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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2015年11月

日本語 / English / Français
最終更新: 2015年11月29日

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■「ユニバーサル・ミュージアム」シンポジウムで学んだ統合と分離の微妙な感じ (2015/11/29)
■能ある鷹は爪を出せ: 国際関係学科「旅の写真展」5年間の軌跡 (2015/11/21)
■多様性ってなんだろう/フランス語づけの日々 (2015/11/14)
■戸籍姓はくじ引きで決めよう: 姓の決定権をめぐる政治 (2015/11/07)
■聞こえる人の方を向いて創られた手話の映画: 映画評『エール!』 (2015/11/03)


2015年11月29日 (日)

■「ユニバーサル・ミュージアム」シンポジウムで学んだ統合と分離の微妙な感じ

急に寒くなりましたね。晩ごはんに鍋をすることが増えました。

たとえば豆乳鍋をします。具を入れて、うどんを入れて、また具を足して、うどんを入れて、と食べていると、だんだん味が薄くなってくるので、少し味噌を足す。これを繰り返していると、どんな味のだしから始めても、最後はすべてどろどろの味噌鍋になっていく。生態系が行き着く「極相林」のような感じ。味噌は強いです。といった暮らしを最近しています。

火曜日:国際関係学科フィールドワーク・フェスタ「旅の写真展」終了。撤収が終わり、学内各所にお礼も伝え、報告書も書き、これで学科の秋の行事はすべて終了です。ほっとした。

あと、この日はアファール猿人「ルーシー」の化石がエチオピアで発見された日(1974年11月24日)から数えて41年目の記念日でした。Google のロゴが「二足歩行するルーシーのアニメ」になっていました。あれ、かわいかったですね。毎年やってほしい。>> [Doodle アーカイブ]

水曜日:東京から、河合塾の方がたが国際関係学科の取材にやって来られました。「大学の教育力を見る「大学のアクティブラーニング調査」プロジェクト: 学生の能動的な学習を促す授業の取り組み・カリキュラム設計」の一環として、全国14の特色ある学科を訪ねて事例調査をされるのだとか。本学科を選んでいただいて光栄です。

上記のような写真展をやったり、映像制作ワークショップをしたり、課外であれこれやってきたことが今年度から「プロジェクト型演習」と称して単位が取れるようになったり。この数年、ずいぶんとにぎやかにやってきましたからね。いずれ報告書に掲載されて公開されるとか。なお、私の興味は「他の13の特色ある学科」がどんなことをやっているか、です。学びたいと思います。

木曜日:学生たちと大量のお菓子もちよりゼミをしながら、「クリフォード・ギアツと勝新太郎は似ているか」という議論をした。文化人類学の理論について深い理解に達しました。

金曜日:2013〜2014年のセネガル障害者調査の論文が本になることになり、赤ペンを握ってカリカリと校正の仕事。そして、アフリカ子ども学の成果公開のイメージを話し合う、実りあるビジネスミーティングをした。

土曜日:愛知県立大学公開講座、第3回目。講師陣は、本学名誉教授の稲村哲也さん、国際関係学科の同僚の草野昭一さん。かたや民族学、かたや国際経済、ローカルとグローバルのふたつの眼差しで、世界における人間の資源利用のあり方をうかがった。事後の飲み会では、アパルトヘイトと金相場と基軸通貨ドルの闇のつながりについてあれこれと話したのが印象深かった。

日曜日:みんぱくでのシンポジウムに参加。今日のトピックは、その参加の感想にします。

■ユニバーサル・ミュージアムを考えるシンポジウム
みんぱくでの公開シンポジウム「ユニバーサル・ミュージアム論の新展開: 展示・教育から観光・まちづくりまで」に参加した。

見えない人、聞こえない人、いろんな人たちが、各地から集まった博物館、学校関係者らとともに、博物館とワークショップのあり方についてワイワイと議論する。シンポジウムといっても、懇談会のようなゆるやかな雰囲気であった。主催者が旧友だし、その主催者である盲人と、やはり旧知のろう者が対談をするということで、ふたりの応援のつもりもあって訪れた。

■驚きの「盲人とろう者の対談」
対談では、盲人とろう者の微妙な社会性の違いが、感覚的に脳にビシバシときて、たいそうおもしろかった。よく言われるような「ろう者は手話どうしで集まりがちであり、盲人は音声言語を介してマジョリティとつながりやすい」という指摘もさることながら、それだけではなく、身体と環境のつながり方においては、それが逆になることもありそうだと感じられた。

それから、対面的コミュニケーションのバリアはろう者の方が高そうに思いきや。たとえばろう者が海外に行った時、どうせ音声言語が通じないのは国内外問わず同じで、むしろ海外では、こちらが外国人だと思って周囲がジェスチャーを増やしてくれるので意思疎通がしやすくなるという。言語的バリアを補完する周辺的な手段が、海外でこそ豊かで便利になるという面の指摘である。本当に何がバリアでそうでないかは、本人としてその状況を生きてみないと分からないと思わされた。

対談の小ネタだが、「見えない人は前にも後ろにも目がないから、後ずさりで歩いてもまったく同じこと」という指摘には、仰天した。そうか、「前/後」という概念それ自体が揺らぎえてしまうのかという、身体感覚のすさまじい読替えを迫られた思いがする。

■発話交替のタイミングのずれ
もうひとつ、対談でのやり取りを見ていて気付いたことがある。見えない人にはろう者の手話の動きや表情が伝わらず、聞こえない人には盲人の音声発話の状況が届かない。もちろん、両者の間には、音声日本語と日本手話の間の通訳があり、意味内容は明瞭に伝達されているが、発話の交替のタイミングが微妙にずれたりすることがあった。

音声どうし、手話どうしの会話であれば、仮に言語が異なっていても、「相手の言っている内容は分からずとも、相手が発話中であることはお互い分かっている」。ろう者と盲人の会話では、その発話交替のタイミングが共有されないことがあるので、「いま私は発話を終えました、次あなたどうぞ」という確認がそのつど必要であるように思われた。無線通信における発話交替の「ナントカです。どーぞ」とか、TTYの「GA (go ahead)」のように。もし自分が両者の間の通訳者であったらどうしたかな、と、自身を重ね合わせながら、この会話からいろいろと学ぶところが多かった。

■混在していたいくつもの立場
対談のほかに、ユニバーサル・ミュージアムをめぐるさまざまな実践的な取り組みの発表があった。すべてを聞くことはできなかったが、いくつかの類型をそこに見たような気がする。シンポジウムの趣旨から考えても、障害をもつ人びとをもっと博物館で受け入れていこうという全体的な方向性は共有されている。しかし、受け入れ方に微妙なずれがあって、そこが実は一番おもしろいポイントであった。

ある人は、「障害者がかわいそうだから特別扱いして受け入れよう、というのは間違っている。特別枠ではなく、マジョリティと同じことを提供していけばよいのだ」と、ワークショップの取り組みを紹介した。>タイプ1

ある人は、「マイノリティを受け入れることは、マジョリティにとってもプラスになるのだ」と、博物館のリニューアルに取り組んでいた。>タイプ2

また別の人は、「触覚を用いる視覚障害者中心の博物館ツアー、手話で解説するろう者中心の博物館ツアーなど、マイノリティ特有のあり方を中心にすえて、当事者が自ら企画する側になっていくことが望ましい」と、時間配分なども大きく変えたツアーの事例を紹介していた。>タイプ3

タイプ1は、バリアフリーによる統合型。タイプ2も統合型だが、若干、マジョリティをマイノリティ側に合わせようとする「逆の方向の同化」の要素が含まれる。タイプ3は、むしろマイノリティ固有の文化や価値観を中心にすえた、分離型の志向性。今回の多様な発表の中には、少なくともこの三つのタイプが混在していたように思われる。

