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ILCAA
亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2015年10月

日本語 / English / Français
最終更新: 2015年11月3日

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■Happy Halloween!/ウェブサイト開設12周年 (2015/10/31)
■政策の決定権はだれの手に: エレベータのふたつのボタン (2015/10/24)
■記録はだれのものか: ユネスコ記憶遺産と国家と市民の知る権利 (2015/10/17)
■ノーベル賞と日本人論 (2015/10/10)
■イソップ童話「ガチョウと黄金の卵」風「もんかしょう男とだいがくガチョウ」 (2015/10/04)
■2015年、久しぶりの国内での夏休みを振り返る (2015/10/03)


2015年10月31日 (土)

■Happy Halloween!/ウェブサイト開設12周年

Happy Halloween!
Joyeuse fête d'Halloween!
万圣节快乐 (wàn shèng jié kuài lè) (萬聖節快樂) !
みなさま、お好きな言語で、すてきなハロウィーンを!

今週は、おもだった行事が三つくらいでしたかね。

日曜日:コンゴ民主共和国出身の研究者の友人で、勤務先の非常勤講師もしてくれている方が、日本の女性とご成婚。名古屋市八事の八勝館という老舗の料亭で披露宴が開かれました。純和風の庭園とお座敷に、つかのまフランス語圏アフリカの人たちのコミュニティが出現。フランス語と日本語が入り交じる、厳かな中にも楽しいひと時でした。

水曜日:国際関係学科の3年生の研究テーマ発表会。とりあえずほめて励ましました。その後は、ゼミのみんなで懇親会。セネガルに長期留学に出かける学生の送別会も兼ねて行いました。3月に卒業したゼミOGたちが、会社帰りにサプライズ参加してくれて。うれしかったね。とても楽しいひと時となりました。

土曜日:第8回多言語競演レシテーション大会。愛知県立大学で「日本手話」の講義ができたことに伴い、初めてこの大会でも「日本手話」という種目が登場。国際関係学科のコンビが漫才を披露して、みごと優秀賞に入賞しました。おめでとう。音声言語だけでやってきた行事に、こうして手話言語が対等に並ぶ。とても望ましいことです。チャレンジした学生たち、指導してくださったろう者の講師の方、この実現に尽力してくださったみなさまにお礼を申し上げたい。

さて、今日の話題は、このウェブサイトの歴史です。

2003年10月30日に開設したこのウェブサイト「亀井伸孝の研究室」、昨日でちょうど12周年を数えることとなった。干支ひとまわりというほどの歴史になる(ざっくりとこちらのページにまとめてあります)。

開設してから幾歳月、時に停滞したり、時に猛然と更新したりしながらも、ぼつぼつとページが増えて、今にいたる。データの総量は100MBを超え、ファイル数は400余りとなっている。まあ、よくもこれだけ時間と労力のムダをしたものである。笑

■設置のきっかけは就職のためのハッタリ
サイトの設置を決めたきっかけは、今もよく覚えている。当時、私は学振の特別研究員(PD)。京都大学のアフリカ地域研究センターで居候研究員をしていた。絶賛、就職活動中。

ある大学での求人に、「ウェブサイト管理などができること」というような条件が付いていた。こりゃムリかなあとも思ったが、尻込みしていても仕方ないし、仮にというつもりで、応募書類に「研究業績などを紹介するウェブサイトを作成、運営しています」と書いてみた。よし、じゃあもうこの機会に急いで作ってしまおうと決めた。つまり、元はと言えば「就職活動で背伸びして見せるためのハッタリ作戦」だったのである。

さっそく、アフリカ地域研究センター教員で自分のウェブサイトをすでにもっていた木村大治さんに相談。HTMLの基本的な書き方とファイル転送ソフトの使い方を教わった。あわててがつがつと習いたがる私に、「何や、そんな急いで作る必要あるんか?」と言われたりもした。あ、でも、ハッタリで応募書類を書いてしまった以上、ウソは付けないし。何と1ページのみからなるウェブサイトを作ってとりいそぎアップしたのが、発足の実態だった。「もうちょっと、デザインなどを工夫しないと」と指摘されながらも、とにかく求人には間に合わせたのだった。

■「ジンルイ日記」の誕生
あいにくその求職は敗退したので、ご縁はなかったのだが、副産物としてこのウェブサイトが手元に残った。さて、何を書こう。知人のサイトなどを訪ねながら、その工夫を学ぼうと思った。参考にしたのが、人類学の同業者たちの「こくら日記」「沼の駄目日記」

動きのないサイトはつまらない。ささいなことでもしょっちゅう更新すれば、期待感で読者は訪ねてきてくれて、ついでにその他のことも見てくれる。じゃあ日記でも書いてみるか。そんな思いつきで、日記を書くことにした。

「こくら日記」のまねをして、「京都日記」にしようか、それとも「アフリカ日記」?「ニッポン日記」? いや、世界のどこにいても書ける日記名にしよう。じゃあ、「人類」だ。私が所属していた大学院の部局(人類進化論研究室)が、「ジンルイ」という略称で呼ばれていたことも少し影響した。変な生き物であるジンルイたちを見物して、ネタにしよう。それで「ジンルイ日記」と題して、身辺雑記をちまちまと書き始めた。ウェブサイト開設3日後のことである。何か、こういうことだけは当初からマメであった。

