を放置していると、やがて、それが許されるのだというだらけた雰囲気が定着してしまい、授業が成り立たなくなる。

それを防ぐために、ほんの少しの徴候でもピシリと注意する。常習犯には、こちらもボルテージを上げながら、はげしい雷を落とすこともある。

「ちょっとしゃべっただけなのに、厳しすぎますよー」

という声も聞こえてくるけれど、そんな甘いもんじゃないよ。おかげで、うるささで辟易してしまいそうな授業を、静寂に戻すことにも成功した。これは、私の授業のやり方の基本方針。サイレント・マジョリティが私の方針を支持していることを知っているから、迷いはない。

ところが、少々困ったなあと思うことが最近出てきた。自分の研究室で行っている少人数ゼミの最中に、部屋の電話が鳴ってしまうことである。あるいは、携帯がブルブルと振動を始めることである。

携帯はマナーモードにしているが、小さな部屋の中にあるとブルブルガタガタとやかましい。そして、研究室の固定電話にはそもそもマナーモードがないから、音を消しようがない。研究室で電話が鳴ると、うるさいだけでなく、「先生、電話に出なくていいんですか?」とみんなが気づかい始める。電話には出るべきだという規範が発動してしまい、無視できない状況になってしまうのだ。

ふだん、ちょっとした着信音でも「こらあ!」と雷を落としている私が、ゼミの時間にこんなざまでは、立場上気まずい感じもするのだ。いっそのこと、1コマの間だけ電話線を引っこ抜いてしまおうか、などとまじめに考えている。


2010年10月18日 (月)

■南アフリカ駐日大使の講演会

関西大学の経済学部で開かれた、南アフリカ共和国大使館ガート・J・グロブラー駐日特命全権大使の講演会に参加した。いつもの大学の業務の合間をすり抜けて、つかのま、アフリカを学ぶチャンスに駆けつける。

1970年に外務省入省。スペイン大使を経て、現在は駐日大使である。40年におよぶ役所勤めのうち、前半は白人政権の、後半は民主化された新生南アフリカ政権の官僚を経験している。それまで選挙権もなかった黒人の政治家たちがいきなり上司になったのだから、自民党から民主党に変わったていどでは済まない、さぞかしたいへんな激動の時代であったろう。

今年は日本と南アの国交樹立100周年に当たり、さまざまな記念行事が行われている。そうか、日韓併合の1910年に、日本は白人国家であった南アと国交を結んでいたか。その後、日本は植民地拡大に突っ走って敗北。南アはアパルトヘイト体制を強化して世界中から非難され、やがて民主化。おたがい、壮絶な100年でした。

「経済、観光、文化、学術、スポーツ、いろいろな交流のため、みなさん南アに来てください」

宮崎県の東国原知事もかくや、というほど、大使は南アの営業マンに徹していた。

・南アを訪れる日本人は、年間3万5000人。これを5万人にしたい。
・観光名所も多いですし。自然も豊か。
・レアアースもいっぱいありますよ。
・今年、プレトリア大学に日本研究センターができます。
・犯罪のイメージ? でも、シカゴにもニューヨークにも治安の悪い地区はありますし。

中国の台頭で、とかく沈みこみがちの日本人のプライドをくすぐるような、お上手なお話である。

「私たちは核武装できる能力があり、実際に保有していたこともありますが、すでに完全に廃棄した唯一の国なのです」

おお、これはかっこいい。

「南アと日本、一緒に国連安保理の常任理事国になりましょう」

ふふ、おもしろい連帯のことば。

「アフリカは若い人たちが多い大陸。市場として急成長しています。ご注目を」

アフリカ全体についての営業もする、なかなかお上手な方である。高い失業率などの課題が山積だとは言え、これから大陸丸ごと急成長するぞという気概が感じられて、すがすがしい印象があった。

西アフリカにばかり通っている私は、まだ南アを訪れたことがないけれど。一度行ってみたいなあ、というのが今日の私的な結論。(あ、大使の営業が成功しています)


2010年10月16日 (土)