(このあたりは、教育や学校をめぐる統合と分離の論争に大いに重なりうる話。)

どれがいいのか。シンポジウムでは、この点についての理論的な全面衝突の議論はなかった(少なくとも私が参加していた時間帯においては)。

■統合と分離をめぐる微妙な立ち位置
え、私の立場? 私は、「全部やってみる」を支持します。統合型にもいくつかやり方があるし、分離型にもいろいろな方法がある。さらには、両者の要素を併せもつ企画だってできる。そして、どっちか一方に振れすぎたら、振り子を戻したってよい。

博物館がマジョリティが占有するものではなく、多くのマイノリティたちが共存して好き勝手に使っていく「開かれたアリーナ(舞台)」であることを目指す以上、統合型がよいとか、分離型がよいなどといった杓子定規な理想主義は、むしろその趣旨に逆行する。

たとえば、ある博物館が分離型を至上とすれば、やがて「隔離だ」と批判が上がるであろう。逆に、統合型しか認めない博物館ができれば、「同化主義的だ」と反発が寄せられるに決まっている。マジョリティとの距離において、「付いたり離れたり」しながら、ともあれ、マイノリティたちの博物館利用の自由を拡大しよう。これは、何か特権を与えるということではない。これまでマジョリティが、自分たちの文化と価値観に即した形で自由に博物館を利用してきたのと「同じ程度に」、マイノリティたちの参入と利用の自由を認めていこうではないか、ということである。

このシンポジウムが、マイノリティの立場をめぐる理論的な多様性を包摂していたことそれ自体が、博物館の将来の自由を象徴しているように見受けられた。

それにしても。言っちゃ悪いが、こういう場に来てまじめに考えている人たちはよいが、大多数はそれが問題であるとも気付いていなかったりするのだろうなあ。マジョリティと付かず離れずで立ち位置を微妙に調整し、悩んで解決策を模索することに時間を取られているのは、マイノリティ当事者であり、その問題を引き受けた一部のマジョリティ出身者(しばしば板挟みになる人たち)であるのだろう。主敵は、私たちの外にある。でも、全国にこれだけの関心をもつ人たちがいて、いざ鎌倉!と機会あるごとに参集できている(主催者発表: シンポ参加者約150人)ということ自体が、非常に心強いことに思われた。

■嗅覚と味覚のミュージアムへ
それから、今回は万人にとって共有できる感覚として「触覚」が強調されていたけれど。私は、ユニバーサル・ミュージアムにとっての次の重要課題は「におい」でしょう、と考えている。たとえば、これだけ野生生物の動画が多くあふれている中で「動物園がなぜ必要なのか」という問いに対して、私は「動物の臭さを学ぶべきだ」と答えることができると考える。

嗅覚、味覚は、フィールドワークにおいては必須の調査項目。食べて味わってにおいを嗅いでこその体験であり、現地調査である。ミュージアムが、模擬的なフィールドワークの場であろうとするならば、においと味の探求をいっそう進めていって、それこそ視覚や聴覚の障害の有無に関わりなく、多くの人びとと共有するのはいかがであろうか。そんなことを考えた。

そこでさっそく、新大阪駅で551の豚まんを買い、かじりながら名古屋への帰路につく。ホクホクと達成感の大きい大阪出張であった。

さてっ。11月も終わりゆきます。12月。年内の達成目標が二つくらいあるんですよ。達成したら開示することにします。みなさま、年の瀬もどうぞよろしく。

[付記] シンポジウムのレビューを日記に雑に書きました、と、今回の対談に臨んだ盲人とろう者の知人たちに謝意を込めて伝えたところ、即日でおふたりとも閲覧して読後感を送り返してくださった。見えない、聞こえない、コミュニケーションのバリアがどうのこうのという状況はこれからも続くのだろうが、ウェブサイトで電子的に公開したらだれもがすぐにアクセスしてくれて話題を共有できる。ウェブというこの「利器」は、やはり大したもんだなあと改めて実感したのであった。

[付記2] 今回のシンポジウムの発題者として、東海地方の博物館関係者がとても多かったのだとか。愛知県美術館、名古屋ボストン美術館、美濃加茂市民ミュージアム、南山大学人類学博物館、三重県総合博物館など。主催者の方によれば、こういうユニバーサル・ミュージアムへの関心は「西高東低」、とくに名古屋周辺が運動の中心になっているんだそうです。へえ、そうでしたか! 何かと言えば首都圏と関西にへつらってしまい、東や西の動向をうかがってしまいがちな名古屋・愛知・東海ではありますが。けっこういいこと実践してるやんか!ということをもっと誇りに思い、がんがんと全国に発信していきたいものです。ね。


2015年11月21日 (土)

■能ある鷹は爪を出せ: 国際関係学科「旅の写真展」5年間の軌跡

今週は、「フィールドワーク教育って何だろう」ということをつくづく考えました。

水曜日:国際関係学科フィールドワーク・フェスタ「旅の報告会・茶話会」。世界数カ国から持ち寄ったお菓子をかじりながら、10組(11人)による留学、旅行、ボランティア、海外研修のスライド発表を聞きました。関連する国は22カ国・地域くらい。みなさん、写真と話がうまいよね。楽しいひと時でした。

木曜日:ボジョレ・ヌーヴォの解禁日。卒論生を励ます集いとして、軽く乾杯しました。ちょうどその日の朝にスウェーデン調査から帰ってきた学生も駆けつけ、フィリピンやスウェーデンのお菓子などをかじりながら、フィールドワークの成果についてワイワイと。

金曜日:映像制作ワークショップ。大阪・国立民族学博物館の中村真里絵さんをお招きして、動画撮影の実習をしました。9組18人の学生たちが、わずか30分の学内自由撮影で、ストーリー性のあるおもしろい動画を即席で撮ってきたその手腕に驚き。フィールドワークは、教員が教えるものではなく、学生が勝手に手腕を発揮するものだ、と再確認した思いがした。

あわせて、この金曜日は、日本文化人類学会の来年の大会の発表要旨〆切日だった。文化人類学教育の分科会にお誘いをいただいていたので、目下アタマがいっぱいになっている、学生たちとの写真展の実践報告をしようと一気に書き上げた。

国際関係学科旅の写真展2015 (全景)
■今年も開催しました、「旅の写真展」
さて、今週は、愛知県立大学国際関係学科でかれこれ5年間も続けてきている「旅の写真展」について振り返ってみたいと思います。

国際関係学科「フィールドワーク・フェスタ2015・旅の写真展」ただいま開催中!