最初の日記はこちら。憲法第9条のことを書いている。今見れば、その日記の短いこと。ツイッターなどが存在していなかった頃のことである。

■その後の変遷
研究者たるもの、日本語だけで発信していてはいけない。英語版も作らないと。24日後の2003年11月23日に、英語版サイトを作った(当時の日記)。日記以外の大部分のコンテンツ、たとえば業績や行事報告などは「日本語でアップしたら、同時に英語でもアップする」を習慣にした。これは、今でも守っている。

ウェブサイトのもくじは、右と左に二分して色分けするデザインにした。私のつれあいが別に作っていたサイトを参考にした。トップの水色デザインの題字は、つれあいが作ってプレゼントしてくれたもの。

やがて、私は京大を去り、関学へ、東京外大へと転職。そのたびに、サーバを移動し、サイトを丸ごと引っ越しし、という作業が伴った。しかし、業績や活動報告はちまちまと書き続け、アホな日記も書き続けた。

広大なネットの片隅でちんまりと書いていたジンルイ日記だが、多くの人が記事に殺到したこともあった。今風にいえば、ツイートの炎上事件のようなもの。2007年頃に話題になった『バベル』という映画をめぐって、辛口の批評を書いたところ、あちこちでリンクが紹介され、ウィキペディアにも掲載され、匿名掲示板にも罵詈雑言を含めたいろいろが書かれた(この日記とかこの日記とかこんな日記も書いていた)。ツイートのような即時性がまだ一般的でなかった時代、固定ウェブサイトとメールを通じたのんびりしたやりとりで、それでもウェブで議論を喚起することができるのだと知った。

それにしても、私が書く内容や文体は、8年前も今もちっとも変わらない。怒り方も、まったく変わらない。今ではツイートの速報性が加わって、みなさんの反応が激烈に早く見えるようになったという違いがあるくらいである。

■蛮勇をふるってフランス語版を開設
大きな変化は、2013年。西アフリカのコートジボワール共和国アビジャンに滞在中のことである。現地で大きな学術大会を企画し、調査報告をして、大変よい成果が上がった。こういうアフリカで地道に行っている学術活動は、どんどんウェブに上げて、世界にその存在を知らしめないといけない。で、何語でアップする?

日本語で? 英語で? それもいいけど、集会のために準備した資料はすべてフランス語なのである。お世話になっているアフリカの友人たちには、フランス語のまま届けたい。かねてから、アフリカの人たちには「君の情報は英語と日本語ばっかりだ」と文句を言われ続けてきたのだ。

うーん…。フランス語、人様にお見せするのはちょっと自信がないかなあ…。という躊躇は少しあった。しかし、フランス語圏の街アビジャンに暮らしていた当時の私は、ちょっと気が大きくもなっていた。ええい、少々間違いがあってもかまわない、恥をかきながらでも自分のフランス語をさらして、情報を発信しながら直したらいいことだ。何より、アフリカの片隅で、フランス語を使ってちまちまと地道に共同研究を進めていることが、世界に認知されていないことの方が問題なのだから。

えいっ!と、蛮勇をふるって、フランス語で書いた自分の資料をウェブにさらしてしまった(当時の日記)。その時、私は、あるアメリカ人の日本研究者のことをちらりと思い出していた。本人の母語でない日本語で、少しだけ文法的/表現上の誤りがありながらも、勇気をもって日本語のウェブページを公開している。その姿勢は、私の背中を押してくれた。間違いがあっても、もういいや、と開き直った。それこそアフリカの友人たちは、みなバンツー系諸語などの母語をもちながらも、第2言語としてフランス語を学び、それで堂々と仕事をしているのだ。私もそういう者のひとりでありたい、と思った。

英語版の分室のような形で、発足から9年4か月半後の2013年3月14日に始めたフランス語サイトも、2年半の間にちまちまとページを増やして、すでに20種類ものウェブページを構えるまでになった。英語版を作った時と同じように、「日本語で加筆したら、原則、同じことを英語でもフランス語でも加筆する」という態勢をかたくなに守った。

これは、二つの意味でよい効果があった。ひとつは、研究者としての姿勢確立によかった。日本語では、勤務先、出資者(科研費など)、一般読者に向けて報告ができる。英語で書くことで、世界一般に向けて自分の業績を示せる。そしてフランス語で書くことで、お世話になっているアフリカの人たちに報告ができる。二つ目に、頭の整理のためにもよかった。3言語同時更新によって「日本語圏で活動を閉ざす」ことを自らに禁じたため、「英語やフランス語で表現できないような曖昧なことを、日本語でも発信してはならない」という、かなり強力な戒めになった(ジンルイ日記だけは例外。これを常に3言語態勢でやろうとしたら、とてもじゃないが仕事ができなくなるので、これだけはご勘弁)。

■手打ちHTMLの流儀
開設当時から今まで、一貫してガンコに続けていることがひとつある。それは、「ファイルはシンプルテキストを用い、すべて手打ちのHTMLで作る」ということである。<...>といったタグを、今も自分の手で打っている。この日記も、そうやって書いている。もっとも、インターネット創成期には、大学の(おもに自然科学系の)研究者たちが、自分でシンプルなHTMLでサイトを手作りすることは、むしろ当たり前のことであった。あまり凝らないシンプルなデザインをよしとするその当時の息吹を、何となく覚えている世代に私も属している。

12年のうちに、いろいろな環境の変化があった。日記開始後、ブログという形式が広まり、多くの人たちが日記のようなものを書き始めた。以前から日記を書いていた私には、後追いのようにも感じられたが、やがてブログの方が一般的になり、私のテキスト上の手打ちHTMLの日記までもが「ブログ」と呼ばれるようになった。

