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亀井伸孝の研究室
亀井伸孝

ジンルイ日記

つれづれなるままに、ジンルイのことを
2011年12月

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最終更新: 2011年12月31日
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■マイ重大ニュース2011 (2011/12/31)
■2011年12月のまとめ日記 (2011/12/30)
■無理ーくりすますの三連休 (2011/12/25)
■「価値観が多様化」ってホントかな (2011/12/18)
■かけもちジンルイ学者の夢 (2011/12/11)
■ひとつといくつかといろいろ (2011/12/10)


2011年12月31日 (土)

■マイ重大ニュース2011

ユーロ100円割れ!のニュースをちらちらと横目に見ながらの大晦日。いろいろあった今年一年を振り返っています。日記を抜粋しながらの、マイ重大ニュース。

(1位) 愛知県立大学に着任
愛知県立大学 3月、大阪国際大学の任期制准教授の職を辞し、4月に愛知県立大学の准教授の職に移りました。はじめてアフリカの文化人類学の専門の職に就いたこと、はじめて任期のない辞令をもらったこと、はじめて名古屋圏に引っ越したこと、いろいろがはじめてづくしです。

任期付きの職を転々とすること、9年(長かったなあ)。これからは少し落ち着いて、研究・教育に励もうと思います。

大阪国際大学の学生のみなさんには、いきなりの転職で心配や不便ををかけてしまったな。こちらには、1年間非常勤講師として通う日々となりました。受け持っているゼミ生6人の卒業論文完成まで、もう少しお付き合いが続きます。

【関連日記】
■やりたいことは1年目からやろう (2011/06/30)
■はじめての「学生自主企画研究」の応援 (2011/06/14)
■長久手古戦場の近くの職場 (2011/06/03)
■新しい職場での1カ月 (2011/04/30)
■いばらがばさま! (2011/04/18)
■「育む」ということへの思い (2011/04/13)
■非常勤講師として大阪へ (2011/04/07)
■愛知県立大学に着任 (2011/04/01)
■大阪国際大学を辞するにあたって (2011/03/31)

(2位) 『支援のフィールドワーク』刊行
支援のフィールドワーク 日本福祉大学での共同研究をもとにした論文集『支援のフィールドワーク: 開発と福祉の現場から』が、4月に刊行されました。私にとっては、2冊目のフィールドワーク論の作品です。

関西学院大学での共同研究の成果『アクション別フィールドワーク入門』刊行から約3年。日本福祉大学に共同研究の場を変えて、前作の「読者」の層を仲間として加えつつ、新しい発想で作った新手の調査論/支援論になったと思っています。よい読者に恵まれて、次なる飛躍のきざしがちらりほらり。来年も、引き続き忙しくなりそうです。

【関連ページ】
『支援のフィールドワーク: 開発と福祉の現場から』

【関連日記】
■文化人類学会で分科会「支援のフィールドワーク」開催します (2011/06/08)
■困難な状況だからこそ日常を守ること (2011/03/16)
■日本福祉大学ワークショップ「『場』から拓く支援とフィールドワーク」 (2011/03/09)
■共同研究と冷蔵庫 (2011/03/04)
■『支援のフィールドワーク』校了! (2011/02/25)

(3位) トーゴでの現地調査、交通事故
8月から9月にかけて、西アフリカのトーゴ共和国で、はじめての現地調査の機会を得ることができました。

滞在期間のほとんどは、有意義に楽しく過ぎていったけれども。帰国の2日前に、バイクタクシーから地面に振り落とされて全身を強打するという事故に遭い、ケガをして病院に運び込まれる経験をした。いやあ、あれは痛かったし、怖かった…。

顔と手と足腰はたいへんな目に遭ったけれど、命と頭と内臓には別状なかったこと、旅の同行者だった牧師さんほか現地のみなさんのおかげで緊急手当を受けられたこと、いずれも不幸中の幸いだったし、アフリカの人たちの優しさも身にしみて感じました。