毎年秋に行われている、学生と教員が一緒に行っている「旅の写真展」。2011年に始まり、この5年間で出品総数は合計305点を数え、世界60の国・地域をカバーした、学科の特色ある行事になっている。海外フィールドワークを目指す学生たちも増えてきて、教育研究にもいい影響が出てきているこの行事。どういう風に始まって、どう移ろっていったか。

今でこそ、ああ、イベントお祭り大好きな国際関係学科の恒例行事でしょ、みたいな感じで定着しているものの、最初はぜんぜんそんな感じではなかった、というそもそもの起こりについて書いてみたい。

■そもそもの起こりは「学生たちの不安」
発端は、国際関係学科の学生たちの「アイデンティティをめぐる不安」であった。

国際関係学科は、2009年に発足した新しい学科である。2011年に私が着任。ちょうど、第1期生が3年次に上がってきた春のことである。着任した当初、学生たちからよく聞こえてきたのが、こういうボヤキであった。

「国際関係学科って、何してるんだかよく分からない。何をしたらいいのかもよく分からない」

隣接する学科や専攻では、「英米」「フランス」「スペイン」「ドイツ」「中国」と、具体的な地域や言語の名が明示されている。それに対して、「国際関係学科」だけは広すぎて漠然としていてよく分からない。他学科の学生に「国際関係学科っていったい何してるの?」と聞かれて、いつも答えに窮していると、学生たちが口ぐちに述べていたのである。

何言ってんだ、国際関係学科は世界を丸ごと対象とすることができる、実に自由で野心的な学科ではないか、と、外からやってきた私はポジティブにとらえていた。しかし、渦中にいる学生たちは、むしろその自由すぎる環境、選択肢の多すぎる実態が、かえって何か特定の目標を得にくいネガティブな状況であると受け止めているようだった。こういう風潮は、何とか変えたいなあと思っていた。

■実はアクティブに飛び出している学生たち
国際関係学科の学生たちは、そんなに受動的で消極的なのかと思いきや。よくよく話を聞いていると、夏休みを利用して留学し、ボランティアキャンプに参加し、あるいは個人旅行で海外や国内を歩き回って、たくさんの写真を撮ったり、SNSでお互いに見せ合ったりしていることが分かった。ただし、それはすべて私的な遊びの領域のことであって、学問とは関わりがないという認識であった。

私から見れば、それはすでに立派なフィールドワークであり、社会調査を実践している姿であり、学術の領域においても十分に活用できる成果である。しかし、遠慮がちな学生たちは、そういった個人の活動は大学とは関係ないものと切り離していて、それでいて、国際関係学科の中身が空っぽで困っているというのである。私は直感的に、この乖離の状況は「実にもったいないことである」と思った。学生たちのそのアクティビティ自体を、どんどん学科の魅力として受け止め、みんなで共有し、発信していったら、どんなに楽しい充実した場になるだろう。

とっさに、学生たちに提案した。

「あのさ、いい写真あるなら、一度見せてよ。みんなで一緒に見る機会にしない?」
「あ、楽しそう。見たい見たい」
「じゃあ、旅先のお土産を持ち寄っていっしょに食べようか」

そんな感じで、とりあえず旅の報告会と茶話会をやろうと話がはずんだ。

当時、学科にいらした文化人類学/博物館学の専門の教員の方が、一言アドバイスをくださった。

「いい写真があるなら、パネルを作って写真展もできるよ。簡単だから、学生たちに提案してみれば?」

よしっ! 楽しそうなことは、広く呼びかけてやるのがいいだろう。新しい学科にすでに入っていた1年から3年のすべての学年の学生たちに呼びかけた。

■オープンでやるか、クローズドでやるか
始めはおもに3年生たちの集まりでこの話をしていたが、1年生の写真好きの学生から「私もやりたい」と声が上がり、研究室で興味のある学生たちと会合をもった。

ここでのひとつの分岐点が、「この集まりをオープンでやるか、クローズドでやるか」という点であった。一部の学生は、広く多くの人たちに見てもらう機会と想定していたが、一部の学生たちは、いつもの仲良し同士数人でお茶会をする程度のことだと思っていた。

どうしようか。学生たちと話していたが、すでに学年を越えて学科の多くの人たちが集まる場になりつつあった以上、今さらクローズドなお茶会にすることはできなかった。この方針に反発して、私はそんな大がかりな行事にするなんて想定していなかった、もう関わりません!と席を立って去った学生もいた。それはそれでしかたない、私は引き止めなかった。この時点で、公開で実施するという道が選ばれた。

もうひとつの分岐点が、「写真展もあわせてやるかどうか」。ちょっと作業に時間もかかり、労力も割かざるを得ない。どうする? 写真展という選択肢もあって、ちょっとめんどうだけど、みなさんやってみたい? ムリしてやらずに、スライド発表のお茶会だけでもいいけどね。

「あ、でも…私やってみたいです」と言った学生がいた。この一言で、じゃあやりましょう!と私も決心を固めた。

ここで、もし遠慮深い学生たちに合わせて非公開にして、労力を惜しんでスライド茶話会だけにしていたら。この大がかりな学科恒例行事となっていく「旅の写真展」は発足していなかった。学生たちのちょっとした一言に勇気づけられたのは、むしろ教員の側であった。

■2011年、初回の開催
2011年11月。手探りで始めた写真展の準備。そのアイディアをくれた当の文化人類学/博物館学の教員は、提案はしてくれたものの、開催期間は海外出張に出てしまうということだったので、写真パネルの作り方と展示のしかただけ指導してもらい、後の作業は私が引き取った。

コアメンバーの学生たちに、せっかくだから友だちも誘っておいでよ、と呼びかけた。学生たちと作業室にこもり、プリンタやパソコンの不調とも闘いながら、慣れないパネル作成を苦心して実施。

当初は、一部に勘違いもあって、「かめい先生にデータを預けたら、パネルにして展示しておいてくれるらしい」という、他人任せの関わり方の学生たちもいた。違う、違うんだ。自分でパネルを作って釘打ちして展示に責任をもつことこそに意味があるのであって、教員に作業丸投げなんて意味ないだろ、と叫びたい思いであった。が、最初から理想ばかり追い求めてもしかたない。原則、自分で作るものだよと繰り返し言いつつ、他の学生たちの協力も得て、まあ正直言えば少しだけ目をつぶって代行したりもしながら、とにかく1回目の展示会にこぎつけた。学内での世界各地の旅の写真展という斬新な試みは、多くの人たちの耳目を集め、まさに世界中につながっている国際関係学科の学生たちの活躍ぶりを示すことができた。

旅の報告会、茶話会も、世界中の話題とお菓子の持ち寄りで、楽しく開催することができた。ほっとした。企画し始めた当初は関わりが薄かった2年生たちも、この行事に関心をもって大挙して参加、今後私もフィールドワークの調査を志したいです!と言って飛び入り参加発表も相次ぎ、盛大な開催となった。

■5年間の推移
来年もぜひやりたい、写真展も旅の報告会、茶話会もやりましょうと学生たちが言ってくれて、翌年も同じように開催。

よい効果として、この行事で紹介することを目的に、いい写真を撮ってこよう、珍しいお菓子を探してこようと、「そのつもりになって」学生たちが出かけていくようになったことがある。そう、「後で人を楽しませるつもりで行く」のとそうでないのとでは、雲泥の差がある。この心構えこそが、フィールドワーカーたる重要な要件であると私は考えている。小規模であっても、毎年ぼつぼつとやろう、すべての学科生でなくてよいから、その意欲と関心がある学生層の期待に応え続けよう、と私は考えた。

2012年。2年目。前年に飛び込んできてくれた1年生たちが、こんどは2年生として主催のコアメンバーになり、また、留学から帰ってきた1期生たちが合流して、留学報告会の性格をあわせもつようになった。

2013年。3年目。すっかり恒例行事になり、新1年生たちが大挙して写真を出品してくれた。

2014年。4年目。2012年から学内で始めた映像制作ワークショップの効果もあってか、旅の報告会で3件もの動画発表が含まれ、マルチメディア化してきた。

そして2015年。5年目。この年に初めて開講された2年生配当の新専門科目「プロジェクト型演習」D「写真・映像による調査と表現」の履修者12名が、授業の一環として写真展に合流。その影響もあり、またその履修者たちがさらに友人たちを誘い合わせた効果もあって、写真展の出品者数41名、出品点数90点と、いずれも史上最大の規模をもって開催された。