ウェブサイトも、プロのデザイナーが作るものが増え、素人は設計せずに内容を更新するだけ、という時代に移行した。凝りに凝ったデザインと機能が山ほど付いて、小うるさい慣行も増え、アマチュアが手作りしたシンプルデザインのサイトはむしろ少数派になった。

やがて、Facebook が登場、Twitter も登場。人びとが自分のことを容易にウェブ上にさらけ出すようになった。Twitter は短くて速報性があるので私は愛用しているが、Facebook の方は完全放置状態。このウェブサイトの手打ちの態勢を、他のサービスに全面移行する気になれない。これまでの膨大な蓄積があるということもあるが、新興サービスがいつ滅びるか分からないという思いも少しある。おそらくは普遍的な様式として残り続けるだろう「テキスト+手打ちHTML」は、手元に技法として継承しておきたいのだ。

停電になっても生活できるように、いつでもろうそくとマッチを家に置いておく、みたいな感じかな。「伝統工芸としての職人的HTML手打ちウェブサイト」。今後どんな便利なサービスが出てきても、自分のところでだけはしばらく続けてやろうと思っている。

ちなみに、Twitter に参入したのは、2009年12月25日だった(最初のツイート)。手打ちウェブサイト開設から6年経ったクリスマスの日のことである(当時の日記)。それから数えても、すでに6年経った。ツイッターは情報の断片を流して人びとの反応を見るためのもの。ウェブ日記はまとまった見解を保存しておくためのもの。何となく、使い分けを模索し続けて、今にいたっている。

というわけで、今月も終わり。


2015年10月24日 (土)

■政策の決定権はだれの手に: エレベータのふたつのボタン

今週は、行事が多くて忙しかったですよ。

月曜日:
嘉田由紀子・前滋賀県知事講演会「アフリカでのコップ一杯の水の価値発見から琵琶湖保全へ: 学者40年・滋賀県知事8年の経験から伝えたいこと」。学者出身の政治家が、「いかに」だけでなく「なぜ」の姿勢を活かして社会を変えていく。その姿勢に感銘を受けました。事後の懇談でうかがった「関西政界裏話」も、いろいろとおもしろかったです。

火曜日:
ゲストの羽田野真帆さん(特定非営利活動法人・名古屋難民支援室 (Door to Asylum Nagoya))を招いたワークショップ「社会調査と倫理: 難民支援の事例を通じて」。些細な情報を入手して公開することが、実はひとりの人生や家族の運命を変えるくらい大きな意味をもつことがある。そういう繊細なマターを扱う現場で、いかに情報管理と広報、周知、連絡などの活動をされているか。私も学ぶところが多かったです。今後、社会調査や映像制作に取り組む学生たちにも、インパクトがあったと思いますよ。

水曜日:
愛知県立大学国際関係学科における卒業論文中間発表会。気合いを入れて、残り3か月のスパートへ。みなさんがんばってね。

土曜日:
愛知県立大学公開講座「環境と資源から見る国際社会: 21世紀の世界と日本」、約80名の参加登録者とともに開講。第1回「人間と環境の共存の原点を見すえる: アフリカにおけるフィールドワークから」では、コンゴ在住の西原智昭さんを招いて、アフリカにおける野生生物保全を通じた資源開発と国際支援への鋭い問題提起をいただきました。生物多様性の話でありながらも、「私たちはアフリカのことを大いに誤解している」という人間の側の事情を鋭く突きまくっていたことに、大いに共感しました。うーん、アフリカの森は、まことに深いです。
【参考】西原智昭さんのツイッター(@Tomo_Nishihara)および Facebook

…といった具合で、入れ替わり立ち替わり来学されるゲストたちを応接しながら、私自身も受講生となって教えを受ける日々。楽しい1週間でした。

さて。今週の話題は、エレベータです。

5月上旬に右脚に重いケガを患ってから、半年。駅などで、エレベータを探して使うことが多くなった。

すぐに気付いたのは、「エレベータの設置場所が限られていて、それを利用するために相当歩かねばならず、大いに時間と労力のムダをする」ということである。「駅にひとつエレベータ付ければいいんでしょ、バリアフリーなんだから満足しなさい」とでもおっしゃるのかもしれないが。エレベータを使うために遠回りを強いられて、ものすごくめんどうくさいということが分かる。階段へのアクセスを奪われてみて初めて気付いた、この不便さ。

(その最たる例が、名古屋市営地下鉄東山線「名古屋」駅から改札へ、さらに地上に出て、JR駅にたどり着くまでの、あのありえないほどの遠回り。「エレベータを使うのをやめて、脚の痛みをこらえて階段で上ってしまった方がどれほど楽か…」と何度も思わされた。)

さて、文句はここまで。以下は、私が感銘を受けたエレベータの話を書きます。

毎日、通勤で使っているリニモ。この駅のエレベータは、いつも扉が閉まるのが非常にのろく、「閉」ボタンを押してもなかなか閉まらない。急いでいる時、こういう機械の鈍感さに、あせりやいら立ちを覚えることがあった。これは、ケガをする前からそう感じていた。

ところが。エレベータの中には、操作ボタンが2カ所にある。高い位置の「二足で立っている人が押すボタン」と、低い位置の「車いすユーザが押すボタン」。そして最近、経験から気付いたのだ。「二足の人ボタン」では速やかに閉まらない鈍感な扉が、「車いすユーザボタン」を押すと速やかに快適に閉まるのである。「え、何だこの違いは?」と、最初は奇異に感じられた。