これのせいで、今年の後半は仕事量を大幅に削減。各位にはご迷惑をおかけしました。すみません。

【関連ページ】
調査歴(2011年)

そのほかのニュース。

・東北大学・静岡県立大学での集中講義
・カメルーンの森からゲスト来日
・愛知県立大学国際関係学科「フィールドワーク・フェスタ」開催
・岩波書店『途上国障害者の貧困削減』学会賞受賞
・「アフリカ子ども学」始動

など。

今年一年、お引き立てくださいました各位に、あらためまして心よりお礼申し上げます。来年がみなさまにとりまして、さらにすばらしい年となりますように。


2011年12月30日 ()

■2011年12月のまとめ日記


2011年12月25日 (日)

■無理ーくりすますの三連休

ホワイト・クリスマス 聖夜の週末、みなさまいかがおすごしでしたでしょうか。

12/23 金休
12/24 土
12/25 日

という、近年めずらしいクリスマス三連休となりました。

うわあラッキー♪と、どこかに旅立っていった人たちもいれば、ざけんなばーろーとばかりに、3日間連続でバイトを入れまくった人たちもいる。みたい。学生たちから聞こえてくる話だけど、人生いろいろ、聖夜もいろいろ。

大学では、金曜日は通常授業日。私は結局、最初は仕事、まんなか家族で、それでまた仕事、という感じ。中部マナカと関西ピタパと関東パスモと新幹線EX-ICカードを、あちこちの改札でピコピコ言わせながら、東奔西走右往左往する3日間でした。

12月25日、雪の降る夜の長久手キャンパスに帰ってきて、出張の荷物を解き、そして〆切に関連する書類にカバンを詰め替えて、それでまた自宅に帰って。かなり無理矢理の行程です。

降りしきる粉雪のように、今宵、みなさまに幸せが降り積もりますように。(さぶっ)

May your days be merry and bright,
And may all your Christmases be white...


2011年12月18日 (日)

■「価値観が多様化」ってホントかな

「今日では、人びとの価値観が多様化しているため…」

よくある決まり文句、説明の根拠。企業が売り上げを落としたりしたときに、よく使うことばです。マスメディアの記者もよく使いますね。でも、ホントかなって思う。

私が学生の頃に徹底して叩き込まれたのは、「量でものを言いたいなら、必ずデータを示せ」ということ。

「より多い」「より大きい」「より強い」「より長い」「より太っている」「より深刻である」…

何でもいいけれど、比べて何か言いたいならば、ふたつの数を出してみせなさいと。数も示さないくせに、量的な物言いの権威だけ借りるのはフェアでないと。そういう感覚が内面化されて、今にいたっている。

「価値観が多様化している」と言いたいなら、どうしたらいいか。時代ごとに人びとの価値観の数を何種類だと数え、たとえば100年前と現在とを比べてみて、「価値観の数が、なんと3種類から12種類に増えました!」と言ってみる。なるほど、そうであれば明快な命題となるけどね。そういうデータを、私は見たことがない。

ひとつの番組(たとえば「紅白歌合戦」など)を見る人の割合が減ったとか、同じ商品(たとえば雑誌など)の購買層が小さくなったとか。そういうことが、何となく「価値観の多様化」の根拠になり、また、結果にもなっている。テレビのチャンネルがいくつあるか、類似の雑誌がいくつあるか、という分析がないままこういうことを述べても、意味がない。

分野を変えれば、「価値観のものすごい画一化が進んでいる!」と言うことだってできる。子どもたちは、かつていろんな生業のために時間を使っていた。狩猟をし、芋掘りをし、田植えや養蜂や牛追いをして、あるいは物売りや芸能、丁稚奉公や物乞いに時を過ごし、そのままおとなになっていった子どもたちがたくさんいた(国によっては今もたくさんいる)。それに比べて、みんながみんな週5日間の昼間に学校というところに通うのが当たり前だと思っている、これはおそるべき画一化ですよね。子どもたちの生活の選択肢は、実に少なくなっている。そこだけ見れば、「価値観の画一化」の証拠にもなるのである。