うん、正直、これだけの数を、わずか2日間の作業時間で写真印刷、パネル作成から展示までこなすのは、相当ハードではあったけれども。私も5年目となればだいぶ慣れてきて、はいはいと流すように学生たちとデータと作品をさばいていった。これだけ回数を重ねると、手慣れた学生たちの人材層も育ってきて、学生どうしの教え合いに任せることもできた。

国際関係学科旅の写真展2011-2015
■データに見る「旅の写真展」5年間の蓄積
各年のデータは、以下の通り。

2011年【展示作品数】44点(16人の学生・教員による14カ国・地域での撮影作品)
2012年【展示作品数】50点(28人の学生・教員による20カ国・地域での撮影作品)
2013年【展示作品数】74点(39人の学生・教員による25カ国・地域での撮影作品)
2014年【展示作品数】47点(20人の学生・教員による21カ国・地域での撮影作品)
2015年【展示作品数】90点(41人の学生・教員による24カ国・地域での撮影作品)

5年を通じて:
【展示作品数】305点(のべ144人の学生・教員による60カ国・地域での撮影作品)

この写真展で展示されたことがある60の国・地域名を、以下に列挙してみましょう。

□2011-2015年「旅の写真展」撮影地:60の国・地域
【東アジア】(6カ国・地域):日本/韓国/朝鮮/中国/台湾/モンゴル
【東南アジア】(8カ国):フィリピン/マレーシア/シンガポール/インドネシア/カンボジア/タイ/ラオス/ミャンマー
【南アジア】(3カ国):バングラデシュ/インド/ブータン
【中央アジア】(1カ国):ウズベキスタン
【中東】(4カ国):UAE/カタール/イラン/トルコ
【ヨーロッパ】(18カ国):ロシア/ハンガリー/オーストリア/スイス/ドイツ/オランダ/ベルギー/フランス/スペイン/ポルトガル/イタリア/ギリシャ/デンマーク/ノルウェー/スウェーデン/フィンランド/イギリス/アイルランド
【アフリカ】(7カ国):エジプト/ブルキナファソ/セネガル/トーゴ/カメルーン/ナミビア/南アフリカ
【北米】(2カ国):アメリカ/カナダ
【中南米】(5カ国):メキシコ/キューバ/ペルー/ボリビア/ブラジル
【オセアニア】(6カ国・地域):アメリカ・ハワイ/ツバル/アメリカ・グアム/パラオ/オーストラリア/ニュージーランド

□日本国内:24の都道府県・地域
北方領土・択捉島/北海道/宮城/青森/岩手/山形/東京・小笠原/新潟/山梨/静岡/長野/愛知/岐阜/滋賀/京都/奈良/大阪/兵庫/広島/島根/徳島/長崎/鹿児島/沖縄

ヨーロッパと東南アジアに学生たちの関心が集中している様子が見えてくる。また、アフリカや中東、中南米などにも、ぼつぼつと出かけている状況が分かる。本学科の学生がいまだに踏破していない大陸は、南極くらいでしょうか。地図を見ていただければ、いかにこの学科の学生たちが世界をまたにかけて活躍してきたかが分かるでしょう。これこそが国際関係学科の誇るべき特徴であると、私は実績とともに思うのである。

■さまざまな派生事業と効果
自分たちが外で撮ってきた写真が、学科に貢献する資源になる。そういう感じで盛り上がってきた学生たちは、この成果をあちこちで転用し始めた。

・オープンキャンパスでの展示、絵はがき作成と配布
・名古屋・栄で開催されるワールド・コラボ・フェスタでの展示と絵はがき販売
・学外のウェブ上の写真展への出品
・愛・地球博記念公園(モリコロパーク)での出張展示
・日本文化人類学会公開シンポジウムでの出張展示
・大学広報動画への素材提供
・学生広報活動との連携 などなど

もちろん、本業の学業としても、写真や動画の撮影を自らの強みだと考えた学生たちが、卒業論文のために海外フィールドワークを行う、それを強みとして留学奨学金を獲得するなど、その能力を研究の中で活かす者も増え始めた。

さらに、よい雰囲気として、学内の他のどの学科よりもアクティブである!という自覚をもち始めた学生たちが、「国関(コッカン)らしさ」として、こういった課外の活動に盛んに取り組むようになってきたことがある。もちろん、他のさまざまな要因もあるとは思うが、このフィールドワーク奨励の取り組みもささやかな一助にはなっているだろう。

これまで「国際関係学科って、何したらいいのかよく分からない」というネガティブな意識をもっていた学生たちが、「国際関係学科では、世界のどこでも自分の意志で自由に調査対象にすることができる」というポジティブな意識へと移行していったことが、何よりの成果だと感じている。「国際関係学科っていいな、私も入ればよかった」という他学科の学生たちの声も聞こえてくるほど。

新学科として設置され、当初は空っぽであった器に、コンテンツを詰め込んでくれたのは、他ならぬ世界を歩いて見聞してきた学生たちである。各人の私的領域の中に散らばって潜在していた貴重なコンテンツを、一か所に集めて見えるようにしたのが、私の着想。それが見事当たって「国際関係学科らしさ」の創造につながっていった。着任した最初の年から、思い切ってやってみて本当によかった、と思う。

私は、声を大にして訴えたい。「能ある鷹は、爪を出そう」。控えめに能力と実績を潜在化させていては、何も始まらず、何も起こらない。退屈で不安な日常があるだけだ。みなが爪を見せ始めたら、あっという間に個人も場もおもしろく豊かに育っていくのだ。この5年間の学生たちとこれらを企画した経験の蓄積は、それを如実に示してくれた。

国際関係学科旅の写真展2015 (学生と)
■何も足さない、何も引かない、フィールドワーク教育
この「旅の写真展」のポイントは、二つある。

ひとつは、私は何も付け加えていない、すでに学生たちが行っていた行為を追認しただけであるという点である。学生たちがすでに世界各地を歩いて写真を撮ってきているという事実を知った私が、それって立派なフィールドワークだよ、十分に調査になってるし、研究にもなるんだよ、と事後的に位置づけて、奨励し、学問の一環として認知したことである。

もうひとつは、私的領域の遊びだと思ってやっていたことを、公的な表現に引き上げたことである。写真を撮影し、SNSなどで友人同士でのクローズドな見せ合いをしていた学生たちに対して、広く多くの人びとの目に触れる場を用意した。このことで、同じことをしていても、学術的価値をもあわせもつデータとなりうるという回路を具体的に提供した。

教員は、何も足さない、何も引かない。ただ、情報の流れと現れを少し制御する提案をしただけである。それだけで、新学科というからっぽな器が学生たちのコンテンツで満たされて魅力を増し、学生たちは同じことを調査として研究に役立てることができる。双方にとって、よいことではないか。

フィールドワーク教育を考える時、教員が学生たちに何かを教え込もうとするのは、おこがましいことなのかもしれない。むしろ、学生たちがすでにそなえているさまざまな潜在能力を受け止め、その活用を促すことが重要である。学生たちが今すでにもっているモノや価値観、行動傾向に目を向け、また、学術の外でつぶやかれている声に耳を傾けようではないか。「学生たちというフィールド」から私たち教員の側が学びうることもまた、多いに違いないと考えている。

[付記] 大学教育は「学生に何かを付け加える」発想ではなく、「学生がすでにそなえているものを見える化する」発想でいこう。そういう考え方に私が転じたきっかけとして、前の勤務先である大阪国際大学人間科学部心理コミュニケーション学科の「セミナー II」で、2年生たちのポスター発表会の準備を手伝った経験がある。あのときの2年ゼミ生たちとの共同作業の経験は、本当に楽しかったし、その後の私の大きな糧ともなった。このことは、いつかまたどこかで。