■「ウィキペディアがまちがっています!」という指摘

ウィキペディアの『○○』という項目に、こんなまちがいが書いてあるんですよ!」

そういう指摘をする人が、最近増えてきた。それだけ、このウェブ上のフリーの百科事典が多くの人に使われているということなのだろう。

うーん…。このような指摘を見聞きするたびに、私は心の中でふたつのことを思う。

[その一]「そりゃ、まちがいくらいあるでしょう」

多くの人の手によって作られてきたけれど、書かれていることについて正しいと保障し、責任をとる人はいない。だれが書いても読んでもいいけれど、すべて自己責任で使うもの。だから、まちがいを人に言いふらしたりする類のものではないでしょう、と思う。

[その二]「だったら、自分で直せば?」

まちがいに気付いたけれど、それを知りつつ放置する。そうなると、後の読者がみんなそのまちがいの被害者になる。誤りを見つけて得意気に言いふらしているのが、専門家であればあるほど、「じゃあ、どうして自分の手で直さないの?」という疑問がわく。だれでもいつでも無料で簡単に知識を提供することができる、それがウィキペディアの最大の長所なのだから。

「正しいことは、いずれだれかが教えてくれる、それを待ちましょう」。そういう他人行儀な関わり方が、私のいらだちのもとになる。

ことによると、世代も関係あるのかもしれない。日本語版ウィキペディアが登場した2002〜2003年頃、私の知人の大学院生が猛然と新しい項目を作り続け、みんなで書き込もうと呼びかけていた。なるほど、これは私たちが自分の手で育てていくサイトなのだ、という第一印象があった。

すっかり情報が増えて立派になった、今日のウィキペディア。自分で書かずに、だれかが書いてくれるのを待っている受け身のユーザーの方がきっと多いのだろう。だから、記事の間違いを見て、文句を言ったりもするのだ。

これは、ネット上の言論をめぐる自由と責任をおさらいするための、よい素材となるかもしれない。

"Ask not what Wikipedia can do for you, ask what you can do for Wikipedia."


2010年10月10日 (日)

■人類学者は死してノートを残す

人類学の分野で著名な先生が亡くなると、決まって、こんな話が流れてくる。

「自宅に、未整理のノートが何百冊だって」
「撮りに撮りためた写真が、何千枚」
「○○語の民話の録音テープが、何十本」
「どうするのかなあ」

フィールドを訪ね回って、何十年。その間に集めた膨大な資料類が、没後に遺される。

ああ、もったいない。民族誌として、あるいは辞典やアーカイブとして、ご本人の手できちんと整理されて公開されるまで、お元気でいてくださればよかったのに、と思う。しかし、仕事の進捗に関わらず、死は容赦なく訪れる。図書館で引き取られたり、ご遺族や弟子たちが編集を続けたり、日の目を見なかったり。資料の運命はさまざまだ。

私はケチな性分だから、自分が見聞きしたおもしろいことは、だれかに向けてしゃべったり書いたりせずにはおれない。だから、生きのいいフィールドネタを、すぐさま公開してしまうことが多い。それでも、未整理、未公開の資料は、年々たまっていく一方である。調査に協力してくださったアフリカのみなさんに、恩義を返せていないようなやましさが残る。さて、どうしたものか。

生きている間に全部公開できたら、交通費の精算が済んだような気分のよさを感じるだろうね。しかし、手持ちの資料を全部使いつくしてしまったら、老後の生きがいをなくしてしまうかもしれない。

結局、ちょっと資料整理の仕事が残っているくらいが、張り合いがあっていいのかもしれません。でも、まあ、生きている間に、書けるものはひととおり書いてしまいたいですよね。


2010年10月9日 (土)

■片山大臣と岡本事務次官

総務大臣の片山善博氏と、総務事務次官の岡本保氏。このふたりは、どちらも1974年に旧・自治省に入省した同期の官僚であった(『週刊新潮』2010/10/07号)。

ふたりはライバルどうしだったが、出世競争は岡本氏が先んじた。後塵を拝した片山氏は、途中で退職。鳥取県知事、慶應大教授を経て、「総務省」と名前が変わった古巣に大臣として戻ってきた。そして、出世競争を勝ち抜いた岡本事務次官の上司になった。

組織内競争で負けた人が、外に転出して経験を積み、トップとして返り咲く。一方、組織内で勝った人は、順調に上り詰めたものの、かつて競り勝ったと思っていた相手の部下になる。