やがて、じんわりと分かってきたのだ。そうか、このエレベータは「車いすユーザに決定権を与える、画期的な設計をしているのだ」と。

二足の人がいらだって、車いすユーザを無視して、素早く扉を閉ざして発進してしまうという選択肢は、与えられていない。一方で、車いすユーザが自分の意志でボタンを押すならば、扉を開け続けることもできるし、速やかに閉めることもできる。マジョリティがマイノリティを黙殺して見切り発車することを戒め、マイノリティには十全な自己決定権を与える、そういう時間感覚と権限配置の思想に基づいて設計されたエレベータなのである。これには、私は「身震いするほどの感動」を覚えましたよ。

この発見に私は感銘を受けたので、他の人に説明してみた。

「このエレベータって、健常者が高い位置のボタンを押しても反応が遅いけど、車いすユーザが低い位置のボタンを押すと早く閉まるんだよ」

相手の反応は、鈍かった。

「え、健常者が遅くて、車いすユーザが早いって、それ逆じゃない? 車いすユーザの方がゆっくり乗るのに」

いやいや、そうじゃないんだ。健常者に暴走する権限を与えない一方で、車いすユーザが同意すればそこで初めて物事が速やかに進められるように選択肢を設けているんだ、これこそフェアな決定権の配分ではないか、と。私は理論的に説明したかったが、その日はことばが足りなかったので、何かモゴモゴ言ってあきらめてしまった。説明は難しいけど、これって非常に重要なことですよ。

私は、このエレベータに乗りながら、井上ひさしによる架空の独立国小説『吉里吉里人』における「愚人会議」のことを思い出した。一般の国家においては、強い者たちが指導者となり、決定権を独占してしまう。しかし、本当に必要なのは、そうでない者がむしろゆっくりと決定することである。ということで、架空の理想国家である吉里吉里国では、障害などをもつ人たちのみによって構成される「愚人会議」が、その国の方向性を決めることになっている。学生のころにこの小説を読んで、そうそう、と膝を打ってこの着想に賛同したことをよく覚えている(引用者注:遠い過去の読書の記憶にもとづく記述なので、正確を期すためには原典をご参照ください)。

私が刮目した、エレベータのふたつのボタンにおける微妙な反応時間の差。強い者には「ゆっくり決定を強いる措置」を、そうでない者には「速やか決定を可能とする選択肢」を。これこそが、実は「政策の決定権はだれの手に?」という深淵なる問題の解決策をちらりとかいま見せてくれる、重要な事例となっている。エレベータに乗り合わせた私たちこそ、社会のひな形であるからである。

負傷した右脚を引きずって暮らしていたいらちな私は、以後、このエレベータに乗ったときは、だいたいの場合において「車いすユーザ用の早閉じボタン」を常用するようになった。しかし、かつてのただのいらちの私とは異なっていた。毎朝毎晩、それを押すたびに、「政策の決定権は、真にその決定権を必要とする人たちの手の中に!」という命題を、おまじないのようにつぶやくようになったのである。それくらい、良識的で教育的なエレベータであった。

人数の多い者たち、資産や雇用に恵まれた者たち、素早く動ける体力や腕力をそなえた者たち、知識や学歴をもつ者たち、たまたま所得水準の高い国・地域に生まれた者たち。こうした者たちが政策を決め、国際関係を決め、資本と財政と資源の使途を決め、それ以外の者たちを置き去りにするという、この現実世界。このアンフェアな事態にどのように向き合っていったらいいのだろう。世界の決定権は、いったいだれの手に。

私は、毎日、通勤のリニモの駅のエレベータに乗り、あえて車いすユーザのために低い位置に設置された「扉の早閉じボタン」をお借りしつつ、この問いを日夜かみしめ続けている。もの言わぬ、フェアネスを通すエレベータに感謝しながら。

■付記1:
学校などでグループワークなどをする時、聴覚言語障害をもつ学生や生徒が司会者になるとよい、という逸話を思い出した。つまり、音声から手話や文字への通訳があってもどうしてもワンテンポ遅れてしまうため、聴覚言語障害者が会話に参加できず置き去りにされてしまう、ということが起こりがちだが、その本人が司会者になればそうした事態を招かずに済むからである。「だれが全体のペースを決める決定権をもつか」という意味では、このエレベータの思想と同じ構造ですよね。

■付記2:
「メーカーは?」というおたずねをいただきました。現場の再調査。壁面には「MITSUBISHI」と書いてありました。

■付記3:
公言した以上、少し責任もありますので。日記を書いた2日後の月曜日の通勤の際に、エレベータ室内のあらゆるボタンを押して再実験してみました。新しい発見があり、実は軽い思い違いもありました。ここで書いたことのストーリーは変わりませんが、細部についての追加訂正記事を次の週末に書きますね(^^;;

■付記4:
室内ボタンの総点検をして分かった新しい発見を書きます。

リニモのエレベータは、基本的に、入口と出口が異なる「通過型のエレベータ」。「乗った扉の二足の人用『開』『閉』」はいずれも効く。「車いすの人用『開』『閉』」もいずれも効く。しかし「降りる予定の扉の二足の人用『開』」は効くが「その『閉』」は効かない。ということが分かった。だから、マジョリティの二足の人も、「後ろを振り返って操作すれば、開くことも閉じることもできる」が、「前を向いたまま操作するならば、開くことはできるが、閉じることはできない」。

つまり、マイノリティをきちんと振り返って見て配慮できる人の権限は大きいままだが、マイノリティのことを置き去りにして前のめりに突き進もうとする人の権限は制限されている。そういう意味では、「権力の暴走に歯止めをかけている」という比喩が一層如実に当てはまって、より意義深く、おかしみをも感じられたのであった。


2015年10月17日 (土)