[付記2] 文化人類学者のベテランの方がたにおいて。海外の調査地では相手のことをよく観察しているものの、目の前の学生たちについては、案外観察眼が曇るというか、学生たちから学ばずに済ませてしまっていることって多いんじゃないですかね。というやや批判的な問題意識が、この記事の背景にあります。「人間観察」と「だれからでも学ぶ姿勢」は、キャンパスでも常に研ぎ澄ませておきたいものです。

[付記3] 2015年度の「フィールドワーク・フェスタ・旅の写真展」も、無事閉幕しました。学生のみなさん、おつかれさまでした。協力くださった学内の各部署、教職員各位、ありがとうございました。 >> [報告書] (PDF)


2015年11月14日 (土)

■多様性ってなんだろう/フランス語づけの日々

今週は、何か忙しかったな!という感じで振り返ってみます。

月曜日。勤務先のFD委員会主催シンポジウム「多様性ってなんだろう?」のパネリスト。というか、自らがFD委員としての主催者であり、発表も引き受け、登壇した3名の教員たちが授業を合同にして受講学生たちに来てもらったという、ほぼカンペキ「自作自演」シンポジウムなのではありましたが。それでも、大切なことをいくつか言いましたよ。

「『多様性をありのまま認める』だけでは、多様性を受け入れる場は守れない」ということを、しつこく言った。たとえば、学生のみなさんが、ゼミやサークルの飲み会を企画したとする。で、誘う対象に、ろう者の学生がいた場合。通訳も何も準備しないまま、ろう者の学生を誘い、「来るかどうかは自分で決めてね!」というケース。これは、表向き「自己決定」の名を借りた、ただの排除です。自ら変わろう、そのために本人と相談しよう。と推奨した。

じゃあ、そういうわずらわしいことを引き起こさないために、「飲み会は中止します」としたら? 楽しみにしていたマジョリティたちは、きっと怒ります。「コイツがいるせいで…」などと、そのうらみの矛先がいっせいにろう者の学生に向かってしまう。お役所が好むこの手の「悪平等」は、マイノリティをかえって窮地に追い込むだけなので、ぜひとも避けたい事態である。そのために、まずは本人と相談しよう。と推奨した。

「ありのままを認める」だけでなく。多様な人たちそれぞれの自己決定権を尊重しよう。参加の形を本人がフェアに選択できるように、多様な人びとをつなぎとめる場の環境を整えよう。というメッセージ。20分の発題にしては、濃厚だったと思います。くわしくは、拙著で紹介した大学での闘いなどもご覧ください。

月曜日と火曜日は、国際関係学科の秋の恒例行事、フィールドワーク・フェスタ「旅の写真展」の印刷と設営。このために、両日は(シンポジウムに出ていた1時間半を除いて)ほとんど費やしてしまった。学科の特色づくりに貢献してきたこの行事、今年で5年目になります。出品者数、出品写真点数ともに過去最大となった今年の行事。くわしくは、来週書こうと思います。

水曜日。11/11、今年のポッキーの日を迎えました。私は「ポッキー中心主義」に与したくないので、「ポッキー・プリッツ・トッポ・フラン・ピコラ・いもけんぴ・うまか棒・うまい棒・きりたんぽ・トッポッキ・もやし・ししゃも・アスパラガス・その他ありとあらゆる棒状の食物記念日」と勝手に位置づけて、ついとで騒ぎ、自らも買い込んで、大学のあちこちで学生たちと食べました。騒いだおかげか(すみません)、プリッツやいもけんぴを差し入れしてくれる人たちが続出。楽しいポッキー類ウィークを過ごしました。

人間は、なぜ棒状の食物を好むのでしょうね。通文化的に調査して、そこに何らかの普遍性を見出してみたい。「文化棒類学」を提唱しようかなと思いすらした。

■フランス語ウェブサイトの構築
さて、今週は、少し遡りますが、夏休みに取り組んだフランス語の勉強について書きます。

この夏は脚の不調もあって、海外調査をせず、在宅の日々。「毎日フランス語を使って勉強するぞ」という目標を立て、その手段として、「自分のウェブサイトのフランス語版ページの拡充」に取り組んだ。ケガなどして気分が塞がっている時は、多くの人びととつながる仕事をする気になれないもの。そういう時は、ひとりでコツコツと翻訳などに打ち込む方が、気分に合うんですよね。

フランス語圏アフリカの友人たちにせっつかれて始めた、小さなフランス語サイト。実はトップページといくつかのページを除いて、コンテンツの大部分が英語版のままになっていた。これでは、名が体を表さない(ちなみに、大学などの組織でもあるあるですよね、最初のあいさつページだけフランス語や他の専攻言語で掲載し、後は英語や日本語で済ませてしまうケース)。私は、本気でフランス語圏のアフリカの友人たちに自分の実績を見てほしいから、一念発起してフランス語サイトの大拡充を図った。

■フランス語を書く時の強力な助っ人
膨大な研究の実績(著書や論文、学会発表など)を翻訳するのは、手間がかかる。とくに〆切はない作業だが、いつもこのサイトを訪ねてくれている(かもしれない)アフリカの友人たちに早く全容をフランス語で見せようと、勝手に読み手たちの姿を妄想して、自分を作業へと駆り立てた。

私の場合、多くのページの英語版があったから、まず固有名詞や専門用語などを英語からフランス語へと一括変換、その後は手作業でコツコツと項目や文章をフランス語に翻訳していった。

強力な助っ人は、ウェブ上の仏英/英仏辞典と、Word のフランス語自動校閲機能。私が愛用していたウェブ辞典は、Linguee である。英仏対訳の用例が非常に豊富でありがたい。仏和/和仏辞典はあまり使わなかった。仏英/英仏辞典を使うと、いちいち日本語で考える必要がないから時間の節約になるし、フランス語と英語の表現を比べながら学べるのでとてもよい。

フランス語のページ原案ができたら、Word 先生に校閲を頼んで、赤い波線が出たら修正して、すぐにアップ。この繰り返し。だんだん、赤い波線の間違いが減ってくると、少しフランス語が上達したような達成感がある。

■完成したフランス語ページの数かず
おかげで、この夏休みの間に以下のページが完成、あるいは大規模な改訂を終えた。

とくに重かったのが、「研究業績一覧 (刊行)」と「研究業績一覧 (発表)」。これまでの20年間の積み重ねを棚卸しするみたいな気分にもなってきた。ただ、この機会に、自分の専門分野に関わる語彙、たとえば「危機言語」「クレオール化」「学習行動」「ネアンデルタール人」などなど、日本語と英語では知っている語彙を、フランス語で表現できるようになったことは、とてもよかった。

■フランス語脳になる
毎日毎日フランス語ばかり読み書きしていると、頭がフランス語脳になる。街角の「PACHINKO」の看板を、気付いたら「パシャンコ」と読むようになっていた。

セブンイレブンを見たら "Sept-onze" とつぶやいているし、ファミリーマートは "Marché de famille" かなあ、いや marché ではないか、などとアタマの中で勝手に変換している。

かつて、学生の頃、一時期中国語に徹底的にはまっていて、暮らしの中で目に入る漢字をすべてぶつぶつと北京語読みする「中国語脳」になっていたことがある。大学院生の頃は、聞いたことばすべてを自動的に手話に翻訳してしまう「日本手話脳」になっていた時期もある。ある言語を学び始めた時に、それに脳ごとつかり込むという経験は、わりと気に入っている。

