AACoRE > Laboratories > Kamei's Lab > Index in Japanese > "COE workshop" Top page
ILCAA
COE Workshop
ニュース 概要 発表要旨 資料室

発表要旨
最終更新: 2007年3月19日

[発表要旨一覧] [発表のキーワード一覧]


関学COEワークショップ「多文化と幸せ」
2007年3月12日

「『人間の安全保障』そして『人権』: 人類学的介入の試み」
白石 壮一郎(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

#近年の研究動向を紹介しながら、国際開発援助のディスコースとなった「人間の安全保障」、「人権」概念への人類学的な接近と介入の可能性を述べます。

キーワード:幸福、文化相対主義、多文化主義、戦略的本質主義、女子性器切除(FC/FGM)


■発表の要旨
1990年代以降、国際開発援助政策において「貧困削減」とともに「人間の安全保障human security」という概念が合い言葉になっている。もともと紛争下における「人道的介入」を契機として提起されたこの概念は、UNDPが「人間の安全保障」をスキームとしてとりあげると[Commission on Human Security 2003]、JICAも外務省の「人間の安全保障基金」を財源にして2002年以来100件以上の開発事業に乗り出し(2007年1月現在)、国際開発政治のなかで市民権を得るに至った。

この概念の提唱者のひとりであるアマルティア・センは、「人間の安全保障」という概念は、従来の「人間開発」「人権」を補うべく構想された概念であることを明らかにしている。すなわち、「人間の安全保障」は、個人の生活individual human livesに焦点を当て、不利益を被るリスクdownside riskから人びとを保護することをめざし、これまで政策概念としてあいまいだった「人権」に実効的な適用範囲を、いわば個別ケース対応型で示唆する役割を果たす。この点を、経済自由化と民主化に集約される「小さな政府」のデザイン中心で進められてきた従来の構造調整スキームの失敗部分に鑑み、その恩恵にあずかれなかった人びとに照準をあてたものと評価することもできる。

しかし、セン自身も危惧するとおり、「人間の安全保障」による「人権」擁護に漸次的に解釈の拡大を与えていくと、世界の諸社会における多様な生に対して、グローバルな基準によって恣意的に決定されたさまざまな「個別」の介入がほぼ追認的に正当化されてしまうことにもなりかねない。多様な生を擁護する文化相対主義の立場に立てば、こうした介入は問題含みのものとなる。だが一方で、「人権」などの「権利の言説」は、グローバルなディスコースの基準に沿って自らの主張を翻訳して発話することによって、たとえば先住民の土地への権利保障、女子性器切除(FC/FGM)などの「伝統文化」の桎梏に対抗する個人の擁護など、多様な生を守る側にとっても有用なものとして機能する場合もある。

では、いったい人類学者はこのような現在的な状況にどうきりこんでいけばよいのだろうか。本発表では、近代人類学の最重要概念の一つである「文化相対主義」をキーワードにして、近年の人類学の研究動向を参照しつつ、文化相対主義VS.普遍的人権主義という二項対立を超えていかに思考していくかを述べる。浜本満が論じたとおり、人類学が提唱した本来の文化相対主義は普遍主義に立脚し、あるいは普遍主義に向けられたものなのであり、両者の間の往復運動こそが重要なのである。

人類学がこうした議論をつねに喚起しつつ開発政策過程をモニターすること、つまり「人間の安全保障」や「人権」がスローガン化し、一枚岩の普遍主義としてひとり歩きを始めないように対抗的な言説を生産することは、現在における人類学の実践的な意義であるだろう。そのためには人類学の得意としてきたフィールドワークによる社会調査が生きてくると考えるが、人類学的実践には人類学者の政治的な文脈に対するリテラシーが決定的に重要となる。


■発表へのコメント
人類の幸福に資する社会調査、というテーマに対峙するとき、人類学も社会学も経済学も、多少の違いはあるものの同じような困難に直面するのではないか、という感想を持った。

報告では、文化相対主義VS普遍的人権主義という二項対立をどう乗り越えるのかという問題として明示的に定式化されていた。厚生経済学では、この問題の原型は「奴隷の幸福問題」として考えられてきた。例えばずっと不遇な生活を強いられていた奴隷は、ほんの少し境遇が改善されただけで幸福を感じることができる。したがって当人の意識や幸福感のみに依拠して状態を評価すると、実際には困窮している人を幸福な人と見なしてしまう(ので当人の幸福感に依拠した測定や理論はダメだ)、というものである。それゆえにセンは効用ではなく潜在能力の拡大を提唱するのだが、このとき実は「奴隷状態はそもそもよくない」という研究者側の規範を行為者側に押しつけている。

研究者側の規範(人権)と観察対象である固有の文化の担い手の価値観は、相容れないことがしばしばある。このとき、その対立を解消する、レトリックではない具体的な方法論とはいったい何だろうか? そのようなことを、報告を聞いて考えさせられた。

コメンテータ: 浜田 宏(関西学院大学社会学部)


■セッション司会者によるコメント
※セッション3「関与と協働のエスノグラフィー」(黒崎氏の報告吉野氏の報告および白石氏の報告を含む)全体に対するコメントです。

研究者が途上国の「開発」の実践にかかわることはもはや珍しいことではない。「研究か実践か」を問うことよりも、むしろ考えなければならないのは、人類学や社会学が得意とするフィールドワークという手法によって明らかにされてきたことや、構築されてきた理論が「開発」実践にどのように寄与できるのかについてだろう。本セッションの3名の報告者はいずれもこの課題に言及し持論を展開していた。たとえば、黒崎さん(京都大学)は開発における民族誌的記述や「小さな実践」の有効性について、吉野さん(関西学院大学)は実践に携わりつつ参与観察で評価をおこなう方法や、ステークホルダーのWin-Win関係の構築について、白石さん(京都大学)は民族誌などをもとにした中範囲理論の模索や政治的リテラシーについて、などである。

それに対してコメンテーターやフロアからは数量的な評価指標の代替案や、対象との関わり方に関する質問・意見などが出され、活発に議論された。時間の都合上、議論にはならなかったが、各発表者によって述べられた「幸せなフィールド」と「バトルフィールド」、「対象者との関係のつくり方によるアウトプットの変化」、「かかわりの中での調査者/実践者自身の成長や変化」は、開発実践を考える上で重要な問題を指摘していると思われる。かかわりの時間軸の設定や現場の特異性、それにもとづいた「評価」をこれまでの開発実践はどのように考え、実施してきたのか、それに対してフィールドワークを得意とする研究者は新たに何を提示していけるのか、についてあらためて考えさせられた。個々の研究を深化さていくことはもちろん大切だが、事例を比較対照することで新たな視点が加わることを再確認できたセッションだったと思う。

司会: 西崎 伸子(福島大学)


このページのトップへ
COE Workshop

All Rights Reserved. (C) 2004-2008 Kwansei Gakuin
このウェブサイトの著作権は学校法人関西学院に属します。