■記録はだれのものか: ユネスコ記憶遺産と国家と市民の知る権利

変な夢を見た。近未来の20XX年。ノーベル賞を受賞する人物「該当なし」が続いている、というのである。

研究が停滞しているわけではない。その時代、実験もデータ解析も論文執筆もすべてがアルゴリズム化され、人間ではなく人工知能(AI)が担うようになっている。

人間の知的活動は、育成に時間がかかりすぎ、必ずしも優秀で分野適性のある科学者になるとは限らず、ミスも多く、さらに、途中で凹んだり、ハラスメントを起こしたり、金銭不祥事が起きたりで、効率が悪すぎる。AIがラボを運営したほうがはるかに効率よく成果を産出することができる。

いつ頃からか、ノーベル賞を人間ではなくAIが独占するようになった。さすがにこれでは人間たちの意欲をそぐということで、3名共同受賞のうち「1名を人間枠とする」という規定が設けられたが、結局は「人間の該当者なし」で空席が続いている。特別枠の意味なんてないやん、という話である。

そういえばさあ、昔は国別に賞の獲得数を競ったり、誇ったり、人間どうしの間でアホな競争してたよね。そもそももう人間が受賞できてないから、意味ないよね…(苦笑)。という乾いた笑いとともに、人びとは毎年の受賞発表ニュースをチラ見して、そして忘れていくのであった。

…という、奇妙に人間自己否定的、かつ脱ナショナリズム的な夢であった。

さて、夢から覚めて、現実に戻りまして。今週は、ユネスコの記憶遺産(Memory of the World)に関連して、記録と国家と個人のことを考えた。平たく言えば、「記録はだれのものか」という問いである。

2015年10月10日、ユネスコが、南京大虐殺の関連文書を記憶遺産に登録すると発表したことに関連して、日本政府がユネスコへの拠出金を停止するだの何だの、文句を付け始めた。それに刺激されてか、シベリア抑留と引き揚げの関連文書の登録に関して、ロシア政府関係者がクレームを付けているという。

はて。これまでのこの記憶遺産において、戦争や植民地関係の文書はどれほど登録されているのだろう。と思って、データをちらりと見てみる。

たとえば、アフリカにおける記憶遺産の登録の事例を見てみると、植民地支配やアパルトヘイトの歴史に関する文献がいくつも登録されている。

原典 (英語) >> [UNESCO: Memory of the World: Africa]
日本語による一部抜粋抄訳 >> [世界遺産資料館: アフリカの「世界の記憶」]

へえ、と思ったのは、アンゴラとポルトガル、ガーナとイギリスなど、旧植民地と旧宗主国が共同で申請しているタイプのものが含まれていることである。学術におけるヘゲモニーとか、共同研究者の影響力とか、裏側にはいろんな力関係や事情があったりするのかなとは思うが、それにしても、このように「負の遺産」とも言うべき資料が堂々と共同で申請され、登録されていることは、新鮮な印象とともに受け止められた。

そもそも、記憶遺産とは、散逸、破壊の恐れのある文書類を保管して電子化し、公開することをねらいとしている。そこに書かれた内容が史実であるかどうか、その思想や内容をだれがどのような理由で支持しているかなどは別として、むしろ、時どきの権力の恣意などによって破壊されるようなことがないように守り、多くの人びとがその記録にアクセスできるようにする事業である。

(ちなみに、ユネスコの文献では "Documentary heritage"(記録遺産)ということばが使われているので、「記憶遺産」というのはややニュアンスの変更を伴う訳し方である)

平たく言えば、記憶遺産とは「内容が正しくすばらしいもの」ではなく、「多くの人びとの目によって今後とも吟味され続けるもの」であると言える。

であるから、制度の趣旨から考えて、日本やロシアの政府が口を出してくるというのは、筋違いである。むしろ、そのような政治的圧力からこそ文書を守り、公開せねばならないとわたしは考える。おまえは中国政府の肩をもつのかと言う向きもあるかもしれないが、とりあえず今回の件(南京関係の文書の保存と公開を提唱したこと)については、その方針を支持したい。逆に、中国政府が自分たちにとって都合の悪い文書の破壊や抹消をはかったら、わたしはそれを批判する。同じ理由で、シベリアの文書の登録は支持するし、それを非難する向きがあればわたしは批判する。

「白い猫でも、黒い猫でも、記録を守り、公開して、人びとのアクセスを守る猫はよい猫だ」ということである。

すでに、何人もの研究者たちが指摘しているように、南京文書の内容に問題があるのかどうか、史実はどうだったのかは、公開された後の分析と批評を通じて明らかにされていくだろう。その結果がどう転ぶにせよ、人びとのアクセスを守るという点において、わたしはこのユネスコにおける登録を支持したい。

「その時どきの権力の恣意から記録を守る」ということ、言い換えれば、「後世にわたって市民の知る権利を守る」という趣旨に鑑みれば、侵略戦争や植民地支配、差別・隔離・虐殺、大量破壊兵器の開発と使用、大災害とそれへの対応など、いわゆる負の歴史の記録こそ、むしろ優先的に登録して、後世の批判をあおぐべきであると言えるだろう。

記憶遺産は、政府のみならず、個人や団体でも申請の登録ができる。アジアやアフリカで地域研究に取り組む人たちは、侵略戦争や虐殺、植民地支配に関する文献を、どんどんユネスコに持ち込もうではないか。日本の旧植民地関係の文書類なども(もし散逸を免れたものがあるなら)一括登録したってよいし、沖縄戦や原爆、大空襲に関わるものだって、遠慮なく世界に公開したらよいのである。もちろん、ベトナム戦争や、カンボジアのクメール・ルージュによる虐殺、文化大革命やスターリン独裁下のソ連の社会にも光を当てることができるに違いない。