■「言語を学ぶなら文化も合わせて学べ」は正しいか
私は、かれこれ20年近くフランス語を学び続けてきたが、ことさらにフランス共和国とフランス文化が好きなわけでもない。

誤解を恐れずに言えば、フランス語を学べば学ぶほど、フランスが好きになるのではなく、むしろその逆になる感がある。フランスのみにくい側面(核武装とか、植民地支配とか、アフリカにおける利権とか)が見えてきて、いっそうフランスを突き放して見る視点が強まってくる。

かつて、アフリカ長期調査を経験した後に、帰国後もフランス語の力を磨こうと思って、近所のとあるフランス語講座に通ったことがある。ネイティブの講師たちによる、フランスの文学、芸術、政治を題材にしたフランス語の授業の数かず。そこでの私のあのアウェー感が忘れられない。私はフランスではなく、フランス語圏アフリカのことをもっと学びたいと思っていたが、その講座でその価値観を共有することはなく、結局、1学期くらいで通うのを止めてしまった。

よく、「言語を学ぶなら文化も合わせて学べ」という。しかし、それは、力関係次第で同化的な抑圧に転じることがある。少数言語を学ぶなら、少数文化も合わせて学ぶことに意義があるだろう。しかし、汎用性のある大言語を学ぼうとする時に、そのルーツとなった集団の文化(英語なら英米文化、フランス語ならフランス文化)を学べと強いることは、言語と合わせて生活様式や価値観もスタンダードとして受け入れよと強要することになりかねない。

そもそも、私がアフリカの友人たちとともにフランス語を学んでいるのは、フランス文化を好み、それを讃え、それへの同化を奨励するためではない。むしろ、フランスによるアフリカ支配、差別、搾取に抗する力をもちたいのである。状況次第では、支配的文化への同化を拒み、言語の「語彙と文法だけ」をドライに学ぶという自由は、学習者にある。私はそう考える。

■フランス語は「世界一美しい言語」?
「フランス語は世界一美しい言語である」というような語りがある。そうかねえ、と私は思う。どんな言語にも、それぞれなりの美しさはあるのだ。

フランス語を学び始めた学生たちから、そういうことばが出てくることもある。その姿って、「就職内定をもらった企業の素晴らしさを得意げに語る、入社前の学生」にそっくりなんですよね。美しいと思うのは自由だし、とりあえず自分の居場所と目標を得たことについての自己肯定の表現は尊重するけれど。現実はそんな甘いもんじゃないよ、少しは冷めた目で見た方がいいよと、両方に対して言いたいよね。

私は、フランス語を学び、フランス語圏アフリカの友人たちに恩義を感じている者のひとりとして。フランス語を使いつつも、 かつてフランスに植民地化された地域の人たちとの信頼関係を培いつつ、フランスとフランス文化に冷たく当たることも含めて、世界に対してぶつくさ言う者でありたいと思う。フランス語には、そういう使い方がある。

■愛知県近辺のフランス語コミュニティ
私にとっての課題は、何より、日常でフランス語を使う機会をむりやり作ることである。しばらく日本国内にいると、アタマが「日本語脳」になっていくからである。

最近、愛知県近辺のフランス語を用いる研究者たちの組織 Association des Scientifiques Francophones d'Aichi (ASFA) ができたという。フランス語の研究教育を専門とする集まりではなく、フランス語を使用言語とした、他の分野(自然科学や社会科学など)の研究者をも含む交流の場だそうである。同僚の勧めで、私もその連絡網に加えていただいた。

「日本語脳」化を避けるためにも。私も時どき名古屋での例会に顔を出してみようかなあ、と思っている。文化や価値観は別として、アフリカにアプローチする手段としてのフランス語とのお付き合いはこれからも続いていく。

[付記]
ネイティブの人が、メールなどのくだけた文章で、アクサン(à や é の上に付いている記号)などを適当に省いて書いていることがある。それを見ると、無性に腹が立つ。こっちは慣れない中、苦労して覚えて正しいスペルを守っているのに、スラスラ書けるあんたらが手を抜くな、などと。

また、後進のフランス語学習者たちが間違えていたり、レストランのメニューでの表記が間違っていたりすると、異様に目くじらを立てて指摘してしまう。お前らも同じ苦労を味わえ、などと思うことすらある。

文化の中心にある者ではなく、周辺者/新参者こそが、むしろ過大に規範を遵守し、それを他人にも要求するという現象。社会のあちこちで見られますよね。あ、その一種だな、という自覚があります。

[付記2]
この日記を書いている最中に、パリできわめて凶悪な同時多発テロが発生、無差別で多くの市民が虐殺された。フランス大好きな私ではないが、フランス語とフランスとのお付き合いは生涯続けていくつもりである。そういう心情も少し重なって。凶行を憎み、亡くなった方がたに哀悼の意を捧げ、負傷された方がたに心よりお見舞いを申し上げます。祈りましょう、パリのために。Prions pour Paris.


2015年11月7日 (土)

■戸籍姓はくじ引きで決めよう: 姓の決定権をめぐる政治

週末になりました。火曜日が休日だったため(+そこで一度日記を書いたため)、週末が来るのが早いように感じられます。

遅まきながら科研費の書類をつらつらと書いて仕上げ、学生たちとともに名古屋国際会議場を見学し、学生自主企画研究の優勝お祝いをして、ゼミ生6人の卒論タイトルが全員定まったところで、だいたい今週は終わっていきます。

土曜日、公開講座の2回目。講師は、猟師の千松信也さん(@ssenmatsu)と、同僚の西野真由さん。千松さんは京都の里山でのわな猟について、西野さんは和食をめぐる貿易について。視点も対象も異なっていたが、「第一次産業の高齢化」という問題を共通して指摘していたし、食料貿易の拡大を押し進める日本で獣肉が捨てられているなど、日本社会の資源利用の奇妙な側面を見つけることもできたおもしろい組み合わせだった。

さて、夫婦同姓を定める民法に対し、最高裁判所の判断が近く示されるという報道をきっかけに、関連の議論がやや盛り上がった。私自身がいろいろ経験して考えてきたことでもあるので、一度振り返ってみようかなと思う。

(本稿では、「法律上改姓するが通称の別姓を用い続ける慣行」と「別姓のまま法律婚ができるようになる将来の制度案」を、いずれも「夫婦別姓」と呼ぶことにします。正確に言うと異なるものですが、日常における夫婦別姓使用の実態に関心を寄せる記事だからです)

■改姓してからかれこれ13年
著書でも公開しているから隠すことでもないが、私は13年前に法律婚をし、夫側が妻側の姓に合わせた。既婚男性としてはやや珍しい部類に入る。

なぜ、そんなことをしたのか? それは、くわしくは拙著のそのくだり(「夫婦別姓の光と闇」『手話でいこう』 pp.76-78)を読んでみてほしいと思うが、縮めて言えば、親族による結婚差別が原因。まあ細かいことは別として、法律婚で改姓した。いわゆる「相手側の家への婿入り」という認識でもなく、あくまでも両者の個人主義的な判断で、生活ではそれぞれの姓を使い続けようと話し合って決めた。…はいいものの。

改姓の影響は、実は、じんわりとくる。職場で。役所で。警察で。郵便局で。税務署で。銀行で。病院で。不動産屋で。カード会社も、保険会社も、携帯会社も、資格試験も。その他、あらゆる窓口業務で。名前を変えろー、名前を変えろー、早くあきらめて名前を変えろー、むだな抵抗をやめて名前を変えろー、という大合唱が、少しずつ、妥協の余地なくやってくる。姓の変更をめぐる気疲れは、「後からじんわりくる」のである。