個人に選択肢が多く与えられ、それを選ぶ自由がもてれば、人数はばらける。このことは、「価値観の多様化」というよりも、「選択肢の数に応じた人数の分布変化」と言うのが適切である。選択肢がなければ、みな同じことをする。それだけのことである。

「テレビの分野では選択肢がいくつあり、人数の分布はこうなっている」「○○の商品の分野では選択肢がこうで、分布はこう」「いろんなところに人が分かれちゃって、最近は集まりが悪いなー」、そういうふうに率直にものを言えばいいのです。「価値観の多様化」などという、それ自体が根拠であり同時に結論でもあるような一文を、論理的な文章に混ぜ込む余地はありません。

そんな文章が出てきたら、私は「証拠は?」と聞き直しますよ。それが学生のレポートであっても、マスメディアの記事であっても、そして、企業の減収の言い訳であっても。


2011年12月11日 (日)

■かけもちジンルイ学者の夢

この週末、三つの共同研究の行事をかけもちするという、あわただしい日々を過ごした。

ひとつは、数学者に関するもの。ひとつは、国際開発に関するもの。そしてもうひとつは、人類の進化に関するもの(※)。

どれも、人類学の集まりである。私はいずれも大事なテーマだと思っているし、優先順位を付けることなく尊重しようと思う。ただ、かけもちをしながら、ふと感じたことがある。

(1) みんな、目下取り組んでいることが大事。ことばが通じる自分の仲間が大事。

(2) 「人類学」ということばが、それぞれの分野の都合に合わせて使われている。

(3) 全体に通底する「人類学的なるもの」は、とりあえず見当たらない。

「人類-学」(anthropo-logy)は、人類に関するナンデモ学。そういう視座がかつてはあった。それを今の時代にやることは、ちょっとチャレンジングでもある。みんな自分の専門と地域とことばと仲間をもち、お行儀よく住み分けているから。

私は、しばらくはかけもち人類学で様子を見ようと思う。「方法的な素人」と言ってもいい。どこに行ってもそんなに煙たがられたりはしないから、勉強させてくださーいと言って、教えを請うて回る。得がたいご縁に、感謝している。

でも、実は「かけもち」のままでいいとは思っていない。場所ごとに専門性とことばと顔つきを変えるほど、私は器用でもないから。何でもまとめて面倒みられる、雑食性=汎用性のあるツールとして、人類学をよみがえらせたいと思っているからである。

人間を理解するためには、手段を選ばない。そういう者に、私はいつかなりたい。そんな夢を見ながら、かけもちジンルイ学者はあちこちで修行を積む日が続いている。

(※)数学者研究は、私が学生の頃に数学にのめっていたことに由来するもの、
国際開発の分野は、アフリカのろう者と手話の調査に携わったことから派生したもの、
人類の進化については、狩猟採集民の子どもの行動研究をきっかけとしたもの。

というふうに、ふわふわした壮大な理念的研究に見えるものも、それぞれ何年間か時間をかけてじっくりと付き合った、ベタな長期調査の素材に根ざしています。

こういう、本人自身が想定していなかった「もちネタの"意図せざる結果/その後の転用のされ方"」は、科学論の観点からも実はとてもおもしろいと思っています。まあ、そのへんはまた日をあらためて。


2011年12月10日 (土)

■ひとつといくつかといろいろ

「ひとつしかできない人」は、リスクに弱い。ぶつかったら、こけてしまうから。

「いろいろできる人」は、なめられる。何でもしてくれる便利屋さん、ということにされてしまうよ。

だから、私は「いくつかできる人」くらいがいいと思っている。リスクに強く、こけても立ち直りが早く、それでいて安請け合いもせず、自分を見失わない。

いろいろ何でもできますよ、という看板を掲げるのではなく、いくつかの人に。なりたいと思います。これまでいただくことができている、そして、いずれはいただけるかもしれない、いくつかのご縁を大切にしながら。



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