ユネスコの政治利用? いえいえ、学問の自由ですよ。

国連に過大な幻想を抱いてはならないが、主権国家の政府「以外」に、人類の普遍性のために多少は働く機関が存在することは幸いであるし、わたしたちはそれらをうまく活用すべきであろう。それは、国民国家と政府を絶対視せず、相対化して、世紀をこえてわたしたち人間自身のことを見つめる契機ともなるからである。

さて、前半の「AIの悪夢」と、後半の「人間と記録をめぐる普遍性」の話の接点として。AIが支配する近未来の世界は、ナショナリズムが強化されるのかな、それとも限りなく薄れていくのだろうか。AIの権力どもが、また勝手に世界を複数の国家に分割して、ノーベル賞獲得競争を始めたり、都合の悪い資料を隠蔽したりするのかどうか。これは、なってみないと分からない(笑)。AIだからといって、常に普遍性に立って思考するとは限らないだろうからである。

10月も半ば。学生たちの夏休み明けの発表会などが相次ぐシーズン。後期が起動しつつあります。

■付記:記憶遺産における「真正性」について
「南京関係の文書に真正性がない」ということが日本政府ほか関係者の主張であるらしいが、文部科学省の紹介によれば、「真正性:記憶遺産の本質や出所(複写、模写、偽造品でないか)の確認。」であると言う。つまり、後世の捏造などであればこの基準ではねることはできるだろうが、その時代にその場所で作られたことが明らかであれば、内容はともあれ、モノとしては真正であるということになる。記述内容の細部(死者数が何人とか)の是非を問う基準ではないのである。

内容が史実であることまで要求し始めたら、グーテンベルク聖書だって、シベリア抑留資料だって、みなはじかれてしまうだろう、というこちらのブログの指摘は、妥当だとわたしも思う。

「その時代に、その場所で、その人たちによって作られた本や資料が今もここにある」という事実くらいさっさと認めて、内容の妥当性はゆっくりと世紀をこえてみなで精査していったらいい、という程度にとらえたいものである。


2015年10月10日 (土)

■ノーベル賞と日本人論

今週は、いわゆるノーベル賞ウィーク。月曜日から毎日一賞ずつ発表されていった。五つの賞に対して、月曜から金曜までかけて、小出しに発表する。日本で言えば夕方くらいの時間帯に、必ずニュースが流れる。明日はどうなるかと、予測の関心も高まる。この、話題を小出しにして注目を集め続けるやりかた、本当に広報がお上手だなあと思う(経済学賞は来週月曜日)。

今年も、日本人ナショナリズムが吹き荒れた。月曜日、のっけからの医学・生理学賞受賞(大村智氏)で、メディアが大騒ぎ。そして、火曜日の物理学賞で梶田隆章氏の受賞が発表され、報道がさらに加熱した。

水曜日以降の化学、文学、平和と続く受賞発表報道においては、本来の受賞者たちの紹介よりも「日本人受賞ならず」の方をトップに上げる記事が出るほど。日本の科学水準を誇り、その理由を何やら日本人の気質やら文化やらDNAやら、意味不明な根拠とともに持ち上げる言説も多く出現。ナショナリズム、ここにきわまれりの感があった。ノーベル賞が、いちおう人類における普遍的な貢献を目的に掲げているのとは、真逆の現象である。

「ノーベル賞受賞騒ぎとか見ていると、日本人てさ、ホント『日本人論』が好きだよね」
「ホントにね。日本人て単純だよね」

こうした加熱ぶりを冷ややかに眺める向きも存在する。しかし、笑ってしまうのは、このような言説それ自体が、すでに立派な「日本人による日本人論」になっているという図式である。多少冷静で、かつほんのり自虐の色がまざってはいるものの、「日本人」という単位でものを考えていることに、いささかの立場のずれもない。

ナショナリズムというのは、最近誕生した、物質的根拠をもたない一種の信仰の体系、つまり「新興宗教のひとつ」だとわたしは考えている。このように、ナショナリズムの加熱に対し距離を置いて批評する人たちも含めて、「個から発するのではなく」、「日本人として」考え始め、議論するという以外の選択肢をもちえない人が多く生まれることこそ、おそらく日本ナショナリズムが完成の域に達したことの証しと言えるであろう。「日本人」という世界観の殻の中にいるかぎり、世界をすべて説明できるかのようにも見えるので、それはそれで擬似的な普遍性を獲得しえているのであろう。しかし、殻の外から見れば、それは滑稽な姿、まさに「井の中の蛙」に他ならない。

ホモ・サピエンスの一部が寄り集まって、吹きだまりのなかで「日本人」たる自称を叫んでいる、という現象それ自体は、別に無害なので放っておけという立場もあるかもしれない。それはそれで、けっこうではないかと。ただ、それは自己決定としての自称の選択ということに留まらない構造の中にある。それを異質なる集団として描き、扱い、もてあそぶ、オリエンタリズムのまなざしの中にからめとられていることに気付いておきたいと思うのである。

「日本人てすばらしい」「いや、日本人てどこか変だ」…内容の是非はともあれ、こうした単位で物事を発想し自ら議論するこの人びとと言説の塊が、まるごと、ショーケースの中に収められて世界の標本になっているという構造を、ちらりと想像してみることは必要だ。

人びとを標本として閉じ込め、それを観察する側になれ、とまでは言わないが。少なくとも、そのような構造に気付いた人が、観察される標本になることを志願しない選択の自由はあるはずである。

というわけで、今週の日記は、ノーベル賞、日本人論、新興宗教としてのナショナリズムの三題噺で書いてみました。

後期授業が始まって1週間。授業も一巡して、ようやくエンジンも温まり始めましたというところです。

【資料】
世界における日本の研究の動向と今後のノーベル賞受賞予測については、こちらの記事がおもしろかった。データに基づくならば、今後10年が日本における最後のきらめきになり、後は中国の天下になりそうな予測です。

豊田長康「はたして日本は今後もノーベル賞をとれるのか?」BLOGOS, 2015年10月9日.