私は両姓併記を認めているパスポートをまず取得、その権威を借りてコピーを示し、他の手続きを突破するという作戦を採った。一部では成功。一部では敗退。絶対に通称姓の使用を認めないガンコな分野と、比較的柔軟な分野の見分けができるようになって、今に至る。

■両姓生活の技法
ふたつの姓を併用して暮らす。中国の「一国両制(一国二制度)」にちなんで、「一人両姓」生活と私は呼んでいるが、これにはいくつかのコツがある。

まず、情報の共有が大事。パスポートは、銀行は、職場は、ハンコは、など、いくつもの生活上の知恵を、先人である既婚女性たちから教わった。逆に、後に似たような立場になった人たちに教えもした。たとえば、同じ企業・組織でも、ここの支店の窓口は通称使用の要求が通りやすいとか、そういう「穴場情報」の交換をしたこともある。同じ立場の男性に出会ったことがないから、この問題についての同志は、みな女性たちであった。

通称使用拡大の基本戦術は、「指摘されるまで自己申告しないこと」。もし指摘されたら、まずはしらを切り、拒否されたら正しく抗議し、いちいち落胆しないでしぶとく言い続け、また、仲間を探すことも大事である。この春も、職場のとある慣行に対して、同じ立場の女性の同僚たちを味方に付け、ストレートに要求し、ひとつ勝ち取りましたよ。ほれ見ろ、できないできないと言っておきながら、やればできるじゃん。板挟みになる末端の職員さんには申し訳ないけれど、組織の上の方を説得してきなさいと、こちらの要求を下げないことは大切だ。10年もやっていれば、こうしたことにもそれなりに慣れてくる。

■なぜ通称にこだわるのか: 記号の自己決定権を守る闘い
よく聞かれるのは、「なんでそんなに旧姓にこだわるの?」「これまでの姓がそんなにいいの? 相手の姓がイヤなわけ?」などなど。

他の人はよく知らないが、私の見解を述べる。それは「記号の自己決定権を守ること」、これに尽きます。

「亀井(かめい)」という姓を使い続けているが、これが本質的に重要か、大好きか、死んでも変えないか、と問いつめられたら、まあ死ぬほど好きなわけでもないかなあと正直思う。確かに、幼い頃から友人には「かめ、かめ」と呼ばれていて、よく亀の置物をお土産にもらったりもして、多少はなじみもあるけれど、アイデンティティの核として絶対不可欠というほどでもない。いわんや、「亀井家」というイエに帰属してその立場を守る気概もさらさらない。

また、相手の姓がことさらに嫌いということでもないし、相手側のイエに帰属するべきだといったつもりもお互いないから、そういう負担を恐れているのでもない。

改姓が手間だから? 確かに氏名表記を変えるのは手間ではあるが、引っ越しして住所や電話番号を変えるのとさして変わらない。むしろ、通称姓の使用を認めさせるために、分からず屋の窓口職員を説得することの方が、よっぽどめんどうくさい。手間だけ考えたら、戸籍姓に合わせて暮らした方が圧倒的に楽である。

研究者としての実績の蓄積。うん、それは多少はありますね。ただ、、、結婚前の実績って微々たるものだったから。新姓で業績を蓄積するぞと覚悟を決めたら、それはそれでありだったかもしれない。

アイデンティティの一貫性。これも多少はあるけれど、どうにでもなるといえばなる。転職したり、髪型やメガネを変えたり、アイデンティティは日々移ろいゆくもの。これも絶対とまでは言えない。こうやって考えていくと、どうせ名前なんて「中身のないからっぽな器としての記号」なのだから、何にこだわるのかが理解しにくく見えるかもしれない。

私が最も重視しているのは、「どのように名乗るかは、私が決める」という「記号の自己決定権」である。守りたいのは名前そのものではなく、名前の表現のしかたを決める私の権利である。

さまざまな場面での粘り強い交渉とは、「記号の自己決定権を守る闘い」に他ならない。その底にあるのは、記号の自己決定権を、さして深く考えもしない人たちや組織から、「前例がない」「煩雑である」といった言い方とともに、寄ってたかって否定されることへの憤りである。そして、やればできるのに自己決定権を守ろうとしない、怠惰な組織に対する不快感である。

戸籍姓で生活したいという人が、それを選ぶ権利は十全に守られている。同じように、そうでない人がその望む名乗りを選ぶことを否定されない社会にしておきたいのである。私もいつか気が変わって、戸籍姓で暮らすことをえいっと選ぶことがあるかもしれない。それすらも、私は自分の権利として選び取りたい、だれにも強制されたくない、と考えるわけである。

■男たちの無関心
それにしても。この問題に対する男たちの無関心さには、あきれてしまう。自分には関係ない、女たちが勝手に悩んで決めたらいい、というくらいに思っていることが多い(それすら思っていないことも多い)。自分は改姓しないで済まされるという前提で、問題を女性に丸投げしているのだ。

(基地は本土には要らない、沖縄の方でどうするか考えといてくれ、というのに似ている)

話題に関わろうとするマシな部類の中にも、「オレは妻に通称姓の使用を許可している。ドヤ、理解あるだろ」などといったえらそうな語りがある。相手に改姓させておきながら、何さまのつもりでしょうね。お前が率先して改姓しろと言いたい。そして、通称姓を頑として認めない組織と闘い、拒否されて、名前の自己決定権を否定されるむなしさを味わい、しばし凹んで、女性たちの励ましを受けてそれに感謝してから、モノを言えと言いたい。

(植民地支配しておきながら、「国民に準じる扱いをしてあげよう、これって寛大な政策でしょ」というのに似ている)

「夫婦別姓は、働く女性にとって朗報」という報道のしかた。これも困ったものである。確かにそのような側面があることを認めるが、ふたつの意味で私には違和感がある。まず、私自身がそうであるように、男性の中にもわずかながら同じ状況にある人たちがいる。そして、何も考えず、改姓するつもりもなく、名前の問題を女性たちに押し付けているマジョリティ男性を免罪することばになってしまう。

■戸籍姓はくじ引きで決めよう
そこまでして何で姓を統一せねばならないのか、よく分からない。ただ、どうしてもそれが民法上必要だというのであれば、せめて、「戸籍姓は両名のくじ引きで決める」ことにしよう。男どもが「もしも自分が改姓をすることになったらどうなるだろう…」と、まじめにこの問題を引き受ける機会を増やすためである。

「くじで負けただけで、何でオレが氏名を変えねばならないのだ」「不便ではないか」「くやしいではないか」と不服に思う男性たちが、全体の半分くらいを占めたら? 「オレたちにも通称姓の使用を認めろ!」という運動が巻き起こって、あっという間に社会制度が変えられていくはずである。

つまり、この問題の根幹には、「結婚時における男性による姓の決定権の独占」と「その男性たちによる社会制度の支配」のふたつがある。

私は過渡的な措置として、「戸籍姓はくじ引きで」を提唱したい。それで、だれからも不安も不満も出ないほどに通称姓の使用がまかり通ってくれたら、「記号の自己決定権」はずいぶんと守られる社会になるだろう。そして、「そもそもなぜ戸籍姓を統一せねばならないのか」という根本的な疑問も、多くの人たちに共有されていくに違いない。

え、そこの男性。「くじ引きは嫌だ」ですって? 「自分だけは絶対に姓を変えたくない」? だとすれば、あなたはまだ、だれかの自己決定権を侵害する側のひとりであるということですよ。

状況として、姓を変えさせられる可能性の高い女性のみなさんへ。これ、男に対する踏み絵として使えますから、ぜひ使ってください。「あなたは、くじ引きで姓が変わりうる制度に乗りますか、乗りませんか? その理由は何ですか? あなたの戸籍姓が変えられた時、社会に対して何を望みますか?」