人生の奇妙なめぐり合わせを感じさせる、おもしろい話だなあ。どうせ一時の勝負なんて、そんなもの。人生どうなるか分からないから、ちまちました競争に一喜一憂するのはばからしい、というふうにも読める。「人間万事塞翁が馬」、少々の失敗だってチャンスだと思えばよろしい。

片山氏と岡本氏だって、今は上司と部下だけれど、10年後はどうなっているか分からない。どちらも、最終的な勝者/敗者ではないのだ。これもまた、「人間万事塞翁が馬」。どうなるか分からない人生を、せいぜい楽しむことにしましょう。きっと、その時どきを楽しむことができる人が、本当の意味での勝者なのだと思います。


2010年10月7日 (木)

■わき出す調査法

学部生ひとりひとりを相手に、研究の個別指導をバリバリとやっている。

えー。調査なんて、研究なんて、何したらいいのかさっぱり分からないっす。そういうふうに戸惑っている学生を相手に、5分間、雑談をする。そうすると、

「実は、写真撮るのが好きなんです」
「ある人の体験談を聞いてみたことがきっかけで」
「あ、それ、見たことありますよ」

ものの5分で、すぐれたリサーチャーとしての素質が光り始める。この変貌ぶりを見るのは、とても楽しい。私は何も付け加えず、うんうんとうなずきながら話を聞くだけである。

A「とりあえず、行って話聞いてくるのでいいですか?」
私「うん、『フィールドワークを実施した』と書いておきなさい」

B「私、自分で見た範囲でしか書けないんですけど」
私「そういうときは、『アドリブ・サンプリング』ということばを覚えておくと便利」

おもしろいなあ。何にも教えていないのに、みんな調査のしかたを知っている。ただ「自分がやっているのは調査/研究ではない」と思い込んでいるだけ。私は、それに「調査法」という名前を付けていく。

社会調査法の教育って、いったい何だろう。立派な教科書も、講義も、研究機関も、それぞれあっていいけれど。「だれもがそれなりに調査のしかたを知っている」という事実に目を向けることも、かなり大事な気がする。

学生たちからわき出してくる調査法を、水路に導いて流す。そうすると、勝手に水車が回りだす。とりあえず、それでいきましょう。


2010年10月3日 (日)

■日本人類学会2010@北海道

日本人類学会の大会に参加するため、北海道の伊達市を訪れた。いつも参加している日本文化人類学会ではなく、サルや化石、人骨などを対象とする自然科学系の人類学者たちが集まる学会である。この学会の大会に参加するのは、今回が初めて。

日本の人類学は、すべてはこの学会から始まった。やがて人文・社会系の人類学者が分離独立して日本民族学会(今日の日本文化人類学会)ができるなど、学問と組織が細分化して今日にいたっている。少し前までは、両方の学会が一緒に連合大会を開いていたものの、私が大学院生になったころにはすでにその関係も解消され、会員が同じ会場でお互いに学び合うという機会はなくなっている。

今年の6月、文部科学省科学研究費補助金 (新学術領域研究・研究領域提案型) 「ネアンデルタールとサピエンス交替劇の真相: 学習能力の進化に基づく実証的研究」というのが採択され、狩猟採集民の子どもの行動の観察をしていた私も、研究分担者に加えていただいた。今回の参加は、その関連の分科会があるということが直接のきっかけだった。

ネアンデルタール人の絶滅をめぐる分科会のほか、言語の起源のシンポジウム、全国各地をめぐっての「骨講座」の取り組みなど、同じ人類を扱っていても、文化人類学の方とはかなり雰囲気が違う。でも、理学部出身の私にとっては、学部生の頃に授業を聞いた懐かしい先生方に再会する、よい機会でもあった。

懇親会は、洞爺湖の湖上の遊覧船の中で開かれた。時ならぬ花火が上がり、ぐっと冷え込む北海道の秋の夜、多くの方がたに初めてごあいさつし、あるいは再会し、ひと時を楽しんだ。

久しぶりに、新しい学問の風に触れることができた。目前の調査対象に関心を奪われ、細かい文化と言語の動向にちまちまと取り組むだけではいけない、人類という生き物を全体としてとらえ直そうとする視点をどこかに持っておかなければ、と思い直すよい機会になった。

人類進化から国際開発まで。人類学の関係だったらもう何でもやりますよ、というすそ野の広い研究者を目指して。向こう数年間は、この学会に通って勉強する機会も増えるのではないかと思います。



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