それにしても、日本の研究の劇的な右肩下がりは、注目に値しますね…。要因は複雑でしょうが、分析に値する現象と言えます。


2015年10月4日 (日)

■イソップ童話「ガチョウと黄金の卵」風「もんかしょう男とだいがくガチョウ」

もんかしょう男は、金のたまごをまいにちひとつしかうまないだいがくガチョウに、たいそういらだっていました。

「おまえ、なんでこれしかろんぶんが出ないんだ? きっと、おなかの中にたくさんかくしているにちがいない。どうしたらまとめて手にいれて、大もうけすることができるだろう?」

「そうだ! ガチョウのおなかをひらいて、中からもっとせいかを出させよう!」

こうして、もんかしょう男はナイフをとり出し、何ということでしょう、いやがるだいがくガチョウをむりやりおさえつけて、おなかにナイフをさしてしまったのです。

ところが、おなかの中に金のたまごはひとつもありません。

「なんてことだ! せいかがひとつもないなんて。」

金のたまごは、おなかの中にはじめからたくわえられていたわけではありません。だいがくガチョウがまいにちえさをたべ、にわをかけまわり、あそんで、けんこうにくらしてきたことが、ろんぶんをまいにちたしかにうみつづけるひけつだったのです。しかし、気がみじかくよくのふかいもんかしょう男は、そのことをしらず、だいがくガチョウにナイフをさしてしまいました。

おなかをさされただいがくガチョウは、みるみるよわっていきました。もんかしょう男は、青ざめます。

「たのむ、だいがくガチョウ、しなないでくれ。これからもろんぶんをすこしずつうみつづけてほしい。おれがわるかった…。」

しかし、もう手おくれでした。だいがくガチョウはしずかにいきをひきとります。もんかしょう男は、なにも手に入れないばかりか、だいがくガチョウもしなせてしまい、すべてをうしないました。

もんかしょう男は、あたまをかかえて、かなしみにくれます。そして、じぶんのおろかしさとよくふかさと、かるはずみなおこないをふかくくやみました。しかし、もう、おそかったのです。

こうして、もんかしょう男は、村でいちばんのふこうな人になりました。

■れんしゅうもんだい「かんがえてみよう」:
・もしあなたがもんかしょう男だったら、だいがくガチョウに何をしようとおもいますか。
・もしあなたがだいがくガチョウだったら、もんかしょう男に何を言おうとおもいますか。
・このおはなしからあなたがまなんだことを、みぢかなことでかんがえてみよう。がっこうのクラスの友だちとはなしあってみよう。

(おわり)


2015年10月3日 (土)

■2015年、久しぶりの国内での夏休みを振り返る

2015年の夏休み。脚のけがなどで心身の不調もありまして、久しぶりに、一度も海外に行かない2か月の夏休みを過ごしました。

ちなみに、夏休みに海外出張しなかったのは、このページの記録によれば、6年ぶり。そうかー。2009年。当時、東京外大在職中でしたが、就職活動中でもあり、海外調査よりも執筆の業績を積まねば、と、単著をふたつ、編著をひとつ、がしがしと作っていたのでした。

その頃、妻は常勤職、夫は非常勤職。ほぼ毎日が主夫の暮らし。朝に洗濯し、昼に掃除し、夕方にご飯作って、エプロンしながらひたすら毎日原稿を書いていた。思い起こすと、懐かしい。

この夏休みを、ざっくり振り返る。

■8月上旬
アフリカ現代史の勉強にのめりこむ。

なぜかというと、みなさまご存じかと思いますが、ヒロシマ、ナガサキに落とされた原爆の原料であるウラン資源は、おおむね、中部アフリカ、当時のベルギー領コンゴにおいて採掘されたのです。アフリカと日本を結ぶ、最も不幸なつながりです。

そういうことをツイートでブツブツと発信せずにはおれないこの季節。背景をより詳しく知りたいと思ったこともあり、コンゴ盆地をめぐる20-21世紀の通史を読み込みました。コンゴ自由国とベルギー領コンゴ、独立とコンゴ動乱、ルムンバの虐殺、ゲバラの参戦、モブツ政権樹立から1997年の革命と今日に至るまでの紛争史、「混沌」と言わずにはおれないコンゴ民主共和国の状況についても、ざっくり解説できるほどの知識を得ることができました。

■8月中旬
日本の太平洋戦争を中心とする、第二次世界大戦史の勉強にのめりこむ。

言うまでもなく、戦史報道が増える季節。とくに、70年という記念年であることもあって、毎日が「大日本帝国が滅びゆくカウントダウン」のように思えてきて、地政学も含めてそれなりに勉強しました。とくに、わたしの興味の中心は「日本一国史」ではなく、グローバルな観点での「世界の植民地支配と解放の歴史」なので。日本軍による「北部/南部仏印進駐」あたりの、日本史的な扱いは地味ではあるが、世界史的にはかなりやばいターニングポイントであったあたりのことを学びました。