[付記]
ちなみに、通称姓を使う人たちにとっての生活上の必携アイテムは何かご存じですか? それは「ハンコが2本入る印鑑ケース」。私も、いつ何どき、どちらの姓で手続きを要求されても動じないように、文字通り「肌身離さず」両姓のハンコを持ち歩いています。これも、通称別姓を実践している先輩である、既婚女性のみなさんから教えてもらった生活の知恵です。

いえね、たとえばの話ですけど。妻側に対して法律上の改姓を要求し、自分の方に合わせてもらった上で、相手が生活上の通称姓を使用するという形で妥結した男性とかは、せめてむちゃくちゃいい2本印鑑ケースを買って、ふたつの姓をあわせもつ暮らしを引き受けてくれている相手に敬意を表してプレゼントするとか、それくらいの気づかいはあっていいんじゃないの?と思う。「え、おまえ、なんでハンコがふたつも要るの?」とか真顔で聞いていたら、もうダメですから。(オトコあるある)(苦笑)


2015年11月3日 (火)

■聞こえる人の方を向いて創られた手話の映画: 映画評『エール!』

(ネタバレのない、ただしやや辛口の映画評です)

2014年制作、エリック・ラルティゴ監督のフランス映画。原題は "La Famille Bélier"(ベリエ一家)。主人公たちの家族の名前である。

本作の主人公は、ろう者の父母と弟をもつ、聴者の少女。農業を営む4人家族の中でただひとり耳が聞こえるという設定である。歌の才能を見込まれてパリのラジオ局の歌のオーディションを受けることを音楽教師に勧められるが、聞こえない家族との関係もあって進路に悩む。一家で牛を飼い、チーズを作り、市場で販売し、といったのどかな田園風景の中で、手話と音声の間にはさまれる少女の葛藤があれこれと描かれる。

私の雑な感想としては、ああなるほど、確かにろう者の暮らしの中ではこういうことあるあるだなあ、でもことさらに感動もないかなあ。といったところである。

ろう者の文化や生活習慣などは、なるほど細かに描き込まれている。聞こえる俳優たちがろう者役をしているようだが(そのこと自体の是非も議論にはなりうるが)、そこそこフランス手話は流暢にこなしていたようだし、ろう者の行動傾向も再現していたように見られる。ただ、何の注釈もなく、それらがそのまま生の素材として聞こえる観客たちに示された時、「ろう者たちは何かとガサツだ」「失礼だ」「思い込みが激しい」「早とちり」などという負の印象を与えてしまわないか。それぞれに固有の背景があるだろうに、である。

また、この手のドラマにありがちな、コミュニケーションの不全、つまりちゃんと情報が伝わっていない/伝えていないといった場面がいくつも出てくるが、そこがどうやら笑いを取りたいコミカルな場面として演出されている。実際、まったく腹立たしいことに、映画館の多くの聞こえる観客たちは、その場面を爆笑しながら観ていたのである。情報の欠落がどれだけ深刻なことか、現実にそれが日々起こる中、当のろう者たちがどれほど不快感とむなしさを味わっているかといったことは、すべて捨象されて。観客席のみなさん、そこ笑うところですか?と訴えたいほどであった(しなかったけど)。

もうひとつ重要な欠陥があって、それは、フランス手話によるろう者たちの語りの大半に、字幕が付かないことである。多くの手話の発話は、それを見て声で言い直しをする聴者の少女のフランス語となって初めて聞こえる人たちに情報として届き、そこだけに日本語字幕が付いている。つまり、だいたいの話の流れは分かるようにはなっているものの、ろう者の語りは「聞こえる人の声を通じてのみ観客に届く」ようになっていて、手話を理解しない観客との間に一種の透明な壁ができる。あたかも、「解説されてようやくその意味が理解できる珍妙な動物の行動」のような描き方ではないか。これでは、ダイレクトにろう者たちに感情移入して見ることは難しい。聞こえる人たちにとっては、「身近だけれど感情移入しにくい、異質な他者」ということが強烈に印象に残るだけではないか?と不安にもなる。

ストーリー展開について。後半で、校内のコンサートとパリでの本番と、少女による2度の重要な歌のおひろめの場面がある。それぞれに、視覚的、聴覚的、いろいろな仕込みがあって、ろう者と聴者の間の文化的/感覚的ギャップを表現する工夫がある。それはいちおういろいろ考慮してのことであろうが(そしてやや驚くところでもあるが)、申し訳ないが、ろう者の観客には分からない工夫であったり、どうでもよい仕掛けであったりして、また、分かったところで大した感動もないだろう。徹底して、耳の聞こえる観客の方を向いて設計された映画であり、ストーリーである。加えて、最後のヤマ場における表現手法は、ろう者の文化に対する誤解を広めるかもしれないとすら思わされた。

徹頭徹尾、ろう者を「内面からではなく、外面から観察して描く」まなざしで一貫している。手話にしても、音声にしても、情報やさまざまなチャンスにしても、すべてそれらを与えるのは聞こえる人たちの側であるという世界観。「『聞こえない家族をもつという障害』をうまく乗り越えて、聞こえる世界への成功の切符をつかむ美談」という、ありそうなストーリーになるのではないかという予測は、おおむね外れてはいなかったようである。

なぜ、手話を描く作品は、こうなるのかな…という軽い既視感がある。「ろう者の文化を外面から正確に描いて、行動傾向を再現する」ことについては、さすがに最近の映画ではうまくなってきた。しかし、「ろう者の文化を内面から描くこと」、文化人類学でいうところの emic なまなざしが、こういった一般の映画で標準装備される日はいつになるのだろう。ろう者の価値観を絶対視せよ、とまでは言わないものの、いまだにそれらが十分に認識されていない現状において、ろう者たち自身の感性が観客にダイレクトに届けられる機会が、もう少し増えてもよいように思われる。

喜ばしいことをひとつだけ。私の最大の感動は、実は、最後の字幕が出始めた後に挿入されるささやかな場面のひとつにあった。おおっ!これには目が釘付けになったし、思わず暗がりの中でヒラヒラのろう者の拍手をしてしまったし、大いに笑えましたよ。そう、次は「この人物」を主役にして、そのストーリーでぜひ1本撮ってほしいと思う。できれば、フランスのろう者の監督がそれを創ったらよいだろう。

全編にあふれる音声フランス語とフランス手話は、それぞれの言語に多少のご縁がある私にとって、耳と目に心地よく感じられた。それだけに、フランス手話の大半に字幕が付かなかったことは、ろう者たちの生の語りがもつ意味が減殺され、見せ物のひとつにされてしまったような不全感をもたらした。これらふたつの言語が出会った場面で生み出されたある種の表現に魅力を感じる人がいるかもしれない。それはそれでご自由に、ではあるものの、勘違いの感動と模倣をする聞こえる人びとが今後増えたら嫌だなあと思うので、私は観察の対象にはするけれど、模倣することをお勧めはしない、という姿勢をとるつもりである。

付記:同じ映画を見た「ろう者のホンネ」ツイート(@across7seas)をいくつかリンクしておきます。こちらはネタバレになりますので、未鑑賞の方はご注意ください。
>> [ツイート1] [ツイート2] [ツイート3] [ツイート4] [ツイート5] [ツイート6]

付記2:ウクライナのろう者たちが出演する『トライブ』という映画、仕事柄見ておいた方がいいのかな…とも思ったが、まだ見ていない。というか、ろう者かどうかといったことは別として、私は基本的に暴力系映像は苦手なのです。



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