個人的には、
(1) 日中戦争に深入りせずに引きぎみにしておいて、
(2) ナチスドイツのヨーロッパ戦線に対して局外中立を保っておく
のふたつをかたくなに守るだけで、数百万人の死者を出さずに済んだような気がしますが、どうだろう。

それこそ、日本はナチスドイツと同盟組んで何かいいことあったの? いったい、何してもらったのさ? というのが雑な印象ですが、ここではそのくらいで。

■8月下旬
第8回世界アフリカ言語学会議(WOCAL8)@京都大学。手話言語分科会に参加しました。

本来であれば、これを主催する側にあるべきだったのですが、心身の不調で沈没。埋め合わせてくださった各位に感謝しています。もう今後何年も、頭が上がりません。開催直前になって這うように京都に出かけ、来日したコートジボワールのろう者ゲストとともに基調講演をこなし、当日は少しばかり分科会の運営を手伝うことができました。この頃、学会のためにエネルギーをしぼり切ってしまった。終了後は、相当にへたりこむ。以後、約1か月、再度沈没。

■9月上旬
指定暴力団の現代抗争史を、つらつらと学ぶ。

とある分裂劇のニュースに接し、法で規制しにくいこのような人間社会の動態はいかなるものかと、それなりにまじめに読みました。単なるアウトローのゴシップとしてではなく、表の日本現代史との接点、それから、人間集団における普遍的な権力闘争の歴史と重ね合わせて、理解しました。

今日、さも立派そうな顔して、国家でござい、政府でござい、君主でございと権威ぶって言っている者どもも、多かれ少なかれ、そのルーツはアウトローの実力闘争で成り上がってきた者たちなわけですから。そして、今も剥き出しの暴力で領土と人びとを支配しているという意味では、まああまり違いもないのだし。国際関係論の観点を重ね合わせつつ、いくつかの理解を得ることができました。なお、わたしが学んだ情報源は、すべて公開されているものです。公開されたニュースをこだわりをもって読み続けるだけで、相当の知識を得られるものだという経験をしました。

■9月中旬
安保法案をめぐる状況が緊迫化。

ツイッターのタイムラインがその話題でぎっしりと埋まりました。わたしは、自分/たちの安全を守りたいという一般的かつ根源的な願望に共鳴しつつも、

(1) 「個人の安全保障」を「国家の安全保障」と完全に同一視する論理に、わたしは与しない。
(2) 集団的自衛権を容認する政策は違憲であり、法案の内容は憲法が定める政府の権限を逸脱している。
(3) 立憲主義の破壊。政府に白紙委任状を与える法を通してはならない。
(4) 政府与党側の政治家の言説が一貫しておらず、真摯に答える意志をもたない。
(5) 審議の過程が強引であり、少数派意見をまったく尊重していない。

これらの各点に鑑みて、この法案の可決成立を急ぐ動向に対して反対の意志を開示しました。法案は成立しましたが、これからいくらでも無効化する方法はある。したたかにいきましょうと提言しました。

■9月下旬
難民の話題が浮上。

シリアを中心とした難民の存在がクローズアップされます。「国家」を守ることにこれだけ熱心であった政府が、「個人」を守ることに対してはこれだけ冷淡になりうるのか。「世界の平和への貢献」とは言うものの、結局「国家」を守ることにしか興味はなく、「個人」を守るつもりはないのだなと見て悟った次第です。国家を守ろうとして個人の命を犠牲にした、沖縄戦ほかの凄惨な経験から、わたしたちは何を学びうるのでしょうか。安保法制の議論の直後だけに、その落差が印象に残ります。

「人間の安全保障」という概念を、お行儀のよい開発業界/外交界のことばとしてでなく、国家と個人の関係を根源的に問い直し、個人が国家から主権を取り戻すための闘いに資することばとして再浮上させたいものだと考えている。

以上、まとめれば、

・前半:アフリカとアジア太平洋と日本国内における、紛争の現代史を振り返る
・後半:それをふまえて、これからの「国家」と「個人」の安全保障を考える
・その合間に:専門であるアフリカ手話言語の議論をして勉強する

といったところです。なんか、紛争まみれの2か月でした。

わたしは、政治学、国際関係論、地政学などの専門家ではありません。しかし、「文化の差異」や「文明の衝突」を口実にして、あたかも回避できない運命であるかのごとく対立や衝突を容認し、むしろ煽動し、再帰的に(!)人びとに異なる者たちへの敵意を植え付けて、それを政治的に再利用するような言説を、座視して容認することはできません。これは、文化人類学者としての矜持でもあります。

文化と文化人類学者は、これまで、かなりなめられてきた。文化を語ること自体がそもそも軽視されてきたし、たまさか政策のファクターとして注目されたと思いきや、アパルトヘイトを成立させる根拠に流用されるといったふうである。権力者はどうせ文化などに大した価値を認めていない。そのくせ、一般人をだまし、幻想を振りまき、共感を得る上では、「文化」は便利な装置だと思われている。

冗談じゃない。

政治的煽動としての「文化」にだまされることなく、おのが手中にある決定権においてたゆまぬ文化の実践を。文化を営む自由と、状況に応じて文化を改変し、また離脱・越境する自由と、それら文化の営みを権力に簒奪されない抵抗の自由を。そうした試みに同伴する学としての文化人類学を。

そういう、心の底からの怒りが、この2か月のわたしの学びのスタイルの底流にあったと思われます。

脚にけがして、自宅で静かにしていると、いろいろと考えが及びますね。とりあえず、以上。



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